7 忍び寄るもの

『友麻ちゃん。今から行く。そこはどこ?』

 

 璃南に尋ねられ、友麻は周囲を見回す。

 

「場所は文京区の……」

 

 確認していた住所と雑居ビルの名前をそのまま告げる。

 声は震えている。

 この雑居ビルは、夜には完全に無人になるようで、周囲に気配はなく物音もしない。

 ただ、冷蔵庫のモーターだけが低い唸りを洩らしているばかり。

 多分、外から見たら、雑居ビルのこの階、この部屋だけ明かりが洩れているのであろう。

 

 今まで感じたこともないほど、友麻は孤独だ。

 誰かしら、身内なり友人なりが周囲にいるのが友麻の人生だったのだ。

 それがまともだし当然だと思っていたのだが、いざこうして自分の浅慮のツケを払わされる段となると、自分がどうしようもないほどアテになるツテを持っておらず、そしてあっさり孤立無援に陥るのだと認識せざるを得ない。

 人の立場は嘘みたいに安易にひっくりかえる。

 自分が頼れるものはこんなになかったのだ。

 人は脆い、と友麻は実感する。

 周囲の空間が広がったような、自分の体が半分にも縮まったような。

 全てから切り離され、置き去りにされた気分。

 唯一違っているのは。

 

『そこに何がある? 声とか気配とか。何か感知できない?』

 

 璃南が、繋がったままのスマホの向こうから尋ねる。

 それだけで、まるで宇宙船からの命綱を思い出した宇宙飛行士みたいな気分。

 

「何も……さっき雅が出て行ってからは何も……あれ」

 

 自分に落ち着くように言い聞かせ、周囲を探っていた友麻は、一瞬ぎくりとする。

 何か、音がする。

 

「……何か聞こえる。扉の向こうから……ガサゴソって」

 

 友麻はどうやったのか外側から塞がれてしまっている扉に取り憑き、耳を澄ます。

 何かを、擦るような音。

 衣擦れにも足音にも似ている。

 何か、広いのか多いのかの面積を持った何かが、外側の壁といわず床といわず高速で這い回っているような珍奇な音。

 

「ねえ……なんだろう? わかんないけど変な音がするの、外から。何か床やら壁に擦りつけているみたいな」

 

 自分の喉がこわばり、声が震えているのを、友麻は感じ取りながら璃南に伝える。

 どう説明したらいいものかがわからないのがもどかしい。

 だが、何かが連想できてしまう。

 

『扉の外。何かいるね。扉の側は危険。奥に入って』

 

 璃南が有無を言わせぬ口調で命じ、友麻はその言葉の緊迫感に考えるよりも早く従う。

 素早く立ち上がり、扉から離れて奥へ、窓側へと退避する。

 

「璃南ちゃん」

 

 ブラインド越しのまだらの光を浴びながら、友麻の口調は泣きそうに。

 

「何だか、音が大きくなってる。こう、足音みたいなのが……」

 

 それが何だか、平凡な都会育ちの友麻の語彙にはない。

 強いて言えば、ヒールの足音に少しだけ似ていなくもないが、人のヒール靴だというなら、何故こんなに重たいのか。

 友麻が馬術に興味でもあったなら、馬の蹄の音を連想したかも知れないが、それでも重い。

 最大級の水牛が足を引きずっているよう。

 

『友麻ちゃん』

 

 スマホ越しの璃南の口調は一見冷静。

 

『扉が開いても見えないところへ退避して。机とか何かない?』

 

「ある。スチールの机。影に入るね」

 

 友麻は即座に返答し、その言葉通りに大きすぎるくらいのスチール机の反対側に潜り込む。

 机下に収められた大きめの椅子の反対側に隠れ、こうすれば完全に扉からは友麻の姿が見えなくなったはず。

 

「ねえ、璃南ちゃん」

 

 だが、重い音は段々大きくなるばかり。

 今やそれは一定のリズムを持った足音だと、はっきり認識できる。

 だが、こんな足音を響かせる人間など、友麻には心当たりがない。

 それこそ、本当に人間の足音なのか。

 大きく重すぎる。

 一歩ごとにハンマーで床を叩きつけているような。

 

「……璃南ちゃん」

 

 意味がないかもと思っても、友麻は声をひそめてしまう。

 

「何かが、扉、開けようとしてる。どうしよう。……入ってきたら」

 

 すでに、足音の主は扉にとりついたようである。

 金属の触れ合う耳障りな音と共にドアノブが回され、次いで扉がガンガン叩きつけられる。

 

『友麻ちゃん』

 

 声は二重に聞こえるような気がする。

 

『机の影から出ないで。動かないで、声ももう立てないで』

 

 その途端に、扉が大音声を立てる。

 金属の塊がコンクリに叩きつけられる硬く重い音。

 耳障りな反響音。

 床が震える。

 友麻は、思わず体を硬直させ――

 

 大きなパイプを震わせるような、野太い鳴き声が響き渡る。

 ずどん、と足音。

 影が差す。

 友麻の隠れた机の後ろ側、クリーム色の壁に、影が映る。

 これは人間なんだろうか?

 まるで無数の泡を組み合わせたような、一見ブロッコリー型の奇妙な塊が見える。

 それが何故左右で幅の違う肩の上で震えているのだろう。

 これはなんだ。

 

「『友麻!!!』」

 

 窓ガラスが破裂する勢いで砕け散る。

 何かが飛びこんでくるのを、友麻ははっきり感じ取る。

 蹴り飛ばされたらしい奇怪な頭の影が、反対側に吹っ飛んでいく。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「さあ、さっさと立ちなよ」

 

 正体を現わした、宝石のような色彩と妖しさの璃南が、吹っ飛んだその怪物に向けて宙空から語り掛ける。

 惑星のように鉱物質の旋回するナイフを従えた、半ば妖美な獣、半ば人ならぬ美女の姿の人外。

 

 目の前の床にも天井にも、棘だらけのネズミみたいな無数の生き物と、巨大で奇怪な「何か」が転がっている。

 不気味に発達した腫瘍のように膨れ上がる頭部、左右で長さと形状の違う手足。

 昆虫と軟体動物と病変した組織を、無理やり大まかな人型に組み上げたような。

 それはぶくぶく泡が吹き上がるような音を立てながら、ゆっくり立ち上がってきたのだった。