7-1 書状

「マディーラウス……!?」

 

 オディラギアスの顔色が変わった。

 彼の執事、青鈍色の鱗の龍震族男性、マディーラウスは、ひたすら身を縮めるばかりだ。

 

「これはどういうことなのだ、マディーラウス……!!」

 

 実に、オディラギアスのスフェイバ城塞への帰還は、二か月近くぶりだった。

 問題は、ないはずだった。

 最初にスフェイバの遺跡を攻略した時に、レルシェントが機獣と古魔獣の生産機能に調整を入れて、彼奴らの戦闘能力を弱めに設定し直したのだ。

 元々スフェイバに集まっている猛者どもなら、さほど苦労なく倒せる程度。

 遺跡由来素材が簡単に、大量に入手できるようになり、街は以前のような厄災には遭わなくなった……はずであったが。

 

 確かに、機獣、古魔獣の害は減り、街は平和になった。

 そうなれば、太守の仕事はこまごまとしたこと。

 側仕えの者に任せて良いところ、であったが。

 しかし、問題は別のところから持ち上がっていたのだ。

 

 ◇ ◆ ◇

 

「どういうことだ、マディーラウス。何故、父たちが、私がスフェイバを離れたことを知っているのだ?」

 

 執務室の机の上に置かれた書状にまじまじと目をやりながら、オディラギアスは、眼前で畏まっている侍従を詰問した。

 執務室には古びてはいるが、相応に上質な家具が収まっている。

 くすんだ茶色に、緑と鮮やかな青の唐草が描かれた絨毯も上等なもの。

 いささか、実情に合わないなと、オディラギアスなどは思ってしまうほど。

 ここは、代々王の不興を買ったが、諸々の事情で殺す訳にもいかない、という立場の者どもが追いやられる場所だ。

 それなりに立派な家具は、先代までの「忘れられた者たち」のささやかな反抗なのか。

 だが、その立派な執務机の上に広げられた書状は、そんな控えめな主張を破壊する威力を持っていた。

 

「それが……わたくしにも、さっぱり分からないのでございます、オディラギアス様」

 

 途方に暮れたように、オディラギアスの古くからの従僕であるマディーラウスは、そう応じた。

 見た目だけで言うなら、人間族の年齢感覚に直すとせいぜい三十代ほど。

 無論、古くから王宮に仕える者であるため、実際にはその三倍以上の年齢であるが、寿命が三百五十年ほどもあり、かつ戦いに特化し老化現象が乏しい龍震族では、実際そのくらいの見た目である。

 

「突然、グールスデルゼス様より、こちらに電話がかかって参りまして……」

 

「兄上から?」

 

 オディラギアスは、眉をひそめる。

 グールスデルゼス、というのは、オディラギアスの二番目の兄だ。

 第二夫人から生まれた最初の王子で、現在はルゼロス王国の司法権を一手に担っている権勢あらたかな王子だ。鮮やかな紫色の鱗を持つ、目立つ男で、それなりに有能だが、それは「爛れ切ったルゼロス王国中枢の中では比較的マシ」という程度のことでしかない。

 

 だが、問題は彼の有能さよりも、「どんな立場として発言できるか」ということ。

 

「……オディラギアス様がいらっしゃるかと、いきなりにお尋ねになりますので、実は機獣と古魔獣対策に少し遠出を、と申し上げたのですが、ならばもよりの場所から折り返し電話を掛けるように伝言せよと」

 

 困惑しきったその表情を見るまでもなく、マディーラウスがどれだけ身も細る想いをしたのかが伺い知れた。

 

「少しお時間をとお申しましたところ、さてはスフェイバを空けているな、情報通りだ……と仰って」

 

 オディラギアスは、凝然と、書状に目を落とした。

 ルゼロス王国の王の勅印が押された、正式な召喚状。

 

 そこには、父王の名で、オディラギアスにニレッティア帝国のスパイの嫌疑をかけるということ、そして、申し開きがあるなら、今すぐに王都バウリに帰還するよう、厳命が記されていた。

 

「……父上がグールスデルゼス兄上からの情報で、私にスパイの嫌疑をかけた、というところか」

 

 顔の前で、甲冑のような指を組み合わせ、オディラギアスは呻いた。

 

「……しかし、一体、グールスデルゼス兄上は、誰から私がスフェイバを空けたという情報を得たのだ? 兄上は何と?」

 

「……それが、分からないのです。誠に申し訳ございません。電話口で、一体、どうしてオディラギアス様がスパイだなどというお話になったのですか、と伺っても、言を左右にされて、情報源の名前を明かしては下さいませんでした」

 

 ますます途方に暮れた様子のマディーラウスを前に、オディラギアスは溜息をつく。

 

 全く、予想がつかなかったことではない。

 あの、ニレッティア帝国の出来事で、オディラギアスの身辺に、かなり前からスパイが入り込んでいたのは確実だと判明した。

 ニレッティア中枢をああいった形で逃げ出したからには、向うがオディラギアスの立場が悪くなり、どうにかしてニレッティアに頼らざるを得ない状況に陥れることは、十分に考えられたことだ。

 やり方は簡単――オディラギアスを煙たがっている兄弟に、オディラギアスの不利になる情報を、何らかのルートで密告すること。

 他の兄弟たち、ひょっとすると父王の周辺にまでスパイが入り込んでいるのだから、そのルート確保だって容易もいいところであろう。

 

 ニレッティア帝国は、事実上、ルゼロス王国の内政を自在に操れるくらいなのかも知れない。

 

 その考えは、オディラギアスをして心胆寒からしめた。

 この危機的事実に、自分以外のルゼロス王国国民の中では、せいぜいゼーベルくらいしか気付いていないのだというその現状に、オディラギアスは暗澹たる気分に陥るしかない。

 

「マディーラウス。ゼーベルと、そしてレルシェント姫たち四人を呼び集めてくれ。そして、彼女たちがこの部屋に来たら、そなたらは席を外せ。良いな?」

 

 厳然と命じると、忠実な従僕は、丁寧に頭を下げ、命令を実行すべく立ち去った。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「しっかし、まずいことになりましたぜ、オディラギアス様……」

 

 簡易会見用のテーブルセットを囲みながら、そう呟いたのはゼーベルだった。

 

 先ほどの命令通り、オディラギアスの執務室には、レルシェントたち一行が呼び集められていた。同時に、最初に侍女が茶を運んできた以外では、完全に人払いがなされ、今室内にいるのは、旅を共にした一行六人だけである。

 

「状況から見て、オディラギアス様の側付きのどなたかの中に、ニレッティア帝国のスパイが存在するのは、100%確実になりましたわね」

 

 レルシェントが眉をひそめる。

 

「そして、父王陛下や、ご兄弟の周辺においでのスパイと、連携もしているのですわね……何ということ」

 

 これは国として、危機的状況なのではありませんの……と驚いたようにレルシェントが呟くと、オディラギアスは長い長い溜息をついた。

 

「全くだ。私も人のことを言えた義理ではないのは承知だが、一国の王家がこれでは頭が痛くなる。アンネリーゼ陛下がルゼロス王国に傀儡政権を造り出そうとしているのだとあの時は思っていたが、実際、傀儡政権を造り出すまでもないぞ、これは……」

 

 事実上、内政をいいようにされているぞ。

 オディラギアスは再度溜息をついた。

 

「でも、結局さ、この砦にいる人のうちの誰が、太守さんに付けられたスパイなんだ? さっきの青鈍色の執事さんぽい人とかは、大丈夫なの?」

 

 イティキラが、彼女持ち前の率直さで、ストレートに斬り込んだ。

 オディラギアスが腕組みをする。

 

「……マディーラウスは、私が幼い頃から仕えてくれている男でな。幼少の頃は父親代わりだった。父王や兄弟にいじめられてるのを助けてもらったことも何度もある。証拠がある訳ではないが、いささかそんなことをする想像がつかぬな……」

 

 むう、と考え込む空気が、六人の間に流れた。

 

「それ以外の人で、怪しい人って?」

 

 マイリーヤが真剣な目で尋ねた。

 

「……子供の頃からの付きの侍女が三名、ディミニネリ、カーリマイシャ、イオネルト。そして警護士が二名、クジャンファル、ヌーズルイジス。……それ以外はスフェイバで新しく雇った者だ。古株は、疑えば全員疑わしいということになる……」

 

 オディラギアスの目が昏い。

 彼らと、それなりの思い出があるのであろう。王宮で辛い立場であった彼からすれば、そういう者たちは、普段自覚する以上に心の支えなのかも知れない。

 

「ううん。五人もいらっしゃるんじゃ、どちらがスパイなのか、なんて犯人捜ししている時間はなさそうでやすね。そちらの御父上からのお手紙じゃあ、すぐにバウリにあっしらも連れて帰還しないと、軍隊を差し向けるなんて書いてあるんでやしょう?」

 

 気づかわし気にオディラギアスの手元にある紙を見やったジーニックが口にした。

 

「うむ。どういう訳か、そなたらと同行してスフェイバを空けたのみならず、レルシェが霊宝族だということまで伝わっていた」

 

 オディラギアスは、ちらとレルシェントに目をやった。

 すまない、の意を目に込める。

 

「……どうも父と次兄は、私が霊宝族であるレルシェと組んで、スフェイバ遺跡から何やら都合のいい古代の武器でも持ち出して、反逆しようとしているのではないか、とも想像をたくましくしているようだな……」

 

 普段全く想像力がないくせに、こういう想像だけはたくましいな、と、露骨な嘲り声で、オディラギアスは評する。

 

 ふうっと、レルシェントが溜息をついた。

 

「とにかく、早急に王都に向かいましょう。国王陛下の前で、スフェイバの遺跡とも関係する霊宝族の遺産を探していると、申し開きするのです。それしかありませんわ」

 

 きっぱり、レルシェントはそう断言した。

 

「任地の遺跡にまつわることを知りたかった、霊宝族のあたくしと知り合った上は、太守としての任務に関わることだとでも申し開きすれば、筋の通った説明をすることができます。それを聞いて、国王陛下がどのように判断なさるかは断言できませんが……」

 

 敵意のないことは、あたくし自身からも申し上げますから、とレルシェントが更に言い募れば、オディラギアスも、渋々うなずいた。

 

「……それしかないようだな……」

 

 もしかすると、とマイリーヤが口を挟む。

 

「例の石板のこと、不都合がないくらいに抑えて教えたらさ、王様って人、『なら、それを自分の前に持ってこい!!』とか言って、解放してくれるとか、ない?」

 

「……いい手ではないかも知れないわね」

 

 オディラギアスが言い淀んだことを、レルシェントが代弁した。

 

「そもそも、オディラギアスと我々はスパイ容疑をかけられているのよ。そういうことを言えば、確実に監視がつくか、人質を取るかされるでしょう。ニレッティアのスパイに見張られていたのは彼の方なのだと説明しても、どこまで信じて下さるものか……」

 

「人質なら、既に取られている」

 

 重苦しい声で、オディラギアスが付け加えた。

 

「え? どういうこと、それ?」

 

 イティキラの声が跳ね上がる。

 オディラギアスは、再度重い息を吐いた。

 

「……私を生んだ母親が、人質のようなものだ。私がこの任地に下る時、母も同行させてほしいと父に申し出たのだが、却下された。白い龍である私などを生んだ時点で、とっくに寵愛など失せているというのに、だ」

 

 全員の同情の目が、オディラギアスに集まった。

 

「……何かしたら、お前の母がどうなるかはよく考えておけと、きっちり脅されたな」

 

 苦々しい笑いと共にもらすと、一行の血の気が一斉に引く。

 これが、親が子供にやることだとは、いくら親子間の距離の遠い王族でも信じがたい。

 

「……なるほど。とにかく、相手の出方を見る必要がありそうね。向こうにもニレッティアのスパイがいて、オディラギアスの件を通じて何かしようとしているなら、手の内を明かさせないと危険だわ」

 

 レルシェントが強く意見し、皆がそれぞれに同意の反応を返す。

 

「……オディラギアスの、お母様の件もどうにかしないと。最悪、どこかに逃げていただく必要があるかも……」

 

 亡命先に、心当たりがあってよ。

 レルシェントが声を潜めると、オディラギアスがはっとしたように顔を上げた。