「この愚か者が!!!」
轟雷のような怒声が降ってきて、正座した紫王、更には彼の背後に控えた仁と清美もびくりと身を震わせた。
「だから、あれほど城にいろと言っただろうが!!! 自分たちの手で何とかするのどうのとぬかしながら、むざむざ瑠璃をさらわれおって!!!」
怒声の主、陀牟羅婆那がじろりと紫王を睨み下ろすと、紫王はますます身を縮め、震わせた。いつものように怒鳴り返す元気は、今の紫王にはない。
幻の神楽森城、一の丸の広間の一角に、紫王は臣下の仁と清美ともども呼び寄せられていた。
瑠璃は無論いない。
霊泉居士に誘拐されて、一向に行方が知れなくなっている。
仁の鼻で匂いを辿るにも、神楽森市中は霊泉居士の匂いが充満し、そんなことは不可能だった。かといって、仁以外の二人に探索に役立つような妖力がある訳でもなく、結局彼らは天椿姫の妖力を感知する高度な技を頼ることにしたのだ。
しかし。
当然のことながら、そのような致命的失態は、歴戦の阿修羅族の勇士・陀牟羅婆那の逆鱗に触れた。
「分かっているのか紫王。お前の、つまらぬ意地の結果がこれだ!! 瑠璃は今、お前の愚かしさの埋め合わせを強制的にさせられているのだぞ!! 自分の実力もわきまえず、口先だけの言葉で守るだなんだとぬかしていたのがこのザマだ!!!」
情け容赦ない父の言葉に、紫王はただうつむくばかりだった。膝を握った、父のそれと似た指が震えている。父の言葉に勢いを付けられた自責の念が、紫王を苛んでいた。
自分は、馬鹿だ。
全く、父の言う通りだ。
いくら何度も両親に負けているからといって、霊泉居士は千年の功を積んだ妖術使いには間違いないのだ。圧倒的に経験の不足している自分に、そう簡単に太刀打ちできる相手ではなかったのだ。
もし、自分たちで動くにせよ、せめて瑠璃は城に置いていくべきだったのだ。
後悔は見えない針のように、きりきりと紫王の心臓に突き刺さる。
血を流すその傷の痛みに集中すれば、浮かぶのは瑠璃の顔。
自分は、こんなにも瑠璃を愛していたのだと、今更ながらに紫王は気付く。
瑠璃。
「お前様、紫王に瑠璃を連れて行くことを、結局許可したわらわたちにも咎《とが》はある。紫王ばかり責めるのは酷じゃ」
殊更穏やかに割って入ってきたのは、紫王の母親、天椿姫だ。
先ほどから預かった紫王のスマホに術をかけていた天椿姫は、ようやくひと段落ついたらしく、息子に声をかけた。
意外にも、妖気や霊気などの「気」と電磁波は性質が似ている部分があるのだという。天椿姫くらいになると、妖術を使って通信機器の電波を辿り、発信元を逆探知したりといったことは可能であるらしい。ましてや、今日日のスマホには位置情報システムが標準で付属している。
紫王には何をどうやっているのかさっぱり分からないが、とにかく、妖術で通信機器及び電波を解析し、その位置を解析することを、紫王は母親に依頼していたのであったが。
「紫王。瑠璃の居場所が分かったぞえ」
あっさり放たれたその一言に、紫王の顔が輝いた。
さながら、刑場に引っ立てられていく途中に、不意に恩赦の知らせを受けた死刑囚であるかのように。
「お袋……!! 瑠璃は、瑠璃はどこにいるんだ!?」
掴みかからんばかりの息子に対し、天椿姫は冷静に受け答えた。
「この、送られてきた瑠璃の画像の背景からして、多分病院の類に閉じ込められている訳ではなかろうとは思っていたが。これは妙なところを選んだ。考えたの」
「……妙な、ところ?」
紫王は怪訝そうに眉をひそめる。
「紫王。そなたには、『天奏寺《てんそうじ》の十抜《じゅうぬ》け』の話はしたことがあったかの?」
妙な響きの言葉に、紫王は一瞬考え込む。
「ええと、戦国時代の話だったっけ? 当時この辺を収めていた武将が、天奏寺って寺の地下に、神代のあちこちに通じた秘密の地下通路を作ったって話だったよな?」
それは、神代の地で生まれ育つ子供が、一度くらいは聞かされる、不気味な話の一つだった。
主に天奏寺という実在の寺から繋がる、入り組んだ地下迷宮の話。
市内中心部に痕跡が存在する、平城・|神代城《かみしろじょう》からも、天奏寺に抜ける石造りの地下通路が存在するという。
生き馬の目を抜く戦国時代、有事に備えて神代の地下一帯に施設されたその地下建造物は、幾つもの出入り口と敵の目を欺くための入り組んだ構造を持ち、まさに地下迷宮の名に相応しい規模の代物であったらしい。
無論、ただ単に大規模な地下建造物であるというだけの話ではない。
それにまつわる、妖怪がらみのあれこれの不気味な話も付属している。
曰く、敵に攻められ、この「天奏寺の十抜け」に逃げ込んだ時の領主が、そのまま内部で討ち死にし、悪霊化してそこに留まっているだの。
曰く、戦国時代に作られたのは「天奏寺の十抜け」のごく一部であり、もっと古い時代の宗教施設として、地下迷宮は存在した。そこの主となる妖怪が、未だにその場所に住み着き、住居を侵す者に祟りをもたらすだの。
曰く、後の時代に、「十抜け」の出入り口の一つということを知らずにその場所を購入し、地下貯蔵庫として使っていた商家があった。しかし、好き勝手に出入りする古い時代の亡者や奇怪な妖怪に音を上げて、高僧を招き、祈祷してもらっただの。
そんな地下迷宮に関する怪談は幾つも伝わっており、その中のかなりの割合が事実に基づいている。
表向きの世界――今日《こんにち》の人間たちの世界でも、この「天奏寺の十抜け」は貴重な歴史的建造物であり、出来得る限りの調査と保存が進められている。
しかし、「十抜け」の名の通り幾つもあった出入り口は、今やかなり塞がれており、実際にそこに潜り込むには、かなり経路と手段が制限される。ごく普通の、これといった資格を持たない人間には、まず不可能と言って良い。
「あそこか。確かなのか、天椿」
陀牟羅婆那が妻に鋭い視線を向ける。
「間違いない。この反応からするに地下で、そしてこの座標は『天奏寺の十抜け』以外にあり得ないじゃろう。送られてきた瑠璃の写真の背景を見れば、現代風の建物ではなく、確かに石造りの建物の内部じゃからの」
預かっていた紫王のスマホに送り付けられた画像を睨みながら、天椿姫は断言した。
「多分、部下との連絡用に、地下にも携帯電波が通るように細工したのじゃろうが、それが奴らにとっては仇になったかの……」
「……あるいは、罠、ということも有り得るな……」
陀牟羅婆那は金色の目をすがめて考え込む。
彼としては、正直忸怩たる思いもあるかも知れない。
天椿姫の夫である陀牟羅婆那は、その実力と立場、人間の宗教界への深いコネを利用して、この近辺一帯の妖怪たちの間の治安を統括している。少なくとも神代市に住まう妖怪たちは、伝説の阿修羅・陀牟羅婆那の名の元に、平和な生活を享受できていると言っても良い。
にも拘わらず、よりにもよって膝元に、宿敵の侵入を許してしまった。
それも、すでに身内といって良い、息子の婚約者、つまり義理の娘を誘拐されるという失態付きでだ。
これは陀牟羅婆那への露骨な挑戦。
そして、挑戦されて受けない陀牟羅婆那ではない。
ふと。
廊下を速足の足音が近づいてきた。
「陀牟羅婆那様、天椿姫様、申し上げます!!」
障子の向こうから、紫王たちにも聞き覚えのある低くて渋い声が響いた。
陀牟羅婆那のツテで、この神楽森城に入った夜叉、神弥迦《カミヤカ》だ。
「どうした。何事だ。入って申せ」
「は」
陀牟羅婆那が促すと、浅黒く精悍な男が、障子を開けて入ってきた。
「申し上げます。ただいま、神代市内に正体不明の妖怪が多数現れ、人間を襲っているようです。すでに、我が配下を数名、現場に向かわせましたが、間に合いません」
それを耳にした紫王は、仁、清美と顔を見合わせた。鋭い視線が飛び交う。
「更に、神代上空に、飛行型の妖怪が百匹程度侵入、こちらも我が配下と交戦中ですが、次第に数が増えているとのこと」
神弥迦は、更に付け加える。
元々青白かった紫王の顔が、大理石の彫刻のようになる。
「現在、市内の妖怪たちの被害は、人間たちの間で『通り魔が出没』と流布されております。ただ、上空の飛行型妖怪は誤魔化しがきかず……」
「戦闘班を全員、市中の妖怪討伐に向かわせよ。その際にも、人間社会に余計な騒ぎを起こさぬよう調整せよ。上空には……」
「わらわたちが出るしかあるまいの、お前様? わらわの幻術で、空を覆うしかあるまい?」
天椿姫に緊迫した声で促され、陀牟羅婆那は渋面でうなずいた。
「今日日、あまり大掛かりなことはしたくなかったが、仕方あるまい。しかし、そうなると、瑠璃を救出するのが……」
「俺が行く。俺たちが」
紫王が、父親を見据えた。
「これは明らかに、瑠璃を救出させないための細工だろ。だけど、これだけ出せば、霊泉居士の側だって、戦力が手薄になるはずだ。俺がその隙を突いて、瑠璃を助け出してついでに霊泉をブッ倒す!!」
強い声で断言した息子を、陀牟羅婆那が見返した。
「お前にできるというのか? 失敗すれば、瑠璃ばかりか、お前自身も危うくなるぞ」
「おい、クソオヤジ。俺が、自分が危ねえなんて理由で、自分の嫁見放すような男だと思ってんのかよ? もし、誘拐されたのがお袋だったら、てめえはどうしたんだ」
父と子の間に、無言の視線がレーザーのように飛び交った。
「陀牟羅婆那様、天椿姫様、紫王様の作戦は、理に適っているかと思われます」
清美が、お恐れながら、と一言おいてから、そう発言した。
「罠かも知れませんが、これに乗る以外に瑠璃様をお救いする手段はありません。わたくしと仁とで紫王様の脇を固め、『十抜け』に潜り、霊泉居士を倒すなり追い払うなりして、瑠璃様を救出するのが、最も合理的な手段かと」
更に、仁が声を被せた。
「やらせて下さい、陀牟羅婆那様、天椿姫様。こうしている間にも、瑠璃ちゃんは……!!」
言い淀んだ仁の視線を受け、陀牟羅婆那と天椿姫が顔を見合わせる。うなずき合った。
「そなたら。紫王と瑠璃を頼むぞえ。もし、戦力が足りぬと分かったら、無理せず引き返し、こちらで体勢を立て直すことじゃ」
天椿姫のその言葉に、紫王の顔が凶暴なまでの喜びに輝いた。
「行くぞ、仁、清美!!!」
紫王は立ち上がる。
今度こそ。
絶対に負けない。
瑠璃を取り戻す。
待ってろ、瑠璃。
静かな蒼い火が、紫王の胸中に揺れていた。