3 妖魔との出会い

「あれ、夢か何かだったんじゃないかって、疑ってないです?」

 

 まるで獲物を前にした毒蛇のように。

 真っ赤な、長めの舌で、零は舌なめずりをした。

 粗末な応接間が、その時は残酷な見世物の檻であるかのように、和可菜には感じられた。

 背中にぞわりとした悪寒と、何かを待ち望むような、相反する感覚が這い上がる。

 

「ああいうのは、夢じゃないんですよ、宇留間さん」

 

 すいっと、まるで本当の蛇みたいな滑らかな動きで、零は立ち上がった。

 細身だが均整がとれた体つきは、なんだか妙に大きく見える。

 

 彼が、そっと和可菜の耳元にかがみこみ、ささやいた。

 

「見せてあげますね」

 

 何を?

 という疑問を発することはできなかった。

 

 一瞬の、白い光。

 

 収まった時には、今の今まで、想像だにしなかった生き物が、そこにいたのだ。

 

 それは。

 ある種のキメラというべきだろうか。

 

 上半身は先ほどまで膝を突き合わせていたあの若手作家に違いない。

 真っ白な肌だ。

 衣服はまとっておらず、手指の先の爪が、短刀のように、異様に長い。

 マニュキュアなのか元の色なのか、黒にきらきらした輝きが宿る。

 

 だが、その下半身は。

 蛇だ。

 大蛇である。

 人間の胴体ほどにも太い蛇の尾が、人間の脚のかわりにゆうゆうを伸び、床の上でとぐろを巻いている。

 大きなうろこは、さながら黒いダイヤモンドをはりつけたようにきらりきらりと輝く。

 夏の夜空、人気《ひとけ》のない郊外の夜空を切り取って、そこに置いたかのような輝きだ。

 曲がりくねってわかりにくいが、蛇の下半身は、決して広くない応接間いっぱいに広がっていた。

 おそらく10m近くあるのだろう。

 

 唖然とする和可菜の目に、とどめとばかりに飛び込んできたのは、巨大な、黒く艶やかな羽毛の翼だった。

 零の、いや、零だった《《もの》》の背中を覆い、広がるそれは、恐らくは現生のどんな鳥類より巨大だ。人間のままの零の上半身なら、楽に隠れてしまうほど。

 

 和可菜は。

 固まった。

 

 あまりのことに、彼女の脳みそのキャパシティが崩壊した。

 それでも、頭の片隅で、インドの蛇精《ナーガ》に似てるなあ、けっこう美しい、と思ってしまうのが、このマニアックな出版社で生きてきた人間の職業病だろうか。

 

「僕みたいなのを『妖魔《ようま》』っていうんだけどね。自分たちから言い出したのか、それとも《《こっちの人たち》》が呼び出したのか、もう誰も覚えていないんだけど」

 

 さぞ間抜け面で呆然としているであろう、和可菜の身もふたもない反応に満足したのか、零だったものがのどを鳴らして笑った。

 

 和可菜は動けない。

 まさに、蛇ににらまれたカエルの気分を身をもって味わっている真っ最中だ。

 

「わかるでしょ? 僕みたいな存在は、空想の世界の生き物じゃなくて実在するってこと。まず、それは受け入れてよ」

 

 いつの間にか、零の口調が親し気な、というか無遠慮に近いものになっているが、和可菜はそれをとがめるどころか認識もできない。

 

「あなたが昨日出くわしたことは夢じゃないし、幻覚でもない。、全部、実際にあったことだ。あなたは『異界』を見たんだよ」

 

 不意に、零の姿が、元の人間の青年のものに戻った。

 

 コツコツと、ドアが叩かれる。

 和可菜の分の茶を持ってきた事務員の前でも、零は取り澄ましたままだった。

 

「……その……どこから訊いたらいいのかわからないんですが」

 

 和可菜は乾いてしまった口を茶でようやく湿らせた。

 味がわからないが、とりあえず、零……とよばれているこの人物? が、危害を加える意思はなさそうだと判断する。

 

「なんです、『異界』って?」

 

「読んで字のごとし。異なる世界。あなた方が世界って呼んでいるものの向こうに隣接した、別の世界だよ」

 

 ああ――なるほど。

 和可菜は判断する。

 昨日のあのバケモノも、この零と名乗る生き物も、そういう世界からきた生き物というわけか。

 

「……多分、あなたの考えていることと実際は違うよ」

 

 妙に子供っぽいような、それでいて老獪なような響きの調子で、零はニヤニヤ和可菜を見た。

 

「あなたを昨日襲ったのは『ケガレ』。僕は由緒正しい『妖魔』。一緒にしないでほしいな?」

 

 何が違うのだろう。

 どちらも、自分が去年担当した妖怪図鑑の妖怪みたいなものではなかろうか?

 

「こっちの世界の人は、異界の生き物をごっちゃにする悪癖があるみたいだけど」

 

 気取ったしぐさで、零が指を振る。

 

「僕ら妖魔は、こちらの世界でいうなら人間にあたる、それなりに上等な生き物なんだ。だけど、あいつら、ケガレっていうのは全然違う。こっちでいうなら、害虫や有害細菌みたいな連中なんだよ」

 

 滑らかで落ち着いた零の声を聞くうち、和可菜はだいぶ落ち着いてきた。

 同時に、根本的な疑問が頭をもたげる。

 

「あなたは……そのことを、私に教えるために、会いにきてくださったんですか?」

 

 この人物? の目的はなんだろう。

 脳内はまだ嵐のようだ。

 もう少し情報が必要だ。

 

「あなたに会いに来た理由は、ね」

 

 くすくすと、さも面白そうに、零が笑う。

 

「あなたがその羽を手に入れたからだよ――霊羽《れいう》をね?」

 

 思わず胸元を押さえ。

 和可菜は次なる疑問を口にした。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 それは、夜の繁華街の間の路地裏、ささやかな隙間に口を開けていた。

 

 まさにペイントソフトで画像を加工したように、それはぱっくり口を開け、明らかに異なる世界を見せつけていた。

 

 うらぶれた繁華街の暗がりに割り込んで、赤紫色の空が見える。

 地面にはどこまでも広がる、曼殊沙華の紅。

 ところどころに、大小さまざまな風車が突き立てられ、ときおり吹きすぎる風にくるくると回っていた。

 

「もし、この光景を写真にでも撮ってSNSで公開したら、雑コラとかなんとか、いわれちゃうんだろうなあ……」

 

 自分を落ち着けるため、和可菜は努めて的外れな感想を吐き出す。

 

「あ、言っておくけど、一般人にこの知識を広めたらだめだからね?」

 

 となりに立っていた零が、なんのこともない風にそう釘を刺した。

 

「彼らは好奇心だけは旺盛だけど、『ケガレ』の前では無力だ。殺されるしかない。人殺しの片棒、担ぎたくないだろ?」

 

 半笑いの口調で恐ろしいことを告げられ、和可菜ははぁあと盛大なため息をついた。

 

「そんなに脅さなくても大丈夫だって。今更、逃げ出したりもしないし、誰かを巻き込むつもりもないわよ」

 

 和可菜がつるりと首元のペンダントをなでると、それは瞬時に水晶を削り出したかのような、異世界的な銃になった。

 全体のサイズや形状からすると、やはり自動小銃に近いものだろうか。

 

「それはなにより――来たよ」

 

 警告されるまでもなく、和可菜の目は「そいつら」をとらえていた。

 

 大きさは、人間の幼児くらい。

 形もおおまかにそんなものだが、なぜかそいつらには顔がなかった。

 そんなものが、前に手を突き出して空間をまさぐるようにしながら、ぞろぞろその「異界」から吐き出されてきた。

 

 そいつらの手が和可菜に向けられると、とたんに空中に何か赤黒いどろりとしたものが投射された。

 まともに、和可菜の全身にぶち当たる。

 猛烈な吐き気が、彼女を襲った。

 

「こンのぉッ!!」

 

 和可菜はまとめ髪にべったりへばりついたそれを振り払うと、手の中の銃の引き金を引いた。

 

 予想されるような炸裂音はしない。

 何か空間がたわむような奇怪な音がして、続いて空を裂く音。

 

 目前の「ケガレ」が飛び散った。

 一発でも弾が当たると、機銃掃射でも受けたかのように散らばるのだ。

 その優雅な銃は、どういう仕組みなのか、反動すらろくにないくせに、すさまじい威力を誇っていた。

 

 数瞬の乱射ののち、目の前に低い壁を作っていた「ケガレ」は、完全に消え去った。

 

「お見事。……大丈夫?」

 

 消えつつある、べたべたした赤黒いものを気にする和可菜を、零が気遣う。

 

「大丈夫。気にしないで。決めたんだから、ここに来ることは」

 

 和可菜の声は、昼間のように震えていない。

 

「《《この霊羽っていうのと》》、《《私はもっとシンクロしないといけないんでしょ》》? 《《そうでないと》》、《《目的が果たせないよね》》?」

 

 そのためには、もっと使い込まないといけないんでしょ、と、和可菜は銃の形になった例の羽をなでた。

 

「そういうこと。行こうか」

 

 零が、あの「妖魔」の美しい姿になる。

 こんな時なのに、和可菜は正直感動を覚えてしまう。

 

「……あの異界に入って、ケガレを少なくとも三十匹くらいは倒す、のが、今日の課題……だっけ?」

 

 ごく普通のビジネススーツに、ごつい異世界銃を構えた女は、決然とした歩みで、「異界」と呼ばれる不気味な世界に足を踏み入れた。