0 虚空の繭

 祝梯妙羽《いわはしたえは》は目が覚めた。

 

 いや、果たして自分は祝梯妙羽、だろうかと、寝起きの頭が思う。

 それは一部だ。

「祝梯妙羽」は「私」の一部だが、全部ではない。

 そんなことを思い出して笑いたくなる。

 あの小さな蒼い「惑星」にいる「私」は、私のほんの切れっぱし。「私」は普段、思い出しもしないけど。

 

 ゆっくり身を起こす。

 床の一部に何か平たいものがあり、彼女はその上に「浮上」していたらしい。

 我ながら、器用な眠り方だと思う。

 そっと輝く床に足を差し伸べると、すうっと体が降下して、足先が床に着いた。

 

 周囲に広がるのは、さながら凝り倒した造りの水族館みたいな、一面の透明な壁面だった。「妙羽」の姿で見たことがあるのは円筒形の壁面だが、そこは恐ろしく巨大な繭の中のように、滑らかな曲線が天井まで覆っていた。

 自分を取り囲むその透明な壁の外側には、ゆったりと碧から紫に輝く何か液体状のものが見えていた。微光を放つその液体らしきものが、透明な壁越しに幻想的な光をその空間に充満させている。

 その幻妖な光の中に、彼女が普段使う言葉で表現するなら、若い女のシルエット。

 しかしその姿を子細に見るなら、凝り倒した王冠のような角が頭部を飾り、背中に光の膜に不思議な文字を浮かび上がらせたかのような翅というか羽衣と言うべきか……が広がっている。

 妙羽は、知っている姿と大幅に違う《《それ》》を、何故か不思議には思わなかった。

 

 妙羽は目を外にやった。

 透明な壁の向こうに満ちるその「液体」には、ひっきりなしに泡が浮かび上がっていく。

 虹色のシャボン玉みたいな泡が膨れ上がると、その一部からまた別の泡が膨らんできた。

 大きく膨らみすぎてパチンと弾ける泡、そしてゆったり聞こえない音楽に合わせるように回転しながら登っていく泡もある。

 泡と泡がぶつかって更に大きな泡になったり、混じり合いうねって消えたり、接触した瞬間、びっくりするくらいに沢山の泡に分裂して膨れ上がるものもある。

 そんな不思議な泡たちが、この宝石で造られた繭のようなものの周りをゆったり流れていった。

 面白くて、いつまでも見ていられる、と妙羽は感じる。

 

 ふと、泡の一つに、妙羽の目は吸い付けられる。

 大きな、虹色の泡だ。深い水の底で生まれたように、ゆらゆら大きく揺らぎながら漂う。

 それを見た瞬間、妙羽の口元に笑みが浮かんだ。

 

 ――もうすぐあそこに行かねばならない。

 

 そんな風に思った瞬間、目が覚めた。

 

 

  ◇ ◆ ◇

 

 耳元で鳴り響く無遠慮な目覚まし時計を、妙羽は、ぽん、と叩いて黙らせた。

 ごそごそとベッドの上で起き上がり、ごしごしと目をこする。

 長い艶やかな黒髪が寝乱れている。

 大きな澄んだ目は宝石みたいな光に彩られて煌いた。

 祝梯妙羽は、奇妙な夢の名残を空中に探し、何もないと見るや、ふう、と軽く溜息をついた。

 ベッドの足元から、かそかそと振動が昇ってくる。

 きれいな毛並みの三毛猫が、妙羽を覗き込んでにゃあと鳴いた。

「ん。おはよ、ルイ」

 妙羽は飼い猫の頭を撫でると、次いで思い切ってベッドから抜け出した。

 朝晩の冷え込みも気にならない、いい季節に、なったな、と妙羽は思う。

 窓を開けると、すがすがしい朝の青空。

 裏に林が隣接しているからか、緑の香りが気持ちいい。

 

 ふと。

 

 外を見て、何かが見つかったように、妙羽は動きを止めた。

 じっと何かを見つめてから、

「ルイ」

 愛猫に手を差し伸べる。

 しゃがみこんだ彼女の手に、三毛猫が擦り付く。

「何かあるみたいだね。やっぱり、今日だった」

 にっこり笑って告げると、ルイは警告でもするかのように、長く鳴いた。