それは、空から降ってきた。
ひらひらと。
はらはらと。
虹色にうっとりするようなきらめきを宿して、その羽は、夜空から、宇留間和可菜《うるまわかな》の元に、舞い降りてきた。
◇ ◆ ◇
「はあ……」
和可菜は重いため息をついた。
今日何度目だろう。
日中、職場で同僚にも注意されたのだが、こればかりは仕方ない。
夜だった。
大通りを一歩入れば、旧市街の面影を残す古びた建物が立ち並ぶ住宅街へと入る。
ぼんやりした街灯の明かりに、薄汚れた外壁の建物がその存在を主張する。
ちょっと思い出した。
夜道で誘拐された若い女性のうわさ。
単なる都市伝説だが、ぞっとする結末だった。
無論、そんなことを心配しているわけではなく、和可菜の頭を占めているのは、別なことだ。
職場で見た前期の決算は散々だった。
このままでは倒産も現実のものとなる。
運が良ければ、大手出版社に拾ってもらえるかもしれないが、それはあくまで希望的観測の域を出ない。
それに、そのことが現実になっても、今の出版社に所属する従業員、ことに自分のような、業界では若造としか見られない年齢の女性編集者が、放り出されないかどうかは微妙なところ。
編集者というのは、好きで得た仕事だ。
今の出版社の経営状況では、そう高い給料がもらえるわけではないが、自分としては、それなりにやりがいは感じている。
しかし。
このままでは、どうなるのか。
思い切って、フリーの編集者を目指すべきなのか。
いつ今の会社を離れるか、真面目に考え始めている自分にまたため息をつく。
出版社と共倒れコースだって、十分ありえるのだから、真剣にならざるをえないのだが。
景気の悪い話だなあ、と、頭のどこかで皮肉屋の自分がささやく。
二十代後半にもさしかかった眼鏡の女が、暗い夜道で背中を丸め、重苦しいため息をついている。
ふと。
視界のはしで、何かがきらりと光った。
それが妙にきれいに思えて、和可菜は立ち止まる。
普通に考えたら、かけている眼鏡に街灯の光が乱反射しただけ。
だが、たまに見かけるそういった現象ではないと、直感が教えた。
上を見上げる。
今まさに、きらきら光りながら、ゆっくりと「それ」が舞い降りてくる途中だった。
――羽《はね》?
和可菜はきょとんとする。
ごくささやかな空気の流れにもまれながら、ゆったり舞い降るそれは、確かに、なにかの鳥の羽毛だった。
和可菜は、二、三歩踏み出すと、思わずそれを手に取った。
まるで最初から狙いすましていたかのように、羽は和可菜の手の中に収まる。
きれいだ。
最初に抱いた感想が、それだった。
さながら、水晶を糸状にして束ねたような……グラスファイバーのような質感の、それはきらめく羽毛だった。
どういう仕組みなのか、羽毛のはし、そればかりか銀色のそれのあちこちに虹色の光が宿っていて、しらじらした街灯の明かりに妙に妖しく、それでいて清らかに浮かび上がる。
あまりの美しさに、息を呑んだ。
手の中の、ひんやりした感触。
和可菜は思わず頭上を見上げてきょろきょろする。
どこかに鳥がいるのだろうか。
……当然ながら、何もいない。
しばらく考え込み、結局首を振って、和可菜は考えても仕方ないことを頭から追い払った。
上機嫌で羽を手にして、そのまま夜道を急ぐ。
いやなことばかりだけど、こういうハプニングは悪くない。
家に、これを収めるのにちょうどいい、インテリア用の瓶でもあっただろうか。
その羽毛は、意外に大きかった。
和可菜の手のひらくらいの長さがある。
どういう鳥の羽だろう。
白ではない、銀色というか透明というか。
こんな人間の憧れをてらいなく形にしたような鳥など。
ふと。
「……? くさっ……」
和可菜は思わずつぶやいていた。
妙なにおいが鼻を突いたのだ。
なんだろう、生臭いような、すえたような、問答無用で生理的嫌悪感をかき立てるにおい。
ずる、と音がした。
べちょ、べちょ、と湿った音。
和可菜は立ち止まる。
音は前方からしていた。
黒々と、世界の隙間みたいに口を開ける、団地脇の路地だ。
いや。
本当に、そこに妙な光景が広がっている。
赤紫色のぼんやり光る空が見えた。
その下、焼け焦げた地面から、ときおり炎が上がる、地獄めいた光景。
危機感が悪寒となって、和可菜の背中を駆け抜けた。
《《なんだこれは》》?
一体なにが起こっているのかわからない。
なんで、パソコンのペインティングソフトで合成したように、現実の風景に別な風景がはめこまれているのだ。
受け入れがたい違和感が、背筋を走り抜けた。
まずい、と本能が警告する。
身をひるがえしかけて、しかし遠回りの道は、ここよりもっと人気のない場所を通らないといけないということに思い至る。
一瞬の迷いの隙を突くように、「それ」は現れた。
和可菜は、あまりのことに固まった。
現実ではない隙間の光景の中から、《《それ》》は這い出してきた。
3mにも近い巨人。
それが第一印象だ。
大まかに、大きな人間の姿をしている、という程度のものだが。
全身が、菓子の生地みたいに、どろどろに溶けていた。
ひどいやけどをした人間のように皮膚が溶けているのかというなら、それとは違う。
そもそも、質感からして、肉体そのものが、どろりと流れる何かでできている。
溶けた皮膚でふさがれているのか、それとももともと片方しかないのか、その巨人の目は一つだけだった。
それも頭に対してあまりに巨大すぎる、まぶたのない、半ば飛び出した眼球だ。
鼻は見えない。
口は、あの小さなくぼみだろうか。
びちゃびちゃと溶けた皮膚をしたたらせながら、巨人が近づいてきた。
ぎくりと、した。
一匹だけかと思ったら、背後にもう一匹。
また一匹。
総計三体の、奇怪なバケモノが和可菜の目の前に迫っていた。
現実に割り込んできた地獄の風景。
そしてそこからにじみ出たバケモノ。
――本当に恐ろしいと、悲鳴も上げられない。
和可菜は、その言葉の意味を身をもって知った。
のどが凍り付いたようになり、ひっ、と短く息を呑んだ後は、完全に声が出ない。
これはなんだ。
自分は夢を見ているのか。
頭はしびれたようだが、五感は妙にはっきりしていた。
明らかに生物由来の生々しい悪臭が鼻を突き抜ける。
空気は肌にまといつくように重くなっている。
――逃げなければ。
その段になって、和可菜はようやく自分の足が震えているのに気付いた。
と、同時に思いがけず滑るような動きで、巨人が突進してきた。
「うわひぁあっ!?」
奇怪な悲鳴とともに、和可菜の手が跳ね上がった。
何かの光が手元から飛んで、一番近くの巨人に命中した。
連続して、強い光がまたたく。
それがばらばらになった時、和可菜はようやく自分が何かをしたことに気づいた。
腕の中に。
銃器《じゅうき》が、あった。
多分、銃器だろう。
きらきらスワロフスキーみたいにきらめいているが、形は洋画などで見る自動小銃に近い。
大きさも、両腕の中に収まるもので、人間の攻撃行動に則したものとわかる。
もう――なにがなんだか、わからない。
恐怖にストッパーを外されて、和可菜は、手の中の銃を乱射した。
二撃目、三撃目で、左の巨人が散らばった。
続く何撃かで、右の巨人も言葉なく四散する。
しばらく、トリガーにあたるのであろうそれに手をかけたままで、和可菜はひたすら銃を撃ちまくり。
やがて、すでにそこに何者もいなくなったと気づいて、ようやくそれを下した。
空気から、あの悪臭が消えている。
見ると、和可菜の眼下で、巨人だった残骸が、急速に空気に溶けて消えていくところだった。
化学の実験以来の小気味良さで、それは見る間に夜の闇に溶け、跡形もなくなった。
「なんなの……」
和可菜はうめいた。
それが、なんの始まりかも、知らないままに。