その4 瑠璃と神楽森一家

「この度はお救いいただき、誠にありがとうございました」

 妖怪の住む幻の城、神楽森城の天守、大広間にて、瑠璃は丁寧に三つ指付いて頭を下げた。幼い頃から、茶道の師範をしている母方の祖母にこの手の礼儀作法は仕込まれているため、折り目正しくも優雅な礼だった。

 隣に座るのは、紫王本人だ。実の両親の前だからか、だらしなく胡坐の上に六臂を乗せたまま。

 

「若いのに、古風な礼儀をわきまえた娘じゃのう。大したものじゃ。うちの馬鹿息子に、爪の垢でも煎じて飲ませたいわ」

 感心したのは、瑠璃の真正面に座した天椿姫だ。隣の夫、陀牟羅婆那と並び、ゆったりとかけている。相変わらず、中世の姫君のような打掛姿は、この城の内部の風景にやたらしっくり合い、更にどこか妖美な雰囲気を醸していた。

 彼女は、絢爛たる繧繝縁《うんげんべり》の畳を敷き詰めた広間の奥に、金襴の座布団と脇息を配してくつろいでいた。神楽森山の空に続く広間の真正面の扉は開け放たれ、森の香りを含むさわやかな風が吹き抜けていた。側方の丸窓からは、典雅な障子を介して柔らかな春の日差しが降り注いでいる。

 

「何はともあれ、無事で何よりじゃ。体の方は、どこか痛いとか苦しいとか、おかしな感じがするなんぞはないかえ?」

 年かさの女らしく穏やかに柔らかく、天椿姫は瑠璃に問うた。瑠璃の姿は妖怪、神虫の姿を取ったままだ。背中の翅はたたみ、毒針付きの尻尾は、他家へ訪問した武士が太刀をそうするように、背後に折りたたんで横たえている。

「お陰様で、この体をいただいてからというもの、身が軽く、むしろ人間であった頃より快適です。誠になんとお礼を申し上げて良いか」

 この地を支配するという大物妖怪に向けて差し出された瑠璃の言葉は、彼女を恐れてご機嫌を取ったものなどではなく、全くの本音だ。実際、調子が良い。休息と運動と栄養のバランスが完全に吊り合った時のように肉体の隅々に生気が溢れ、ダンスを念入りに練習した人物のように自在に動く。ちょっとだけ試してみたところ、空まで飛べたのだから、身体的自由という点では、以前とは比べ物にならない。

 

「そなたが天椿の術で、高等な妖怪の肉体を手に入れたということは、そなたの魂がそれに吊り合った高尚なものだったからだ。術は妻のものかも知れぬが、その肉体自体を引き寄せたのはそなた自身の力。そのことについては、自らを誇りに思うが良い」

 そう瑠璃に告げたのは、天椿姫の隣に座した、その夫である陀牟羅婆那だった。

 紫王の父だと、一目で判別できる容姿の彼は、金色の目に穏やかな光をたたえて、瑠璃を見据えていた。

 瑠璃としては、緊張を隠し切れない。天椿姫だけでも自分のような平凡な元人間が目通りしても良いものかと迷うのに、夫である陀牟羅婆那は、更に高貴で威厳ある雰囲気をたたえていた。天椿姫が妖しく酔わせるような雰囲気なら、陀牟羅婆那は、神々しく自然と畏まらざるを得ない雰囲気があるというか。

「過分なお言葉、誠に恐れ入ります」

 瑠璃は自らの内側の畏怖の念に素直に従い、陀牟羅婆那に向かい、丁寧に一礼した。

 

「へっ。よく言うぜ。お袋が術を使う直前まで、見捨てるのに一票、って感じだった野郎がよ」

 しかし、紫王が憎々し気に口を挟んだ。

「いざ、瑠璃が使えそうな妖怪になった途端に掌返しやがって。いやぁ、全く、歴戦の阿修羅族の勇士様は、実に中身が高貴でいらっしゃるこって」

 毒々しい揶揄を含んだその言葉に、瑠璃はぎょっとして紫王を振り返った。到底、実の親に対して口にするような言葉ではない。

 天椿姫が、「紫王!!」と鋭い声音で叱りつける。

 言われた当人である陀牟羅婆那は、わずかに眉をひそめただけだ。

 

「ああ、違うのじゃ、瑠璃殿。決して、夫は今紫王が申したようなことで、そなたを見捨てようとした訳ではないのじゃ」

 天椿姫が、真剣な表情で瑠璃に釈明を始める。

「夫は、態度が固い故に誤解されがちじゃが、決して冷血漢という訳ではない。そなたに『妖魔転生法』を使うことを最初は反対したのも、普通の人間の娘を、何の準備もないまま妖怪に転生させては、かえって可哀想なことになると判断してのことじゃ」

 

 その理屈は、瑠璃にもよく分かった。

 確かに、今は――主に紫王のお陰で――この事態を受け入れられているが、十分なケアがなかった場合、どうだったろう? 目が覚めたら妖怪になっていた、などという事態を自分が受け入れられたかは、はなはだ疑問だ。

 たまたま転生した先が、「神虫」などという希少で神聖さを帯び、加えて美しい種族だったというのも、受け入れられた大きな理由の一つである。もっと矮小で格の低い、醜い種族に転生していた可能性だってあったのだ。もしそんなことになっていれば、「こんな目に遭うくらいなら、何で死なせてくれなかったのだ!!」という絶望に取り憑かれていたであろう。

 

「いえ。陀牟羅婆那様のご心配はごもっともだと思います」

 瑠璃はだから、静かに応じた。

「私はいただいたこの体を嬉しく思っておりますが、もし、私が私の弟と同じ好みであったなら、到底耐えられなかったはずです」

 何で? とは、紫王の声だった。

「お前、弟いたんか。弟、虫系が苦手とか?」

 瑠璃は紫王に向けてうなずいた。

「うん。去年、台所に例の虫が出た時に……全く文字通りの意味で、卒倒したことがあって……私、ショックで気絶する人間て、初めて見たかな……」

 あはは、と瑠璃の口から乾いた笑いが出た。

 ふっ、と失笑の息を漏らしたのは、陀牟羅婆那。

「笑っては失礼だが、それは重篤な……」

「ううむ。いつかは、ご家族にも瑠璃殿の正体をお話せねばならんと思うが、そういう事情となると、厄介よの……」

 天椿姫がこめかみを押さえた。

「いやあ。それは、例のアレだったからだろ? こういうきれいな虫なら、話は別だろ?」

 瑠璃の赤虹色の翼をつまみながら、紫王は言葉を繋ぐ。ドブネズミには悲鳴を上げる人間でも、ハムスターなら平気みたいなもんだろ? と付け加えると、瑠璃はぷるぷると首を振った。

「それが……あの子、本当に重症で……タマムシとか、ハンミョウとか、チョウチョとか、見た目の綺麗な虫も嫌いなんだって……何だか色が綺麗すぎて生き物とは思えないのに、明らかに生きてひらひら動くのが気持ち悪い、生理的に許せないって……」

 情けなさそうな瑠璃の代わりに、紫王が溜息を落とした。

「あー……そりゃ重症だが……ま、いいだろ? 家族と一緒に暮らせないとかになったら、お前、俺の部屋に引っ越せよ。部屋、空いてるし、寝床は一緒でいいんだからよ」

 

 しれっと言われて、瑠璃は燃え上がるように真っ赤に染まった。

 そう言えば、そうだった。そういう約束を、紫王と……

「しっ、紫王くん……」

「ん? 何だよ? お前を妖怪にするにあたって、結婚するのが前提条件だって言ったろ? 最終的に一緒に暮らすんだ。早いか遅いかの差でしかねえだろ?」

 理路整然と述べる紫王に、瑠璃は真っ赤な顔を向け……次いで、紫王の、苦笑している両親を見た。

「あ、あの……」

「全く、不思慮な息子で申し訳ない、瑠璃殿。だが、すでに我らも息子もそのつもり。急なことだが、そなたにも腹を括っていただきたい」

 落ち着いた声音で言い聞かせるように、陀牟羅婆那がそう乞うた。瑠璃は、その静かな響きでやや落ち着く。

「あの、私なんかで……良いのでしょうか……」

 どきどきしながら、そんな風に訊く。

「私で良いか、とは? 息子が求めたのは、そなたしかおらぬぞえ? そもそも、そなたに文句があれば、妖怪の体を与えたりはせぬぞえ?」

 怪訝な顔で、天椿姫はそう問い返す。

「でも、その……私の家は、ごく普通の、庶民でしかなくて、その……やっぱり、こちらのお家みたいなそれなりの家系の子じゃないと、とか……」

 おずおずと言いにくそうに口にする瑠璃に、陀牟羅婆那は苦笑に近い顔を見せ、天椿姫は声を上げて笑った。

「そなたは、もう人間ではない。人間であった頃の家の貴賤など、関係のないことだ」

 陀牟羅婆那は迷いない口調でそう断言する。

「そうじゃとも。そなたが自らの魂の高貴さで引き寄せた、その『神虫』の身が、何より肝心。そなたの魂は高貴じゃし、その魂がそのまま肉体に反映されておるのじゃから、血筋も高貴と申して良いのじゃ。その血が我が家に入るなら、こんな有り難いことはない」

 続けて天椿姫にもきっぱり告げられ、瑠璃は先ほどとは別の意味で、胸が高鳴るのを感じた。

 

「そうそう。それによ、お袋はともかく、この阿修羅のクソジジイはそんな高貴でもねーぞ。そんなに構えるなや」

 ヘラヘラと、紫王が口にする。困惑する瑠璃に構わず、

「女絡みで失敗したか知らねーが、故郷追われて人間様の用心棒しながら、流れ流れて日本に辿り着いてお袋に拾われた。ヒモ体質のジジイだよ。そんなに……ッ!!!」

 

 それは、一瞬というも愚かしいほどの短い時間だった。

 

 いつの間にか、陀牟羅婆那が紫王にのしかかり、六臂のうち一臂で彼の首を抑え込み、二臂で両肩を押さえてなんなく自由を奪い、両足で蹴りまで封じていた。

 あまりのことに驚きすぎた瑠璃と、呆気に取られた天椿姫の前で、陀牟羅婆那は、息子の首根っこを押さえた手に力を込めた。

「図に乗るな、小僧」

 低い、腹にずしんときて周囲の空気を冷えさせる声。

「この私が、そのような下劣な侮辱にいつまでも甘い顔をしていると、勘違いせぬことだ」

 更にぎゅうっと力を込めると、抑え込まれた紫王の首の骨が、めきりと嫌な音を立てた。

 

「お前様っ!!!」

「や、やめてくださいっ!!」

 

 天椿姫と瑠璃が同時に叫んだ。

「お前様、落ち着かれよ!!」

「やめて下さい、紫王くんが死んじゃうっ!!!」

 天椿姫が夫のたくましい肩を押さえ、瑠璃はその太い腕に取りすがった。紫王の顔は紅潮も通り越し、唇が紫色だ。

 

「《《やめてぇえぇぇぇ》》!!!」

 

 悲鳴のような瑠璃の叫びが響くと同時に、陀牟羅婆那の体がぐらっと傾ぎ、その腕から力が抜けた。瑠璃のその虹色の瞳が超新星のように輝いたのを、気付く者はいたのか。

 天椿姫が、その隙を逃さず、すいと夫と息子を引きはがす。細腕で凄い力のようだが、実際には術の手を借りているのだろう。すうっと宙を滑るように、陀牟羅婆那の巨体が座に戻る。まだぐらつくたくましい上体を、妻が支えた。

 

「紫王くんっ!!!」

 涙をたたえた目で、瑠璃は婚約者を覗き込んだ。

 チアノーゼを呈していた紫王の顔に、見る間に血色が戻り、ふっと目を上げた。

「……瑠璃?」

「紫王くん……紫王くん……」

 本来、妖怪といえどこんなに早く酸欠から回復するのは妙なのだが、瑠璃はそのことに思い至る余裕がなかった。

 

「ふむ……これが神虫の力か。視線……見毒《けんどく》だな」

 陀牟羅婆那は眠気でも振り払うように頭を振りながら、瑠璃を見据えた。その眼に宿るのは、怒りではない。感嘆と敬意だ。

「瑠璃殿が、神虫の力を振るわれたか。神々の戦いをも生き抜いた阿修羅すら抑えるほどの毒の力と、一瞬で衰えかけた生命を賦活する力」

 天椿姫は、前半で夫を、後半で息子を見据えながら唸った。のろのろと身を起こす息子を助け起こす瑠璃の泣き顔に、申し訳ない気持ちになる。

「しかし、まだ制御が上手くいかないようだな。無理もないが」

 陀牟羅婆那が戦士が強い相手を見つけた時特有の、高揚した目の光を見せる。

「だが、少し鍛えればいかほどに……そなたの出番だな、天椿」

 さっきの不機嫌など忘れたように、自分を振り返って微笑む夫の戦闘狂ぶりに苦笑しながら、確かにうなずいた。

 

「瑠璃殿。驚かせて申し訳なかった。大丈夫じゃ、こやつらは殺し合わない程度の知恵はあるゆえにな」

 天椿は、殊更穏やかに、瑠璃に話しかけた。

「お前様も、紫王も、やりすぎ、言い過ぎじゃ。少し頭を冷やさぬか。瑠璃殿の前というに全く見苦しいこと。ああ、瑠璃殿は、あとで御宅までお送りする故、今は部屋で休まれよ。世間はちょっとした騒ぎじゃ」

 瑠璃が世間的には行方不明になって、丸一日近く経つ。騒ぎが大きくならないうちに、一旦家へ帰そう、と、天椿は判断した。

「わ、私……?」

 その段になって、ようやく自分が何かしたらしい思い至った瑠璃は、きょろきょろと視線を神楽森一家の間でさまよわせた。

 

「瑠璃。悪ぃ。つまんねーことに巻き込んだな」

 紫王に謝られて、瑠璃はううん、と首を振った。

「私こそ……何だかごめん。余計なこと、だったかな……」

「いや、助かった。ま、この程度は日常だから、あんま驚くな。ただ、お前、力の制御っつか、自分がどんな力を持ってるかも把握してねーだろ? 後でトレーニングしねーとヤバイぜ」

 人間の間で暮らすなら、特に、と紫王はちょっと先輩ぶる。

「トレーニング……」

「おう。お袋が何とかしてくれるよ。今週末、迎え出すから、またここに来いよ」

 紫王もまた、婚約者の力に沸き立ち、胸を躍らせるのを隠そうともしなかった。

 

 似た者父子よ――

 という、天椿姫の内心の呟きは、本人たちにも、また瑠璃にも、気付かれることがなかったのだった。