3 ハンナヴァルト一家

「今回は、少しばかり厄介な事件になるはずだ」

 

 プリンスが、Oracleのオフィスの前で、着席した全員の視線を受けながらそう断言した。

 背筋を軍人らしく伸ばし、腕を後ろに組んで、直立不動。

 

 勤務時間が始まってすぐの時間だった。

 特徴的な五角形の中庭を見下ろす、Oracleのオフィスルームは、総勢でも二十名ほどのOracle隊員が全員揃っている。

 彼らの前に立つのは、彼らを率いるプリンスだ。

 D9も、その隣のダイモンも。

 近くでムーンベルもメフィストフェレスも、それぞれのデスクに就いて、新しい事件について説明するプリンスの言葉に注目していた。

 

 D9としては、少し離れたところに席のあるライトニングが気になって、ちらりと視線を飛ばす。

 きっちり軍服を着こんだライトニングは、なにかを呑み込んだ表情で、じっと視線をプリンスに向けていた。

 だが、その視線は上司を超えて、彼が示した危機を見据えているのだと、D9は何となく察することができる。

 

「吸血鬼。誰でも知っているだろう。ハリウッドの注目株若手俳優が演じるアレだ。だが、実際の吸血鬼は、あそこまで間抜けでもお人よしでもない」

 

 吸血鬼(ヴァンパイア)。

 

 D9は心臓が重い音を立てるのを感じた。

 吸血鬼という種族に、一般人ほどロマンチックな感慨は、そもそも抱けないD9である。

 神魔マニアだった元人間としては、知識は主に東欧圏の民俗伝承のものである。

 血で膨れ上がった死骸。

 夜な夜な類縁のあった生者を悩ます、不気味な闇夜の混沌の化身。

 死者をそれにしないために、かつて東欧で行われていた、死骸への残虐な仕打ち。

 湿った墓土の匂い、吹きすさぶ風にのって聞こえる神魔たちの裏返った笑いが、D9が「吸血鬼」と聞いた時に真っ先に思い浮かべるイメージである。

 

「今から、十数年前だ。アメリカ全土で猛威を振るった吸血鬼の一家がいた。一家と言っても、伯母と甥の二人だが、しかし、奴らの厄介さは一個小隊に匹敵しただろうな」

 

 プリンスの解説に、D9はぞわりとする感覚に襲われた。

 あの魔界の王子プリンスにこうまで言わせるとは、つまり途轍もなく強力な吸血鬼ということではあるまいか。

 恐らく、ニンニク入りの料理をたんまり食べた上で接敵すれば勝てる、などというマンガ的な対処法は効くまい。

 

「奴らは、『ハンナヴァルト一家』と名乗っている。主の伯母、エルフリーデ。そして甥に当たる、ファビアン。ドイツ出身、二人とも四百年以上を経た吸血鬼だ。容貌は、メールで送った通り」

 

 D9は、社内メールの添付ファイルで回ってきた資料に目を落とした。

 豪奢で甘美な金髪の美女のエルフリーデは、西洋のおとぎ話の御姫様そのままだ。くらくらするような美しさである。

 そしてどことなく雰囲気が共通している、甥のファビアンは、王子様みたいというにはいささか目つきが酷薄過ぎるか。

 伯母と甥というが、どちらも二十代半ば以上には見えない。

 資料には若いころ吸血鬼化した伯母のエルフリーデが、妹の産んだ子であるファビアンの成長を待って、彼をも吸血鬼化したのだと解説があった。

 

「元はヨーロッパを拠点にしていたのだが、百年ほど前にアメリカに渡ってきている。まあ、厄介な吸血鬼だ。極めて強大な魅了の魔力と、吸血した相手にわずかな血を与えることで、サーヴァント化することが可能だ。このサーヴァントは、不死身の兵士として、ハンナヴァルト一家には絶対忠誠を誓う」

 

 なるほど、下僕をゾンビみたいに増やすのか。

 ふと、D9の脳裏に、あのひらひら亡霊のように飛び回る不気味な影が蘇った。

 あの時出くわしたあの化け物は、ハンナヴァルト一家が作り出したサーヴァントだったのだ。

 

「だが、実際には厄介なのは、この一家の吸血鬼としての性質というより、個人的な性格の問題だ。同様の能力を持っていても、社会に害を与えるでもなく、平穏に暮らしている吸血鬼はかなり存在する。しかし、このハンナヴァルト一家に限っては、その性質は邪悪と断言してよかろう」

 

 やっぱりなあ。

 そういうことか……。

 D9は苦い予想が当たったことを噛み締めた。

 

「今から十数年前だ。ここにいる、ライトニングが、ハンナヴァルト一家に狙われた」

 

 プリンスの視線が、ライトニングに向かう。

 彼女は、ふうっと重い溜息をついた。

 

「ハンナヴァルト一家の性質に、『気に入った者を下僕としてコレクションする』というものがある。以前は人間を中心に『コレクション』していたようだが、アメリカに来てからは神魔もコレクションの範囲に加えた」

 

 はっとして、D9はライトニングを見やった。

 彼女の話を思い出したのだ。

 

「ライトニングは、当時の仕事の関係で、ハンナヴァルト一家と顔見知りになってしまった。そして、目をつけられた。危うくサーヴァント化されるところを、当時のOracleメンバーが救出した。いったんは、奴らはアメリカから逃げ去ったのだが、最近舞い戻ってきたというわけだ」

 

 D9は、思わず発言を求めた。

 

「大佐。吸血鬼のサーヴァント化というのは、神魔にも有効なのですか? どうなるのです?」

 

 エンターテイメントの世界では、人間が吸血鬼に下僕にされたり、仲間に引き入れられたりするものしか見たことがない。

 吸血鬼以外の神魔がサーヴァント化された場合、どうなるのだろう。

 

「人間はサーヴァント化されると姿が変わるが、神魔は特に姿に変化はない。ただ、血を吸った吸血鬼に、絶対の忠誠を誓うようになる……すなわち、精神的に完全に隷属してしまうようになるのだ。自分の意思では、主の吸血鬼に逆らえなくなる」

 

 D9の体に、戦慄が走りぬけた。

 それは事実上、自我の死ではないか。

 

「あたしもね、一回やられたことがあるのさ」

 

 ライトニングが、ふと口を開いた。

 

「奴らは、そりゃあもう、いろんな神魔をコレクションなさってたね。あいつら二人とも女が好きだから、基本的に女の神魔をコレクションする。芥子から蘭までよりどりみどりって感じにな」

 

 苦々しく、彼女が笑った。

 

「でも、奴らはある時気付いたんだ。『あら。あたくしとしたことが、アメリカにいるのに、ネイティブの神魔をコレクションするのを忘れていたわ』ってね。で、そん時、たまたま目に付く範囲にいたのが、サンダーバードのこのあたしってわけさ」

 

 荒く息を吐き、ライトニングが続ける。

 

「サーヴァント化ってどんなものか知ってるかい? 自分が自分でないみたいだ。がぶりと噛みつかれて血を注がれたら、もう、あの因業な連中が世界で唯一の神のように思えてくる。頭のどこかで、これはヤバイと思うんだが、逆らえない。Oracleの連中に助けてもらわなかったら、今頃どうなっていたか」

 

「サーヴァント化しても、解除の方法がない訳ではない」

 

 プリンスが鋭く息を吐いた。

 

「ナイトウィングなら、サーヴァント化解除の薬を作り出せる。しかし、完全なサーヴァント化解除には、極めて大量のサーヴァント化解除薬が必要で、時間もかかる。このライトニングも、サーヴァント化を完全解除するには、半月ほどもベッドに縛られている必要があったのだ。この大いなる精霊が、だ」

 

 ライトニングが後を引き取る。

 

「奴らは偏執狂だ。逃がした獲物に執着する。ほとぼりが冷めたとみて、あたしを狙ってきたんだろうね。それと」

 

 雷の色の視線が自分に向いているのを見て、D9はぎくりとした。

 

「奴らは自分より格上の神魔の血を摂取することで、自分たちの格も上げられるんだよ。で、ここにいるのは誰だ? ……世界を創った創世の龍の末裔。しかも、とびきり美味しそうなかわいこちゃん。あのドスケベ一家が、見逃すと思うかい? んで、D9の血を摂取なんかしようものなら、あいつらがどんな化け物になるか、想像がつくか?」

 

 誇張じゃなく、この世の終わりだ。

 

 そう断言されて、D9の頭から、すうっと血の気が引いていくように感じられた。