13 天地の星宿り

「えっ……えっ……ナギちゃーーーん!!」

 

 百合子は思わず悲鳴を上げる。

 その間にも、ナギを抱えた褐色の影は、眼下の街並みの間に消えている。

 見事な早業。

 

「ふむ。あれは、夜叉だな。まだ若そうだ」

 

 天名は、別段慌てるでもなく、そんな風に言い当てる。

 

「確かになあ。額に、赤い角が二本あったのが見えたよ」

 

 真砂にしても、のんびりとそう同意するばかり。

 

「あ、天名さん、真砂さん!? ナギちゃんがさらわれましたよ、取り返しに行かないと!!」

 

 百合子がわたわたと振り返ると、真砂は鷹揚に笑い、天名は、じろりと隣の真砂を睨む。

 

「おい、貴様。笑ってないで、例の術を」

 

 天名が、緋の袴で覆われた脚で、真砂を軽く蹴る。

 真砂は、うーんと伸びをして、ああ、久々だなあ、などと呟く。

 百合子には意味の取れぬやり取りである。

 

「あ、真砂さんのあの術ですか。間近で拝見できるなんてラッキーですね」

 

 殿から、冴祥がそんな風に口にする。

 笑顔であるが、どこかしら油断も隙も無い集中を感じられる。

 

「えっ、何ですかそれ!? 真砂さんが、こういう時に使う術? ……呪殺するとか?」

 

 物騒な言葉を投げて、百合子をぎょっとさせるのは暁烏。

 

「ま、真砂さん……!?」

 

「ああ、違う違う。呪殺とかじゃないから。もっと『穏便』だよ」

 

 真砂が苦笑する。

 

「雲母妖の使う術は、便利なのが多くてねぇ。ま、ちょっと誰かが連れ去られたなんていうのは、簡単に行方を突き止められるよ」

 

 真砂が、雲を纏う美しいなよやかな手で、周囲の者たちに、空間を空けてくれるよう合図する。

 

「ま、真砂さん……?」

 

 百合子は、目をぱちぱちさせる。

 そういえば、この人は鵜殿をあっさり追い詰めていたという話だが、それ以外にどんなことができるのかなどは聞いていない。

 冴祥にちらりと聞いた話では、稀少種族である彼女の実力は神がかっている水準ということだ。

 具体的にはどのようなものか、百合子には全く見当がつかない。

 

「さて、と」

 

 真砂は、白瑪瑙の手を、開けた空間に差し伸べる。

 

 と。

 きらきらした、青白いから淡い金色、薄赤いもの青いもの、様々な色合いの光の球体が、その空間上方に展開する。

 

 ――星だ。

 

 百合子は、息を呑む。

 様々な幻の星の光に照らされる真砂の姿は、どこか遠い彼方の世界からやってきた、名も知れぬ神のようだ。

 

 その空間に、小さな「風放の湊」が再現されたかのようである。

 星宿の下に、海と街並み。

 

 

 星が真砂の目の前で動く。

 数万年の時が一瞬で流れたかのように、星宿が位置を変える。

 

「これは、『天地の星宿り(あまつちのほしやどり)』という術だ」

 

 真砂が、静かな口調で軽く説明を加える。

 

「天地は、星を介して呼応している。地で起こったことは、天の星の知るところとなる。過去、現在、未来、それは運命と呼ばれる。そこで、こうして星の霊魂を呼び出して、起こった運命を知ることができる訳さ」

 

 地上の幻が拡大し、あの褐色の夜叉が疾駆する様子が目の前に展開する。

 ナギを抱えているところからして、あの夜叉で間違いないだろう。

 天名が指摘していた通りに、若い見た目だ。

 実際のところ、人外の年の頃など、外見からはまず推し量ることはできないが、しかし、百合子の目にも、その夜叉の表情から、まだ世間ずれしきっていない様子が感じ取れる。

 濃い褐色の肌に、先端が血塗られたように赤い、象牙の剣のような二本の角がそそり立っている。

 肌の露出が多い、古代インド風の衣装の下からは発達した筋骨がうかがえ、緊張のせいか運動したためか、上がった息を吐く口の中に、ちらっと、牙と言えるほど尖った犬歯が見える。

 

 その夜叉は、細い路地を勝手知ったるように走る。

 大きな邸宅の立ち並ぶ界隈らしいが、背後の路地は薄暗い。

 白い変わった様式の塀がある邸宅の裏口の前で、夜叉は立ち止まる。

 木製の分厚い扉を、左腕でナギを抱えた状態で、右手で叩く。

 どんどん、というその音も、目の前の幻からは聞こえてくる。

 

 その扉の内部から、誰だ、と誰何されたらしい。

 

『俺だ!! アンディだ!!』

 

 夜叉が名乗る声がはっきり聞こえる。

 

「アンディ?」

 

 英語名なの? と百合子は怪訝な顔をする。

 

「違う。ヒンディー語で、『嵐』という意味だな」

 

 天名がさっくりと訂正する。

 

 幻の映像の中で、扉が開く。

 アンディという名の夜叉は、素早く滑り込み、扉は即座に閉められる。

 

「うーん。まるで、違法なブツでも運び込んでるみたいですよ、あの坊や」

 

 神様を盗品か何かみたいに扱うのって、凄い不遜ですねえ。

 どんな事情があるんだか。

 冴祥は、さも面白そうにニヤニヤしている。

 

「あー。まあ、盗品扱いだったら、少なくとも食われるとか、そういう心配ないんじゃないですか?」

 

 まるで心配していなさそうな暁烏であるが、彼の推測は的を射てそうであるし、そもそも彼の戦闘力なら、連れ込まれた場所さえわかれば、取り戻すのは難しくなさそうだ。

 

「冴祥の言う通り、かなりの事情があるだろうね。そこが難しいことかな?」

 

 術を収めた真砂が、面白そうに考え込む。

 

「ナギちゃんは、あれでも常世の神様だからね。見た目より強いし、そもそも、彼女の背後には、常世を主宰するあの方がおわします訳さ。まず、普通の人外が喧嘩を売ろうなんて、夢考えないようなおっかないお方だ」

 

 なあ、と真砂が天名を振り返る。

 天名はふむ、と鼻を鳴らす。

 

「我らがここに着いた直後に、あの夜叉の小僧がナギを浚っていった。まず間違いなく、この窟から出てくる者を待ち伏せして、神性を感じる、かつ、すぐに浚えそうな者を連れて行ったのだ。恐らく、あの小僧の主のところへな」

 

 百合子は、仲間たちを見回して目をぱちぱちさせる。

 

「あのお屋敷の当主が、あの夜叉の人の主……?」

 

 百合子は考え込まざるを得ない。

 夜叉といえば、インドにルーツがある、かつては人間を食い殺すこともあった暴悪な人外だったはず。

 しかし、仏法に帰依し、仏教の守護神、天竜八部衆の一種族とされてからは、人間を庇護することの方がはるかに多いはずだ。

 そんな存在が「主」に命じられて誘拐?

 それこそ、どんな事情があるのだ。

 

「ま、とにかく」

 

 真砂は、纏った雲を羽衣のように広げて、ふわりと浮き上がる。

 

「焦らずのんびり、でも確実に押さえに行こうじゃないか。少なくとも、こっちはあの方の御命令を受けているってことになるんだから」