肆の肆 常世の国の百合乃と小次郎

 ここはどこだろう。

 

 花渡はぼんやり考えた。

 

 ふと我に返ると、目に入ったのは一面の瑠璃紺青だった。

 青い青い、青い世界。目に染み入るのは、空か海か、その両方か。

 よくよく見ると、うっすらした線があり、その下の青には、小さな白がちらちら浮かぶ。

 

 あれは波だ。

 

 頭上に目を転じると、真っ白な鳥がすいっと、視界を横切っていった。所々に筋雲。

 

 あれは空だ。

 

 花渡はようやく、自分が高台からはるか水平線を眺めているのに気付いた。

 脳裏を染め上げる瑠璃紺青の空と海は、花渡がお目にかかったこともない程に濃く、澄んでいた。

 

 ふと足元を見やると、さらさらとした鮮やかな緑の草の海が広がっていた。

 異国の宝玉のように、輝き渡る緑だった。

 その中にぽつりぽつりと、白い丈の高いしなやかな花が咲いていて、海からの風に柔らかくそよいでいた。

 

 空気は暖かく、芳しい。

 

 甘くそれでいて爽快な、その香りの元を無意識に見付けようとした花渡の目に、少し離れた場所に屹立する、無数の純白の花と黄金色の丸い大きな実を付けた果樹が飛び込んできた。

 

 花渡は、それに歩み寄る。

 

 手を伸ばせば届く高さに、たわわな黄金の実がなっている。

 蜜柑に似ているが、それより大分大きく、香りも比べ物にならないくらいに芳醇だ。

 香りだけでどんな汚れも清めてしまえそうに。

 

 花渡はそっと手を伸ばし、その果実を周りを埋め尽くす真っ白い花の中からもいだ。

 二、三個もぐと、二つを懐に、一つの皮をむいて一かけら口に放り込んだ。

 

 美味い。

 

 食べたことのないほど、その果実は美味だった。

 蜜柑に似た爽やかな味わいと、深くそれでいてしつこくない豊かな甘味が口いっぱいに広がり、えも言われず気分が弾む。

 花渡は夢中で三、四欠片味わい、残りを懐にしまった。

 

 さて……

 ここはどこだろう?

 

 自分は何故、このような見知らぬ場所にいて落ち着いていられるのだろう?

 

 改めて周りを見回す。

 海があるからと言って、江戸湊《えどみなと》ではないのは明白だ。

 江戸湊は常に大小の船が往き来する、人のための海だったが、この海はもっと大きなもの――この瑠璃紺青の空とそれを映す海をただ寿《ことほ》ぐ、ただそれだけのために存在しているかのような。

 

 柔らかく優しいが、人の寄り集まる江戸の猥雑さとは遠い、遥かな神聖さを感じる場所。

 そうだ、自分は死んだのではなかったか。

 

 花渡はつらつらと思い出した。

 神刀を持っていても、抗えない程の瘴気を吹き付けられ、力が抜けた拍子にあっさりと殺された。

 しかも、自分の生地である花渡神社を汚すことになってしまった。自分もあの散乱していた死骸のように、あのモノどもに食われるのだろうか?

 

  花渡はゆっくりと周囲を見回す。

 

 つまり、ここは「あの世」というやつだな。

 

 三途の川だの何だのを想像していたのだが、以外と陰気臭くない。

 空気は適度にからりとしていて、風が流れ、良い匂いがし、裁きも攻め苦もないようだ。

 花渡はどうしたら良いか考え――取りあえず歩こうと思った。

 どうせ死んだのなら、くよくよしても始まらない。

 随分他人を斬ってきた自分だが、単に火の粉を振り払っていただけのせいか、地獄に落とされた訳ではないらしい。

 こういう場合はどのように振る舞うべきか。まるで考えてこなかった。

 

 呼ばれたような気がして、花渡はそちらに視線を向けた。

 

 草なびく草原の一角に、二つの影があった。

 一人は緋の袴の巫女装束の若い女らしい。

 もう一人は若い男に見えた。

 背中に、まるで花渡のように、やけに長い太刀を負っており、派手な若衆小袖に身を包んでいるのも似ている。

 

 女の姿に、見覚えがあった。心の中で、いつも疼いているひと。

 

「……母上?」

 

 花渡はうわ言のような口調で呻き、そちらへ足を踏み出した。

 

「花渡」

 

 花を冠した名を持つ花渡よりも、尚その女は花のようだ。

 人の手の触れぬ深山に密やかに咲く山百合のように、清廉で高貴で艶やかな、白。

 それがその女を一目見た時に感じる印象。

 

「母上」

 

 花渡はゆっくりこちらに歩み寄るその人を待てずに駆け寄った。

 

「……母上」

 

 はっきり分かる。

 子供の頃、見上げていたあの姿からは小柄になったように思えるが、そのひとは間違いなく、母だった。

 やや見下ろさねばならないその視線に、十年の歳月を感じる。

 だが、自分を見詰める夏の夜空のように深い眼差しは、間違えようもない。

 

「大きくなったわね、花渡。立派になって」

 

 母は、百合乃は真っ白い手を伸ばして花渡の頬に触れた。

 忘れ得ぬ温もりが伝わり、花渡は微笑んだ。

 頬に触れる手をそっと押さえる。感触は昔のままだった。

 

「死んだのは残念なはずでございますが、こうしていると、そう悪いものでもないように思えますな」

 

 ふわりと柔らかい手に頬擦りしながら、花渡は心から笑った。

 

「私は、私たちはいつでもあなたの側にいたの。ただ、あなたには分からなかっただけで」

 

 両の掌で自分より大きくなった娘の頬を挟みながら、百合乃はそう伝えた。

 

「私たち……?」

 

 花渡は、ふと顔を上げて側に歩み寄って来ていた若い男を見やった。

 目が合う。男……若衆と言えるようなその男は、笑っていた。

 見覚えのある顔だ。

 

「……母上、随分大きな鏡がありますぞ」

 

 視線はその男に据えたまま、花渡はうすらとぼけた。

 花渡と瓜二つと言って良い程似ているその男は、思わずと言った様子で吹き出した。

 

「随分ひねくれたな。昔は大分素直だったのにな」

 

 快活な笑い声は、花渡のそれとどこか似ている。

 

「子供の頃、あなた様にお会いしたことは……」

 

「いや、ある。赤ん坊の時には、よく私があやしてやった。よちよち歩きの頃も。まあ、字を習うくらいの歳になったら、私が見えなくなっていったようだがな。七歳までは神のうち。よく言ったものだ」

 

 男は、花渡の前髪を掬い上げ、ふっと笑った。

 花渡よりやや高い場所から、穏やかな眼差しが注がれる。

 

「見た目は致し方あるまいが、早死になんてものまで父に似ないで良いのだ……花渡」

 

 花渡は不思議な感動に包まれた。

 

「ちちうえ。佐々木小次郎様?」

 

「子供の頃、極楽蝶を初めて見た時みたいな顔をしているぞ?」

 

 はっはっと朗らかに笑い、剣豪佐々木小次郎は、実の娘の形の良い鼻をつまんだ。

 

 ああ、ここは極楽なのだ。

 自分の現世での「お役目」は、ようやく終わったのだ。

 

 花渡はようやく得心した。

 

 何か色々と忘れているような気もするが、死んだものは仕方がない。

 追い回される生活は終わりだし、生きているうちには一度も味わったことのない平穏な時間を、これから過ごせるのだろうか?

 

 花渡は母を見た。父を見た。

 

 重いものを背負わされ、苛酷であっただろう両親の人生は、この浄土でようやく報いられたのか。

 どちらも、娘である自分を守るため死んでいった。

 

「父上を殺したのも、母上を殺したのも、宮本武蔵《みやもとむさし》なのですか?」

 

 今となっては言っても詮なきことだが、これは確かめておきたかった。

 

「……まあ、形の上では、そうなるな」

 

 父親の笑いは苦かった。

 

 花渡は知っていた。世に巌流島の決闘として知られるものは、父親佐々木小次郎を葬るための茶番だった。

 

 それは決闘などというのではなく、なぶり殺し。

 宮本武蔵は、何十人かの、弓で武装した弟子を率いて船島に現れた。

 唖然とする小次郎に、武蔵は言ったという。

 

 絶対誰にも負けない方法を教えてやろう。

 それは、自分より強い相手と戦わないことだ。

 どうしても強い相手と戦わねばならない時には、どんな手を使ってでも相手の力を封じること。

 ……こんな風にな。

 

 矢ぶすまになって倒れた小次郎に、武蔵は木刀でとどめを刺した。

 下手な女のかなわない、華麗な美貌を誇った小次郎の顔は、無惨に潰されていたという。

 

 これらの裏で手を引いていたのは……

 

「小倉藩主、細川忠興《ほそかわただおき》。形の裏にいたのは、そいつということですな」

 

 花渡の目が燃える。

 

 古くからの地付きの勢力、佐々木氏の期待の星であった小次郎は、その影響力を伸長するにつれ、忠興にとっては無視できぬ厄介な存在になっていた。

 更には、単なる地元豪族を超えた、その影響力の源となったのが、妻となった熊野巫女、祝部百合乃。

 人間離れした力を与える神刀の本来の持ち主であり、彼女自身も、巫女として高い神通力をもって、多くの帰依者を惹きつけた。

 そして、このような偉大な力を持つ巫女の夫に選ばれた、小次郎の人望も、相乗効果的に高まっていった。

 あのような聖なる方の夫君に選ばれるとは、あの方も並みの人士であるはずがない。

 

 そんな時に、百合乃が懐妊したという噂。

 子供など、生まれぬうちに、潰さねば、藩の根底が揺らぎかねない。

 それが、忠興の判断。

 

 そこで担ぎ出したのが、臣下の一人、宮本無二斎の息子で、名の知れた剣豪であった宮本武蔵だ。

 

 あくまでも、決闘という形を取れば、少なくとも佐々木一族は表立っては文句を言えないはず。

 

 武蔵としても文句はなかった。

 小次郎程の実力者を仕留めたとなれば、自分の剣豪としての名声は揺るぎないものとなる。

 元より卑怯とか悪辣だとか、そうしたことを気にする性格ではない。

 面子と名誉は大いに気にするが、上手く宣伝する一方、都合の悪いものは覆い隠せば良いだけの話だ。

 

 かくして両者の利害は一致し、佐々木小次郎は殺された。

 

 小次郎は事前に察知していた。

 しかし、決闘を蹴ることも出来ない。

 小次郎には弟子たちと、妻、そしてまだ生まれてもいない子があった。

 決闘を蹴ったりすれば、自分のみならず、この守るべき者たちに公然と危害を加える口実をくれてやることになる……。

 

 花渡が何度も聞かされ、幼くして覚えた物語は陰惨だった。

 しかし、それが一方で生きるよすがにもなった。

 

 誰も父と母の真実を知らないなら、自分が覚えていよう。

 自分が生き抜くことで、父は強かったこと、母は神に愛された女だったことを証明し続けよう。

 

 しかし。

 それらの決意も、最早無意味か。

 

 本来ならば、どこかに隠れて刺客を放っているであろう宮本武蔵に――いや、むしろその名を借りて刺客を放つ算段を取り付けているのであろう細川忠興に対し、父母の仇を取りたかった。

 

 しかし、自分を殺したのは刺客ですらない、モノだ。

 多分、あとしばらくしたら、両者とも胸を撫で下ろすことになるのだろう――もし、そんなに呑気に構えていられる状況にあるのだったら、だが。

 

「父上、母上。仇を取ることも出来ず、面目次第もございません」

 

 花渡は素直にそう詫びた。

 

「そんなことはどうでも良い。肝心なのは、花渡、お前自身だ」

 

 父が真剣な顔で花渡を見た。

 

「花渡、お前は死んではならない。死ぬはずではなかったの。お前には、役目があるの」

 

 母の表情に見覚えがある。花渡に世界の真理を、神々の理を話すとき、母はこんな表情をした。

 

「死んではならない、と申されましても……もう、死んでしまいましたが」

 

 多分、自分の体など、とっくの昔にモノの腹に収まっているだろう。

 

「違う。まだ機会がある」

 

 父が強い声を出した。

 

「あなたを呼んでいる方がいらっしゃる。私たちは、お前にそのことを教えるために、こうしてお前に会いに来たの。お前は、現世でまだ、やることがある」

 

 母の言葉は揺るぎない。

 確信がある、というより、当然のことを説明する口調だった。

 

「私を呼んでいる……?」

 

 父母以外にか。

 誰だろう。

 その人物ならきれいさっぱり、陰惨な死をなかったことにして、花渡を生き返らせることが出来るとでも言うのだろうか。

 

「行きなさい、花渡。あの方の元へ」

 

 母がすっと背後を指し示したと思った瞬間、辺りが闇に転じた。