5 ひとたびの死

「失礼。ここで、何をしておられるんですか?」

 

 いきなり、顔を懐中電灯で照らされて、和可菜は目をすがめた。

 まぶしさに顔を覆い、ぎょっとしたように立ちすくむ。

 隣で、零が「ちょっと!!」と不機嫌にうなるのが聞こえた。

 

「あ、いえ、その、別に……近道しようと」

 

 しどろもどろに、とっさに浮かんだ言い訳を試みる。

 この国の警察権力を象徴する制服を身にまとった人影が近づいてきて、心臓は爆発せんばかり。

 

 ……初めてだ。

「職務質問」など。

 

 まあ、それも当然かもしれない。

 夜の繁華街裏手の路地に、男女が一組。

 どうも遊びに行く途中には見えないだろうし、男性である零の方は、どう見ても勤め人には見えない。

 そんな二人組が、路地裏でこそこそしているとなれば、まあ、パトロール中の警察官の目は引くわけだ。

 

 まずいなあ。

 

 和可菜は冷や汗が背筋を伝うのを感じた。

 すぐそばには、「異界」が口を開けている。

 紫色の鬼火のような花園が、無限に続いている不気味な異界だ。

 そして、警察官だろうとなんだろうと、一般人は一般人。

「異界」と、その中の「ケガレ」に接させるわけにはいかない。

 彼らが持っているはずの、一般的な銃器では、なぜか「ケガレ」には大して効果がないそうだ。

 銃に限らず、刀だろうと鈍器だろうと、対「異界の存在」用にあつらえられたものでない限り、彼らには大して効果がない、という面倒な前提がある。

 第一、このままでは一般人に「異界」の存在がバレるではないか。

 

「あなた方は、『異界』に行かれるのですね」

 

 唐突に警官の姿の人影から放たれた言葉に、反応できなかった。

 

 《《たしかに今》》、《《この警官は異界と言った》》。

 

 見れば、普通の警官だ。

 頼りない街灯の明かりでも、あの帽子に、あの制服だとわかる。

 《《影になった顔の中で》》、《《口角が三日月のようにやたらと吊り上がっているのはなぜだろう》》?

 

「行かせませんよ。死んでください」

 

 咄嗟に零が前に出た。

 一瞬で変身を解き、和可菜の視界があの鳥の翼で覆われる。

 

 ぎぃん!!

 と金属の打ち合うような音がした。

 零の短刀のような爪が、いつの間にか警官の腕に構えられた、ごつい装飾の日本刀のようなものを食い止めていた。

 

「逃げろ!! 和可菜、こいつは……!!」

 

 零が心配だったが、多分下がったほうがいいのだろうと判断し、和可菜は距離を取った。

 下手にこの霊羽銃で銃撃したりしたら、零の方に当たる可能性がある。

 

 目の前で、零が軽く片手を打ち振った。

 警官が、まるで大波にでもさらわれたように、翻弄されて倒れる。

 今までの異界での戦いの中で何度も見た、零の妖術だ。

「力の波」といったか、目に見えない巨大な力を操るもの。

 それなりに怪しげな物語に親しむ和可菜としては、多分重力でもあやつっているのだろうと見当をつけていたが。

 

「あなたさ。割と、彼のこと、好きでしょ?」

 

 唐突に、耳元でささやかれた。

 

 飛び上がらんばかりの勢いで振り返った和可菜が見たものは……精霊というべきか、妖精というべきか。

 そんな不可思議にして美しい存在だった。

 

 愛くるしい少女、高校生くらいだろうか、そんな少女の背中に、大きな碧い蝶の翅が広がっている。

 やや茶味がかったくるんくるんした前髪の間から、蝶のあの優雅な触覚が伸びていた。

 

 ――首元の違和感。

 

 視界に赤いものがしぶき。

 和可菜の視界は暗転した。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「和可菜ァッ!!」

 

 思わず、零は絶叫していた。

 

 和可菜の首筋から、鮮血がほとばしったことが見て取れた。

 糸の切れた操り人形のように、和可菜が崩れ落ちる。

 

 その向こうに、器用に血を避けて、見覚えのある蝶の翅の妖魔少女が浮かんでいた。

 

「貴様……天虫《あまむし》!!」

 

 自らも血を吐くように、零は叫んだ。

 天虫と呼ばれた少女妖魔のほっそりした繊細な指先に、するすると、光る細い糸が吸い込まれていく。

 ――あれが、気づく暇も与えず和可菜の喉笛を切り裂いた。

 

 完全な不意打ち。

 

 うかつだった。

 和可菜と似たような存在がいるなら、自分と似たような存在も、近くにいると疑ってしかるべきだった。

 

「おっと、妙な考えは起こすなよ」

 

 身を焦がす怒りのままに戦おうとする零に、奇妙な日本刀を構えた人間の男性――夜目の利く零には、二十代半ば程度の精悍な男性に見える――が警告した。

 

「ここで暴れれば、亜血殻神王《あちがらしんのう》様を、貴様の直接の敵にすることになるぞ?」

 

 その名を出されて、零の体にさざなみのように戦慄《せんりつ》が奔《はし》った。

 

「あーあ、可哀想に。真面目そうなお姉さんじゃん。女の人にこんなことしたくなかったんだけどな。あんたのせいだよ」

 

 自分で殺しておいて、ずいぶんな勝手を、天虫なる少女は口にした。

 蝶の翅を優雅にはばたかせ、和可菜のまだ血をあふれさせる亡骸を飛び越え、警官のそばに並ぶ。

 脇をすり抜けられても、零はなにもすることができなかった。

 

「がっくりきちゃってまあ。大丈夫そうだよ、修哉《しゅうや》」

 

 それが警察官の姿をした――実際、表向きの職業は警察官なのだろうが――「霊器持ち」の名前らしい。

 零は、記憶するのも面倒だった。

 蛇の下半身は折りたたまれるようにとぐろを巻き、低い姿勢でうずくまっている。

 

「亜血殻神王《あちがらしんのう》様からの伝言だ。波重大霊《なみかさねのおおち》復活はあきらめよ。もし、別な『霊器持ち』を選ぼうが、われらが始末する、とな」

 

 修哉なる警官は、警帽のひさしをくいと持ち上げ、三白眼気味の鋭い目で零を見下ろした。

 いつの間にか、日本刀はどこかへ消えている。

 天虫なる妖魔少女に合図を送ると、彼女はブレザーの制服姿の女子高生に姿を変えた。

 修哉と並び、くるりと背を向ける。

 

 零は、よろよろと蛇の下半身をもたげ、死んだような目で、血だまりの中に倒れ伏す和可菜のもとに向かった。

 

「和可菜……」

 

 その声に応じて、その指が動いたような気がしたのは、狂おしい想いゆえの幻とわかっても、零にはあきらめきれなかった。