その13 神虫少女の抵抗

 瑠璃は、重苦しい眠りの底から、のろのろと浮上した。

 寝起きは大体良い方なのに、何だか頭と胸が圧迫されているような不快感が、意識の覚醒と共に強くなる。

「ん……」

 瑠璃は我知らず小さく声を上げ、目を開いたが。

 

 まず、目に入ったのは、大きな灰色の、冷たい大きな石だった。

 コンクリートではない。不規則で微妙な隆起からして、明らかに「石」だ。

 それが頭上、横たわった瑠璃の視線の先にしらじらと存在する。

 視線を動かすと、仄明かりの中に似たような色彩。

 どうも、この部屋全体が石でできた石室《いしむろ》のようだ。

 

 ここはどこだ、と瑠璃は誰にともなく問いかける。

 少なくとも、現代の建築様式に則った建造物の内部ではない。

 何と言うか、いつぞや写真で見た石造りの古墳の内部のような、恐ろしく古びた様子が感じ取れる。空気もどことなく湿っぽく、黴《かび》臭い。

 周囲はしんとし、人の気配はない。

 見回すと、少し離れた、やはり石造りの床の上に、古い時代の行灯《あんどん》のようなものが置かれて、障子越しにぼんやりした白い光を放っている。そのお陰で、瑠璃はこの石室内部を見渡すことができた。

 

「!? ……ッ、何これ!?」

 

 ふと、体の脇を見てぎょっとする。

 まるで、入院用のベッドのような、低い金属柵の付いた寝台に寝かされている。

 しかも、その柵に、暴れ癖のある患者よろしく、ベルトで腕を固定されているのだ。

 まさかと思って足を動かせば、足もまた固定されているらしく、あられもない角度で開いたまま、まるで動かせなかった。

 

 落ち着け、と瑠璃は自分に言い聞かせる。

 とにかく、今現在、自分がどういう状況に置かれているのか、把握しなくては。

 

 できる限りに首を動かし、自分の体を観察する。

 一体いつの間にそうなったのか、妖怪の、神虫の姿に戻っている。

 体の下に広がる赤虹色の翅のきらめきも、今は心を慰めてくれない。

 見れば、武器になりそうな毒針付きの尻尾は、ベッドの後端の柵に、これまたベルトで固定されている。一瞬頭に浮かんだ、自分をこんな目に遭わせている奴が目の前に出てきたら、これでブッ刺してやる――という物騒な計画は実現できそうにない。

 

 あの、グラビアみたいなセクシーな衣装で、しかも大開脚で緊縛されている。

 実にあられもない。

 何と言うか、若い男性向けの雑誌のグラビアそのままだ。

 何とも言えない羞恥心に身を焼かれ、瑠璃はもぞもぞと手足を動かす。

 紫王の顔が脳裏に浮かんだ。

 じわっと泣けてくる。

 彼はどうしただろう。

 自分が捕まってしまったことで、彼自身も危なくなってはしまいか。

 

 ふと。

 

「え!?」

 

 瑠璃はそれに気付いてはっとする。

 左の太ももの付け根近くに、何やら管のようなものが取り付けられている。

 その透明な管には、明らかに血が満たされており、その先端はベッド下に消えているのだ。

 

『……血!? まさか、血を抜かれてる!?』

 

 そのことに思い至り、瑠璃の顔から血の気が引いた。

 確か、霊泉居士は妖怪の体を使って薬を作るのを得意としており、恐らく薬の材料として瑠璃を狙っていたと、紫王やその両親は推測していたはず。

 血を抜かれる。

 薬の材料として……

 

「やっ……!!」

 瑠璃は小さく悲鳴を上げ、身じろぎした。

 思い切り暴れてベルトを引きちぎれないか試したが、ナイロンのような材質でできているそのベルトは、びくともしなかった。

 と、言うより、瑠璃の体に力が入らないのだ。全身が萎えたようにふにゃりとしていて、最低限体を動かす以上のことができない感じだ。

 

 よくよくそのベルトを見る。

 表面に何か墨のようなもので書きつけてあるのが目に入った。

 これは何だろう。

 ざわりと不快な予感がする。

 それは文字のようにも見えるが、少なくとも瑠璃の知識にはない、奇怪な代物だった。

 見るうちに、車に酔った時のような不快感がじわじわこみ上げる、その紋様。

 何か、性質の良くない術の類だと、瑠璃は直感した。

 

 紫王。

 

 瑠璃は襲い来る不安感と恐怖に耐えきれず、恋人の名前を呟いた。

 助けてほしかった。

 こんなところから連れ出してほしい。

 声を聞かせて。

 手を握って。

 大丈夫だって言ってほしい。

 だが。

 そもそも彼自身が大丈夫なんだろうかという、恐ろしい思いが湧き上がる。

 思い出す。

 あの奇怪な妖狐の群れに取り囲まれた紫王。

 敵の術によってなのか、まるで目前の瑠璃のことさえ認識できなくなっていた紫王。

 あんな状態で、明らかに強力な妖怪だったあの妖狐に勝てたのだろうか。

 

 もし――やられていたら。

 

 背中からどこかに落下するような寒い風が体を撫でる。

 目の前が薄暗い。

 

 紫王。

 

 

 コツコツと、何かが石を叩くような音を、耳が捉えた。

 瑠璃は身を固くする。

 誰か、人がいたのだ。

 じりじり首を動かすと、石の壁の一角に凹みがあり、そこにまるで牢獄のような格子戸が嵌め込まれていた。あそこがどうやら出入り口らしい。足音も、そこを通じて聞こえているようだ。

 

 ふと、明白に人の気配がした。

 視界には捉えられないが、格子戸の向こうに、誰か立っているのが分かる。

 がちゃがちゃと、何か金属が触れ合うような音。

 あれは――古い時代の錠前だろうか。

 

 がちゃりと大きな音と共に、金属音が止んだ。

 一拍遅れて、ぎいと格子戸が開く。

 瑠璃は、首をもたげてそちらを見た。

 光の輪の中に進み出てきた影は。

 

「あなたは……」

 瑠璃はその姿を見て凍り付いた。

 それは、眼鏡にスーツ姿の、瑠璃を連れ去ったのであろうあの男だ。

 

「これは、お目覚めでいらしたとは。普通は、こんなに短時間で目は覚めないはずなんですけどねえ。流石、大いなる辟邪のあやかし、神虫でいらっしゃる」

 眼鏡の男は、響きの良いバリトンの声で、そんな風に話しかけてきた。瑠璃が寝かされているベッドの側に立ち、まるで患者を気遣う見舞客のように覗き込む。

 まるで古代の石室のようなその場所に、ピシッとした折り目正しいスーツ姿の現代的な若者は、あまりに場違いに見えた。

 

「あなたが、霊泉居士……?」

 瑠璃は、思い切ってその名を口にした。

 薄明かりの中に浮かび上がった男の顔が、笑みの形に歪む。

「ああ、ご存じでいらっしゃいましたか。確かに私はそういう名前で呼ばれていた者ですよ。本当はもっと今風の名前にしたいんですけど、まあ、それでいいです」

 けろけろ笑う霊泉居士に、瑠璃はあられもない格好をさせられているのも手伝って、猛烈な怒りが湧いてきた。

「紫王をどうしたの!? 答えて!!」

 その問いを発した途端に、霊泉居士から破裂するような笑いが放たれた。一瞬、瑠璃はきょとんとする。

「……なにがおかしいの?」

「いや失礼。あんまり美しい愛情なものでね、ちょっと感動してしまいました」

 まだスーツの肩を笑いに震わせながら、霊泉居士はそう告げた。明らかに嘲りの響きがある。

「自分がこんな目に遭っているのに、恋人の心配ですか。まあ、そのことならご安心下さい。あなたの彼氏さんは、勝ちましたよ。流石にあの格の妖怪ですとね。妖狐程度では荷が重かったかな」

 その言葉をきくや否や、瑠璃は目もくらむほどの安堵を覚えて、我知らず溜息を漏らしていた。

 

「いやあ。若いっていいですねえ……ところで、大分安心されたみたいですが、普通に考えて、困難なのはここからですよ?」

 瑠璃ははっと霊泉居士の、うすら笑いの顔を見上げる。

「……どういうこと?」

「彼は、あなたを助けに来るはずです。そして、間違いなくここを見つけ出すでしょう。正確には、見つけ出すのは紫王くんではなく、そのお母様、おっかないことおびただしい天椿姫様が、ですけれど、ね」

 一見親し気だが、その眼の光が冷たい酷薄な笑顔を眺めながら、瑠璃は思い出す。

 そうだ、天椿姫様も、そして陀牟羅婆那様もいらっしゃる。紫王だけが戦わなくてはならない訳ではないのだ。

 だが、霊泉居士はさも面白そうに続けた。

「しかし、おっかない天椿姫も、その夫の、更におっかない陀牟羅婆那も、ここには来れません。別の騒ぎを起こしておきましたからね、状況的に、そっちを優先させねばならないはずですよ」

 

 瑠璃はぞっとする。

 これだけ迷いなく断言するからには、こいつは何かとんでもなく悪い企みを実行したとしか思えない。

 

「従って、ですね。紫王くん本人と、そのお付きくらいがここに来られる人員としては限界でしょう。ま、後はお察しの通り。私の妖薬の材料になるって点では、紫王くんもあなたも同じような立場ですね……あの夫婦に、ようやく血の涙を流させることができそうですよ」

 

 さも愉快そうに放たれたその言葉に、瑠璃は視界が暗くなるのを感じた。

 こいつは、瑠璃ばかりか、紫王まで薬の材料にしようとしている。

 

 しかし。

 瑠璃はそれを信じない。

 

「紫王は、あなたなんかに負けない」

 瑠璃は、静かに自らを鼓舞する。

 

 落ち着け。

 自分に何ができたのか思い出せ。

 紫王に教えてもらったはずだ。

 

「紫王をあなたの欲得の道具になんか、絶対にさせないから!!!」

 

 高らかに、瑠璃は宣言した。

 だが、霊泉居士は動じない。

 

「いや、そうなってしまうんですよ。それも、あなたの力で、ね?」

 ニンマリと笑うと、霊泉居士の手の中に、石油を入れるようなポリタンクめいた容器が出現した。

「ああ、大分溜まってますね」

 ふいと、霊泉居士は瑠璃の足元、ベッドの下に目をやる。

 体を屈め、何かしているのが瑠璃の視界の端に捉えられた。

 足に突き立てられていた、医療用ビニールチューブが動くのが分かる。

 

 血だ。

 

 瑠璃はぞっとした。

 妖薬の原料になる、瑠璃の、神虫の血を、霊泉居士は入手しようとしているのだ。

 

 神虫の妖力は、神聖さと、不死の生命の力。

 それを霊泉居士が入手してしまったら。

 

 させられない。

 

 びゅん!!

 と空気の鳴る音がして、鞭状のものが打ち下ろされた。

 

「!!!」

 

 咄嗟に、霊泉居士が飛びのく。

 残された瑠璃の血の入った容器に、先端に巨大な毒針の付いた神虫の尻尾が振り下ろされた。

 重くくぐもった破砕音と共に、血の入った容器が粉々になった。床に、大量の血がぶちまけられる。

 普通の人間だったら、とっくに死んでもおかしくないほどの量の血液だが、瑠璃は生命を司る神虫。この程度では痛くも痒くもなかった。

 

「なっ……馬鹿な、私の術がどうして……!!」

 愕然とした表情で、霊泉居士は喘ぐ。

 その視界の中で、尻尾はおろか、手足の拘束までいつの間にか外した瑠璃が起き上がった。呪文の書き付けられていたベルトが神聖な雰囲気の白い炎で焼かれ、燃え落ちているのを目の当たりにし、霊泉居士は信じられない思いで目を見開いた。

 

 瑠璃は、その「邪悪を退ける神聖」の妖力をもって、霊泉居士の術を破ったのだ。

 

「この……!!」

 新たに拘束の術を使おうとした霊泉居士は、ぐらりと視界が傾いたのを訝しんだ。

 これは。

 

「紫王をあなたなんかの好きにはさせない!!」

 瑠璃の声が遠く聞こえる。

 呼吸をするたび、霊泉居士の肺腑は、焼け付くような痛みを覚えた。

 

 これは、その場の性質を支配する、神虫の妖力。

 霊泉のような邪悪を許さない「神聖」が支配する空間に、その「場」を書き換えることにより、霊泉の妖力を抑え込んでいるのだ。

 

「紫王が戦うまでもない!! 私があなたを倒す!!!」

 

 瑠璃の毒の尻尾が唸りを上げた。

 ライフル弾みたいな速度で飛んでくるそれを、弱った霊泉が避けられたのは奇跡に等しい。人の身長の二倍くらいの長さのその蠍じみた尻尾は、瑠璃の妖力に呼応して自在に伸縮するらしい。追尾ミサイルみたいに霊泉を追った。

 

「く!!」

 霊泉は、ぐらぐらする頭を叱咤しながら、咄嗟に障壁を作り出す。

 硝子のドームみたいな輝く帳《とばり》は、瑠璃の尻尾を弾き返した。

 

「動くな!! この!!!」

 瑠璃がぎっと視線に力を込めた。

 霊泉が何かを体内にねじ込まれたみたいに体を折る。

 邪悪なものを焼き滅ぼす瑠璃の神毒は、瑠璃の視線に乗った見毒として、霊泉の体を削った。

 

『このまま倒してやる……!!』

 

 瑠璃は、視線に力を込めた。

 どうやら、霊泉にとって、神聖である瑠璃の妖力は天敵であるらしい。

 

「舐めるな小娘!!」

 

 しかし、霊泉は叫んだ。

 空中に無数に絡み合う紋様のようなものが現れたかと思うと、瑠璃の体に纏いつき、染み込む。

 と、瑠璃が失神したようにがくりと崩れ落ちた。

 

 血で溢れる床に虹色の妖怪少女が倒れ込む。

 

「ふう……魂を体から抜けさせる離魂術《りこんじゅつ》……上手くいかなかったら危なかったな……」

 霊泉はふらふらと立ち上がり、瑠璃の元に歩み寄った。

 瑠璃の肉体に二重写しになるように、ぼんやりとした透明な瑠璃が重なっている。これが瑠璃の魂だろう。

 

「このまま固定するか……手間かけさせおって……」

 余裕をなくした調子で呟くと、霊泉居士は禍々しい紋様の描かれた札のようなものを、瑠璃の胸の上部に張り付けた。