2-2 神使vs.邪神

 骨の翼がはためくと、翼が纏っていた炎が、渦を巻いて妙羽に襲い掛かってきた。

 

 一瞬の光。

 

 次の瞬間、予想されたような焼け爛れた妙羽の姿はそこにはなく、複雑な光の紋様を纏った女神の姿が具現化していた。

 光輝の帳《とばり》を周囲に投げかける複雑な幾何学文様の翼、魔神の王位を示すかのような宝石質の螺旋を描く角、光を孕んだ肌を露わにした美しい肢体。

 この上ない美しい邪神は、羽ばたきに依らないと思しい不思議な力で、ふわりと宙に浮いていた。その異界の摂理を示したかのような翼は、引力と共に斥力を同時に生み出し、自在にコントロールする。

 

「設楽くん。多分、その自覚はないんだろうけど」

 妙羽は、妙に寂しげに、変貌を遂げた友人にそう言葉を投げかけた。

「何に魂を売ったの? 誰がそうさせたの? あなたの油断を誘える人っていうと、あの二人組のうちどっちかか、両方、かな?」

 そこに、あの研ぎ澄まされて誇り高い、到底その年頃の子供とは思えないような雄々しさを持つ少年はいない。

 誰かによって注ぎ込まれた狂気のよって、本来の性質は覆い隠されている。多分、冴は自分が何をしているかの自覚もないであろう。

 あの、若いながらに相応の経験を積んでいるはずの退魔師少年に、毒を飲ませることができたのは誰で、どんな方法を取ったのか。どうやって毒を毒ではないと納得させたのか、それともその自覚すらないようにしたのか?

 

 妙羽は意識を集中し、そして見た。

 

 同時に、禍津神と化した冴は襲い掛かってきた。

 弾丸のように宙を飛び、棘の短剣のようになった腕を伸ばす。

 同時に射出された骨の刃が、散弾のように妙羽に降り注いだ。

 

「にゃあ。これは神使《しんし》ですにゃあ」

 すれ違いざまに、冴の脇腹に一撃入れた伽々羅がのんびりそう口にした。

 当の冴は、道の脇の木々の連なりに突っ込んで地面を揺るがせた。

「神使? この世界の神の誰かが、設楽くんを手下にしたってこと?」

 いつの間にか冴の背後の瞬間移動していた妙羽が、静かにその様子を見据えながら、そう口にした。

 

 神使、と呼ばれるものは、今妙羽が居住している場所を含む文化圏では、とある神――すなわち霊気流の保護・管理者たる霊的存在の、使者や眷属として仕える神霊、という意味になる。

 その多くは、その神の眷属と認定されている動物などの霊魂が、神の力を吹き込まれて超常的な存在となること、つまりは特定の霊格と紐づけられた霊子干渉力を付与されることで成立する。

 冴の変容も、元の霊子干渉力を、特定の神の神威で更に増大及び上書きされた状態だとすると説明がつく。

 その際に、「特定の神格への絶対服従と人格の損壊」を条件付けられていたのだろう。

 

「そうで間違いないかと思いますにゃ。問題はどの神がそうしたかということですがにゃ……」

 にわかに静まり返った雑木林を見つめながら、蒼い宇宙猫がそう呟いた。

 

「……あの、骨と蛇の人でしょ。月蝕大神とかいう。飼い犬に手を噛まれたんだね、冴くん」

 

 あっさり、妙羽は看破していた。

 さきほど、妙羽の目には見えたのだ。

 あの月蝕大神が、冴に術法を施すその場面が。

 恐らく「こう」なることは、冴は予想していなかっただろう。

 一時的に力を増大させる方法がある。

 そんな風に、月蝕は冴に持ち掛けたのだ。

 周到に下準備をし、あの月蝕は冴を自分のコマにしてしまった。

 飼い犬に手を噛まれるどころではない。

 そもそも、あの「月蝕大神」は、冴の式神、飼い犬だったのか?

 飼い犬を装い、結局膨大な霊子干渉能力を持つ冴を支配することが目的だったとしたら?

 冴は――恐らくは周囲の人間も――冴自身が月蝕大神を支配していると思っていたのだろう。

 だが、実際には冴は月蝕大神の掌の上で躍らされていたのだ。

 

 ちりちりと、火花のように、妙羽の内側で怒りの火花が散る。

 珍しいことだ。

 自分から見れば塵芥のような存在に、怒りと呼ばれる感情を刺激されることは、今までは滅多になかった。

「怒りを発するフリ」をした方が、状況が有利になる、という場合では、それを装うこともあったが、自発的に怒る、という経験は、この体になってからはほとんどなかった。

 

 許さない。

 

 自分の中の怒りの火花と、緑に覆われ横たわっているのであろう冴の霊子流を同時に見ながら、妙羽はそう内心で呟いていた。

 

「……あの人、どこなんだろ?」

 聞こえがよしに、妙羽――いや、希亜世羅は呟いた。

「多分、側にいるんだと思うけど?」

 

 その瞬間、折り重なった緑の連なりの中から、何かが飛び出した。

 白っぽい何かがうねる流れとなって、飛来した。

 妙羽の、邪神・希亜世羅の体を覆う不可思議の紋様が輝き、空間を覆った。隣の伽々羅にも展開する。

 その紋様に触れた瞬間、白い流れはまるで岩に当たった水の流れのように逸れた。 撫でまわすように希亜世羅と伽々羅の周囲をうねり回るが、どうにも触れることはできない。

 その白いものは、骨を連ねたかのような鞭だった。

 八条ほどのその鞭は、まるで大蛇の背骨のようにうねりながら、ゆうゆうと希亜世羅と伽々羅を巡る。本物の蛇のように、鎌首に当たる先端の棘を撃ち込まんと隙を狙う。

 

「にゃあー。これは月蝕大神に決定ですにゃあ。確かにあの霊子干渉力を感知できますにゃあ。隠す必要もない、ということですかにゃ?」

 こちらも聞こえがよしに言葉を発した伽々羅の前で、緑の連なりが二つに割れた。

 

 纏いつく緑の残骸を霊子反応で燃え立たせながら、冴が怪物化した姿を現した。

 骨の翼の生えている肩甲骨の下辺りから、まるで触手のように、骨の鞭を伸ばしていた。

 その背後に、人影が二つ。

 

「骨蝕さん。やっぱりあなただったね。棘山さんも、グルなのかぁ」

 くくくっと子供のように笑う希亜世羅の前で、人間の姿を取ったままの骨蝕大神と棘山大霊は、ゆっくりと歩み出てきた。

 骨蝕の白皙の顔には、不敵で冷たい笑みがある。

 勝利を確信した笑みだ。

 翻って棘山の傷の走る顔には、緊張とそれを誤魔化すためであろう怒りの色が見える。

 

「動かないで下さいね」

 骨蝕が、何かを持った手を背後から冴の首筋に突きつけた。

 珍しい、刃だ。

 この国で一般的に知られているものに例えるなら、小太刀くらいの大きさ。まるでそれも骨でできているかのような、白々した光を跳ね返している。ぐねぐね歪んだ不気味な造形で、一見実用的ではないが、目の前の若者の喉をかっさばく用には十分使えそうだ。

「この刃なら、神使になった彼も傷つけられます。あなたが私の言うことに従わないというなら、彼が死ぬことになりますよ?」

 悪びれもせずそう言い切る骨蝕を前に、希亜世羅と伽々羅は顔を見合わせた。

 

「にゃあ。もう最初の設定を守る気もないのかにゃー。設楽くんが主だという建前だったのではないのかにゃ?」

 呆れ顔で突っ込む伽々羅に、骨蝕は笑い声を返した。

「いえ。私はこの方の忠実なしもべだというのは間違いがないですよ? この方の望むものは力。そして、そのためにあなたを手に入れることです、邪神・希亜世羅《きあせら》」

 さっくり、骨蝕はそう告げた。

「そのためになることなら何だって。自分の命をかけてでも、という訳です。式神たる私は、涙を呑んで命令の実行をしている訳ですね」

 こんなおためごかし、口にしている自分も信じていませんよという軽薄な調子で、彼はペラペラと「現在の設定」を説明した。

 

「あなたは、これに賛成したのぉ?」

 希亜世羅は、棘山に目を向けた。光をたたえた金剛石色の瞳を。

 棘山は――目を背けた。

 何か言いたげだったが、無理して抑えているのが感じられる。

「ふむふむ。流石にどうかと思うけど、ここで露骨に反対する訳にはいかない。乗りかかった泥船、かぁ」

 のほほんと呑気な口調の剣呑な言葉に、棘山の目がかっと見開かれた。

 希亜世羅の視線と正面衝突。

 すぐにふにゃりと逸らされる。これでは、特に霊気感応力のない人間でも、現在の彼の内面の不安定さが分かるだろう。

 

「にゃあ。あなた方は、何か勘違いしてるのではありませんかにゃー」

 ぷらぷらと尻尾を揺らしながら、伽々羅が問いかけた。

「別に我が主も私も、その設楽くんなる人物に何か守るような義理がある訳ではないのですにゃー。可哀想ですが、主従トラブルの結果、主人が式神に殺されるのは、その方々だけの問題ですにゃ」

 ふにゃん、と鳴くと、途端に骨蝕がけたたましい笑い声を上げた。

「それはあなた方に当てはまらないでしょう。何せ、あなた方は、自分のせいでこの方が死ぬのはまずいはず」

「にゃん?」

 

「知ってますよ。あなた方は、特に害がないと判断されているので、この島国の神々に、片隅に存在することを許されているということをね……逆を言えば、あなた方がいるせいで人死にがでるようなら……ましてやそれが、ここを管理区域と定めている神々の力を借りて霊子干渉力を入手しているようなタイプの退魔師というなら、メンツと安全にかけて、この島の神々は黙っていない」

 

 朗々と自信に満ちて繰り出されるその言葉に、希亜世羅はある意味感心した。

「よく知っていることぉ」

「ま、あなた方はある意味有名なんですよ」

 ふにゃん? と伽々羅が再び鳴く。

「まるで、自分がこの島の神々ではないようなことを仰いますにゅう。そう言えばあなたは名前といい姿といい、あまり見た記憶がない神ですが、何者ですかにゃ?」

 骨蝕は冷徹に笑いつつ、何も答えなかった。

「さ。そろそろ答えを聞きましょうか?」

 ぐいっと、骨小太刀が冴の首筋に押し当てられる。

 

 ああ。

 なるほどね。

 大体分かったよ。

 

 希亜世羅は、その想いを乗せて、骨蝕に向けて微笑んだ。

 虚を突かれた彼と、棘山の体の背後に、幾何学文様の光の帳が発生し。

 まるで水が染み込むように急速に、叫ぶ彼らを呑み込んでいった。

 

 支えを失って倒れようとする冴の肉体を、一瞬で近付いてきた希亜世羅の腕が支えた。