6-11 黒い記憶

 イティキラは、見知らぬ場所にいる自分に気付いた。

 

 風が砂埃を運んでくる。

 砂色の味気ない地面に、白線が引かれている。

 楕円形のトラック。

 遠く塀際に、植えられた桜と梅と銀杏の緑。

 

 ――見覚えのない場所。ではない。

 自分は……かつて、ここにいた。

 

 天気は憎たらしいほどの快晴だった。

 そうだ、あの時と同じように。

 

 乾いた地面に、人影が転がっているのに、イティキラは――いや、「長尾千早(ながおちはや)」は気付いた。

 

 ゾクッと、した。

 

 見覚えがある顔だった。

 彼女が担当していた、陸上部のエース。

 確か都築圭吾(つづきけいご)という名前であったはず。

 

 彼は、動かない。

 記憶を辿る。

 ああ、部活中に、急に倒れたのだった。

 水分も取らせていた。

 直前まで元気だった。

 何が起こったのか、医者でもない「長尾千早」には分からなかった。

 

 ――「突然死」。

 そうとしか言いようのない、若い生徒の死だった。

 

 その後のことは覚えている部分も覚えていない部分もある。

 とにかく、ハチの巣をつついたかのような騒ぎだった。

 

 都築が病院に運ばれ、死亡が確認されてから、「犯人捜し」が始まった。

 要するに、この「不祥事」に責任を負うべきは誰かという。

 

 客観的に言えば、誰が悪い訳でもない。

 運動中の突然死で、担当教諭の長尾が十分な管理をしていたにも関わらず、都築少年の死は免れなかった。

 それは、司法解剖を行った医師も保証していた。

 

 しかし。

「世間的」には、というか「PTA的には」、「学校的には」、それでは収まらなかった。

 誰かが「悪者」になり、責任を負って処分されねばならなかった。

 誰もが、その部活を担当し、ついでに言えば若くて女性で発言力も大したことのない長尾を名指しした。

 

 かくして――「長尾千早」は、その学校から追放された。

「人殺し」の汚名を、着せられたまま。

 

 目の前に、動かない目を半開きにした死体がある。

 彼女の心を削る記憶。

 良心を持つ者なら全て、抱え込まずにいられない黒い記憶。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「くっ……なんだこれは……力が抜ける!!」

 

 オディラギアスが呻いた。

 

 森鬼のボスが吼えた瞬間、一行には異変が現れた。

 肉体から……というより、精神から力が失われるようだった。具体的に言うなら、戦う気概、自我を主張する気力が失せ、何故だか誰かのいいなりになりそうな、そんな嫌な力の抜け方。

 

 彼らの場合、目の前の森鬼に対する対抗意識が失われようとしていた。

「この存在」に対して。どんな形であれ「反抗的な」意思を抱くのは、間違ったことなのではないか、とにかくその意思を受け入れ、従順にならねばならないのではないか。

 そんな感覚が湧き上がってくるのと同時に――更に、それぞれがある記憶に足元を掬われた。

 

 テレルズは、隣家だった少女の死を思い出していた。

 まだ、九歳。

 目の前で栄養失調からくる病で弱って死んでいくのに何もできず、彼女の死骸を、「捨て場」の穴に運ばされた記憶。

 

 ミニアの祖母も死んだ。

 寿命が500年以上にも及ぶ妖精族としては、孫がいるといってもごく若い。

 しかし。彼女は死んだ。

 些細なことで森鬼の怒りを買い、殴り殺されたのだ。

 死骸は、無残なものだった。

 

 オディラギアスは、前世での銀行員の時に、自分の仕事を過小評価する嫌な上司との衝突のことを思い出していた。

 レルシェントの前世では、彼女は仕事の成果をしょっちゅう上司にかすめ取られ、評価を下げられていた。

 ゼーベルの前世では、彼の仕事を評価せず、不当な低賃金を強いる仕事場と顧客。

 マイリーヤの前世では、彼女は居場所を奪われようとしていた。自宅の食堂が、とある不動産会社に立ち退きを要求されていたのだ。

 ジーニックの前世では、彼を踏みつけにする兄弟子や師匠に気力を削がれ。

 

 そしてイティキラの前世は……前職、学校の体育教諭だった頃。部活で担当していた生徒の突然死の責任を、問答無用で押し被せられた、あの記憶……

 

「……なるほど。興味深いわ。こういう、無力感を感じた記憶を刺激して、相対した知的生命体の気力を削ぎ、思い通りに動かしていたのね」

 

 この中では魔法に関する抵抗力が高いレルシェントが、即座にそのいやらしい魔力を振り払った。真正面から森鬼のボスを睨む。

 

「でも、そんな程度はあたくしたちに通じなくてよ? ごく平穏な生活を送って来た一般の方ならともかく、あたくしたちは経験が違うの」

 

 しかし。

 森鬼ボスはにぃいと笑った。

 

「ソウデモナイゾ? コイツハドウイウコトダ?」

 

 森鬼リーダーは、素早く進むと、うずくまっているイティキラの金髪を掴んだ。

 あの反抗心の塊のようなイティキラが、されるがままになって……いや、そうされたことにも気づかぬ様子で、涙を流している。

 

「イティキラ……!!」

 

 いつもならそんなことを許しておくはずもない少女の、思いがけない無気力に、正直レルシェントはぞっとした。

 

「コイツノセイデヒトガシンデイル……」

 

 森鬼ボスは、ぞろりと歯を剥きだして笑った。

 

「……何を言っているの?」

 

 一瞬意味が取れず、レルシェントは怪訝な顔をした。

 

「ナア、ナガオ。アレハオマエノセイダ。ツヅキハ、オマエノカンリフユキトドキデ、シンダンダ……」

 

 森鬼の言葉に、イティキラの体が震え、ひいっと悲鳴が上がった。

 滂沱と涙を流したまま、森鬼に吊るされるままになっている。

 

 レルシェントは、以前ちらっと彼女から聞いたことを思い出した。

 スポーツジムのインストラクターの前は、学校の体育教師をしていた。

 学校であるトラブルがあり、辞めて故郷に戻って来て、インストラクターになったのだ。

 

 詳しい経緯など、流石のレルシェントにも分からない。

 しかし、何かを察することはできた。

 

 その間にも、森鬼たちは動いていた。

 ミニア、テレルズに、二匹の森鬼が迫る。

 残り二匹は、マイリーヤ、そしてレルシェントに……

 

 空気を切り裂く音と共に、ミニアとテレルズ、そしてマイリーヤに近付いた森鬼が植物に絡め取られた。

 ごきゃごきゃと何かが絞られ、砕ける音。

 そうだ。

 主であるミニアが行動不能になっても、上位の召喚竜であるフンババまで行動が制限される訳ではない。彼くらいになると、独自の判断で窮地にある主を救うくらいする。

 

 が、ジーニックには……

 

 ひゅっと軽い音と共に、炎が翻った。

 

 炎で包まれた鞭で打たれ、燃え上がった森鬼が、ゆっくりと倒れる。

 鞭を引き戻し、ジーニックはまだ青ざめた顔で、それでも叫んだ。

 

「イティキラちゃん!! 騙されちゃダメでやす!! 全部幻でやすよ!! 誤魔化されてるんでやす!!」

 

 イティキラの体が震えた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 イティキラは、暗い場所でうずくまっていた。

 鉛のように重い罪悪感は、彼女の体と精神の自由を完全に奪っていた。

 

 私が、いけなかったの。

 もっと気を付けていれば。

 

 あの時、医療関係者や周囲の助言者に念押しされた――あれは不慮の事故で、長尾千早だったイティキラの不手際ではない……ということが、今の彼女の頭からは完全に抜け落ちていた。

 ただ心が重く苦しい。

 自分なんて、こんな自分なんてなくなってしまえばいいのに。

 

 ――イティキラちゃん。

 

 誰かの声が聞こえた。

 それは、さながら光が射すように。

 

 ――騙されちゃダメでやすよ!!

 

 ふと、周囲が赤々と輝いていることに、イティキラは気付いた。

 自分の体が、燃えている。

 だが、苦痛を何故だか感じない。

 燃え盛るたび、自分のなかで動かないように思えた凝り固まった罪悪感が蒸発していくように思えた。

 

 炎の光で照らされた、その光の輪の中にいるのは。

 

 ――イティキラちゃんは、何も悪くないでやすよ!!

 ――さあ、戦って!!

 

 ……ジーニックの、心配そうな顔。

 

 その瞬間に迷いが消えた。

 炎が完全に、黒い記憶を焼き尽くした、というべきか。

 

 叫び声と共に、イティキラは拳を振るった。