ごぎっ、と嫌な音がした。
巨大な腕に吊り下げられた野卑な男は、一瞬だけ痙攣し、そのまま動かなくなった。
ひっ掴まれた首が、妙な角度で曲がっている。
頸椎を、砕かれたのだ。
一行が息を呑む間にも、空中で輝く魔法陣から、巨体がずるると滲み出してきた。
でかい。
今までのの更に二割増しくらいに、巨大な水轟巨人だ。
輝く青い水を、ゲル状にして巨人の姿に形作ったような、その姿。
ペリュトンが、甲高く硬い鳴き声を上げた。
身を翻し、まだ巨大な腕に吊り下げられている死骸を取り返そうとするかのように、水轟巨人に向かって突っ込んでいく。
曲がりくねった短剣のような角が、水轟巨人に――
ぶわん!!
と空気が鳴った。
丸太よりも太い腕で一撃喰らったペリュトンが、悲痛な声と共に吹っ飛び、遺跡の床に突っ込んだ。
同時に、水轟巨人の反対側の腕から、死骸が放り出される。
無造作に湿った床に落とされたそれは、糸の切れた操り人形のようにぐにゃりと崩れた。
「これは……手強そうだな」
無残な光景に眉をひそめたオディラギアスが、周囲に言い聞かせるように口にした。
「だが、やるしかなかろう。あの男に死なれたことは痛いが……」
オディラギアスの言葉にうなずいたレルシェントは、ふと、隣のジーニックの様子に気付いた。
「ジーニックさん? どうし……」
「……そんな……っ!!」
引きつった声で、ジーニックが呻く。
まるでいやいやをするかのように首を振った。
「そんな、なんであいつが……!!」
ジーニックの視線は、水轟巨人の顔に固定されている。
レルシェントは、ジーニックの肩に手をかけた。
「ジーニックさん!? どうしたんです、あの水轟巨人がどうし……」
「……前の世界の奴でやす……」
ジーニックの口元がわなないた。
「あの顔……間違いねえ……田中の兄ぃだ!!」
全員が、ジーニックを振り向く。
恐怖に引きつり、白々とした光をたたえた瞳が、巨人に注がれている。
「ジーニック!? 田中って……」
「あっしが弟子入りしていた寿司店で、兄弟子だった奴……底意地悪い奴で……いつも嫌がらせを……」
まるで、その時ようやくジーニックを認識したように、水轟巨人がニンマリした。
凹凸はくっきりしているが、ごつくバランスの悪いパーツの配置がなされた顔。
上品と言い難いその顔が、ジーニックを捉えて笑った。
『イワサ!! ナニデシャバッテヤガンダ!! オマエハヒッコンデロ!!』
その巨躯に似合わぬ甲高い声が、その口から飛び出た。
ヒッ、と、ジーニックが身を震わせる。
『オマエニハマダハヤイ……スッコンデロ……ナンニモスルナ……』
げらげらと、古魔獣が笑う。
ジーニックの顔はもう、紙のように真っ白だった。
「あーハイハイ。どういう奴だか、大体分かったよ、ジーニック。あんたも大変だね」
殊更気の抜けたような声で口にしたのは、イティキラだった。
ぴりぴりした雰囲気が、急にやわらぎ包容力のあるものになる。
「気持ちは分かるよ。ビビるだろうけどさ。でも、この世界じゃ魔物の一種にゃ違いないんだ。倒しちまえばそれまでさ」
そうだ、と賛同したのは、つい先日同じような目に遭ったゼーベルだ。
「経験者として言うが、落ち着け。前の世界でどんな権力を持ってたとしても、この世界じゃ遺跡にうじゃうじゃいる魔物の中の一匹に過ぎねえ。俺たちも協力するから、落ち着いて倒せ」
その言葉を聞いて、ジーニックが目に見えて落ち着いた。
振るえる手、しかししっかりと香沙布陣鞭を握ってぴしりと鳴らした。
顔は青ざめているが、目に決意の光がある。
「前回のゼーベルさんに引き続いて、ジーニックさんにもこんな相手が。今まさに気持ち悪い思いをしておいでのジーニックさんには申し訳ありませんが、霊宝族の一員として、興味を示さずにはいられませんわね」
不敵な笑い声を含ませて、レルシェントがそう呟いた。
両手の中の双刀が妖美な光を跳ね返す。
レルシェントは、不明なことをそのままにしておかない、世界の全てを知識欲の炎で呑み尽くさんとする霊宝族の一員。
この事態は、彼女にとって困難であると同時に、探求の対象だ。
――さて、この遺跡の「核」は、丹念に調べる必要があるだろうか。
「ちょうどいいじゃん。理不尽に苛めてくれた相手なんでしょ。ここで会ったが百年目、ってやつじゃん? お返ししちゃえ、倒しちゃえ!!」
彼女にしては珍しく辛辣に、マイリーヤがそう告げた。
がしゃりと、彼女の魔導銃ダウズールを構える。遺跡の明かりに、それは禍々しいほど美しく輝いた。
「……色々追求したいことはあるが、今はそれどころではなかろう。倒すぞ」
簡潔に、オディラギアスは指示を飛ばした。
輝く太陽を模した槍が、まっすぐに魔物を狙った。
◇ ◆ ◇
水轟巨人が吼えた。
『イワサァァアアァアァ!!』
同時に、その体のすぐ前あたりから、巨大な青いものが盛り上がった。
「いけねえっ……!!」
ジーニックが悲鳴を上げたのも道理。
それは、通路いっぱいに広がる、巨大な水の塊だった。
濁流、というより局所的な津波とも言うべきものが、凄まじい速度で一行を襲う。
「宙《そら》の盾!!」
短い詠唱とも言えぬ詠唱より早く、レルシェントは空間に展開する魔術障壁を完成させていた。
水の塊が、まるで見えない壁に押し留められるように一行の前で止まった。
ぐるぐると渦を巻きながら、水そのものが壁となってそそり立つ。
「む、まずいな……」
オディラギアスが難しい顔をした。
「これだとあちらも攻められぬだろうが、こちらからも攻め込めぬぞ……」
レルシェントが魔法維持の集中を解かないようにしながらうなずいた。
「この後ですわ。多分、向うから攻めてきます。お気を付けになって」
槍を構えなおしたオディラギアスは、ふと、目と鼻の先の水の壁の様子がおかしいことに気付いた。
なにやら、奇妙な渦巻き方を……
「来るぞ!!」
オディラギアスが叫ぶのと、ゼーベルが吹っ飛ぶのとは同時だった。
水の塊の中から、大砲の弾のような勢いで、水轟巨人――の姿の田中が、飛び出してきたのだ。
鉄砲水のような勢いに呑まれたゼーベルは蛇の下半身の踏ん張りも空しく後方に吹っ飛び。
「レルシェント!?」
その次にそいつの目の前にいたのは、レルシェントだった。
巨大な腕に、レルシェントは捕らえられた。
ベアハッグの要領で、空中に締め上げられながら差し上げられる。
めきり、と。
嫌な音と同時に、魔法障壁の集中が切れた。
ごうごうと渦巻く水が、一行を呑み込んだ。
オディラギアス、イティキラ、ジーニック、マイリーヤ、そしてゼーベルが水に巻き込まれ、もみくちゃにされながら押し流された。
まずい――とは誰もが思ったことだ。
しかし、ここまでの強水圧には、なす術《すべ》がない。
何とか止まろうともがき続け、結局自ら顔が出るようになったのは、かなり流されてから。
「皆、無事か!?」
オディラギアスが激しく咳きこみながらも叫んだ。
手の中にある槍を見て安心する。
あの激流の中でよく手放さなかったものだ。これも、魔導武器というやつの特性なのか。
「あ、あたいらは平気だけ……ど……!!」
ずぶ濡れのイティキラが立ち上がった。毛皮と尻尾先端から、ぽたぽたと水のしずくが落ちる。
「レルシェ……!! レルシェはどこ……!?」
煌く蝶の翅の先端が折れて無残なことになっているマイリーヤが叫んだ。
「これは……!! やっべえぞ……!!」
黒と赤の着物が水を吸って幽鬼のようになっているゼーベルが叫んだ。
彼に言われるまでもない。そこは、かなり前に通り過ぎた通路。
ここまで流されたのだ。
「レルシェントさんが……やべえです、早く戻りやしょう!!」
真っ青になったジーニックが、スーツから水を滴らせながら叫ぶ。
「あの田中と女の人を一緒になんかしたら……あいつ、自分の捕まらなかった性犯罪歴自慢するような奴でやすよ……!!」
全員の背中に、戦慄が走り抜けた。
イティキラの回復魔法ももどかしく、全員が弾丸のように走って元の遺跡最深部近くに戻った。
「レルシェント!!」
オディラギアスが叫ぶ。
レルシェントは、水轟巨人に壁に押し付けられ、無遠慮に全身をまさぐられていた。
意識がないのか、ずぶ濡れの状態の彼女は、目を閉じて動かない。
何事もなければ眼福なその濡れたアラビアンスタイルは、今のその状況では目を背けたくなる無残さだ。
「貴様ァーーーーッ!!!」
オディラギアスが吼えた。
翼を広げて空中を突進し、日輪白華を突き出す。
それは鼻の下を伸ばし切った水轟巨人の脇腹に突き刺さった。
圧力。
爆発。
吹っ飛んだ水轟巨人の手から、オディラギアスはレルシェントの体をむしり取った。
「レルシェント!!」
再度翼を広げ、後方に下がったオディラギアスは、レルシェントの体を抱えたまま揺さぶった。
何度か声をかけたが、意識は戻らない。
頬は色白も通り越して青ざめており、唇の端から血が滴っていた。
剥ぎ取られかけたのだろう衣装の隙間から色々見えて、オディラギアスは思わずそれを整えずにはいられなかった。
「ふざけんなふざけんなふざけんなぁあぁあああぁーーー!!!」
イティキラの口から怒号が迸る。
命の恩人の無残な姿に、彼女の理性は呆気なく蒸発した。
獣の下半身の跳躍力で一気に距離を詰め、凄まじい連打を見舞う。
通常の打撃なら水の体に衝撃が通らないであろうが、魔導武器によって魔力を上乗せされた拳は、水の巨人の肉体を確実に削っていった。水轟巨人が少し小さくなった、ような気すらする。
「うらぁあぁああぁーーー!!」
太刀を振りかぶったゼーベルが攻撃に加わった。
深紅の刃は、一見肉体を素通りしているかのように見える。
だが、斬られた部分からは毒々しい色が、まるでインクでも垂らしたかのように広がっていく。
水轟巨人の動きが鈍った。
「くたばっちまえーーーー!!」
彼女には珍しい乱暴な言葉をぶつけたマイリーヤは、翅をはためかせ上空から水轟巨人を狙う。
ガトリングガンのように雨あられと降り注ぐ魔力弾は、確実に水轟巨人の肉体を弾き飛ばす。
濁った色の水がばしゃばしゃとぶちまけられた。
水轟巨人が、田中が再度吼えた。
全身から発射されようとした氷の弾丸はしかし、押し寄せた白い炎に突っ込み、消えていった。
「ジーニック!?」
「皆さん、どいて下せえ!!」
ジーニックが、ひゅるんと香沙布陣鞭を閃かせた。
彼の目の前にいるのは、宇宙空間の太陽のように燃え盛るセクメト。
まずい、と反射的に判断した一行が後ろに下がる。
『イワサ、キサマァ……』
筆を洗った水のように薄汚れてしまった水轟巨人が、過去の記憶を元に叫ぶ。
「あっしは、嫌でやんした」
ジーニックが、いつになく真剣な表情を浮かべて口にした。
「あんたみたいな下劣漢の言いなりになるのが。胸糞悪くなるような話に相槌打たなきゃならねえのが。何より、あんたに人生コントロールされるのが」
その言葉が高まるにつれ、セクメトの口腔内で渦巻く白い炎が輝きを増していった。
「こっちの世界に来ても、やっぱりあんたはクズ野郎でやす!! だけど、あっしはあんたの弟弟子だったモンだ。あっしがあんたに決着を着けるでやす!!」
最後の言葉と同時に、ジーニックの召喚魔神セクメトの口から、ごうごうと渦巻く炎が吐き出された。
一瞬の、ホワイトアウト。
光と熱が収まったその後には、すでにそこに敵の影は、跡形もなかった。