47 再び刻窟

「あ、あれ?」

 

 百合子は、ふと目の前の光景に我に返る。

 

 あの、際限ない豪壮な連なりの、城の中庭ではない。

 

 見覚えがある。

 眼下はるかに、ちらちらと白いものが見える、薄闇の空間だ。

 陸風でも消えない潮の匂い。

 一部に土がわだかまって草を垂らした、飾り棚のように見えるだろう岩棚。

 そこが「刻窟」の一角で、百合子はその中腹から夜の海を見下ろしているのだと、数瞬後に気付く。

 頭上には満月。

 

「世界一つ消し飛ばしたなら、全ての時空に繋がっている『刻窟』に戻って来るのが道理だが」

 

 背後から、天名の声が聞こえる。

 百合子は振り返る。

 天名はもちろん、宙に浮く真砂も、冴祥も、抱えられているナギも、そして怪訝そうな暁烏も、そこにいる。

 

「ほれほれ、百合子さん、あぶねえって。そんな崖の端っこにいたらよ。こっちに」

 

 暁烏が百合子の手を引いて洞窟があったあたりまで連れてきてくれる。

 百合子はそこに至って、何か妙な雰囲気だと気付く。

 

「あ、あの、皆さん……まぼろし大師は?」

 

「消えましたよ。大掛かり過ぎて記憶が飛びました? 真砂さんが消したじゃないですか」

 

 冴祥が腕の中のナギを撫でながら応じると、ナギがニャアと鳴く。

 

「まー、ほんとはもっと粘るタイプの人外でしたけどねえ。流石に今回は相手が悪い。原初の時空の神ってアナタ」

 

 ナギが、真砂を見据えてニャアと叫ぶ。

 

「これ、主にどう報告したらいいんでしょう? ワタクシかなり悩んでいますよ。皆さん、というか真砂さん。どうするか考えてくださいよ」

 

 更にニャアニャア鳴かれても、街の方をじっと見据えている真砂を、百合子はふと怪訝に感じる。

 

「真砂さん……?」

 

 百合子は、その時になって気付く。

 この「刻窟」から望める刻窟市のあちこちで、オレンジ色の揺らめきが見え、夜目にも判別できる濃い煙が上がり、けたたましい消防車のサイレンがここまで聞こえてくる。

 

「えっ、なんだろう……火事? ずいぶん沢山……」

 

 百合子はすうっと宙を滑る真砂の後を追って、窟の反対側、街が真正面に見える場所に陣取る。

 

「これ……」

 

 一か所二か所の火事ではないと、その時に初めて百合子は気付く。

 まるで海外ニュースの空爆に遭った街のように、あちこちで火の手が上がって、炎の禍々しいオレンジ色が、低い夜空にかかる雲をも染めている。

 

「真砂さん!? これ!?」

 

 百合子は悲鳴を上げる。

 何があったのかさっぱりわからないが、故郷の街が今まさに燃えている。

 

「やられたねえ。まぼろし大師は消したが、奴が創り出した、神器は残っていたはずだ。それを誰かが持ちだして、ここで暴れている」

 

 真砂が笑いすら含んだ声で答える。

 百合子は訳が分からず、目をぱちぱちさせる。

 

「……奴が創り出した神器……?」

 

「覚えていないかな、百合子。あの、『神封じの石』って、表面の一部が削れてなかったかい?」

 

 百合子は真砂に問われ、急いで記憶をまさぐる。

 正直恐ろしいのと怒りで、到底細かいところまで観察している余裕はなかったが、そういえばあの丸っこい渦を巻く石の向かって右下に、何か掘り出したような凹凸があって、記憶に引っ掛かっていたのだ。

 真砂は続ける。

 

「『神封じの石』自体は既に封印し直したけど、それ以前にあれを元に作られた神器があって、それを持ち出されたなら、そっちには個別に対応しなくちゃいけなくなるって訳さ」

 

 百合子の脳裏に、そのおぞましい理論がじんわり染み込んでくる。

 

「……鵜殿がやったみたいなことを、また誰かがやっている……?」

 

 百合子がぽつりと漏らした言葉に、真砂はうなずく。

 

「鵜殿自身は消したはずだけど、まぼろし大師自身の配下は、あいつだけじゃない。かなりの人数いたはずだ」

 

 息を呑む百合子の背後に、天名の翼の羽ばたきが聞こえる。

 

「……そういえばな。グレイディの故郷の妖精郷を引っ掻きまわしていた、まぼろし大師の配下らしき奴がいたはずだな。あやつは、妖精郷から逃げた後にどこに行った」

 

 百合子はすっかりわすれていたその事実を思い返し、それが示唆する現実に思い至る。

 頭から血の気が引き、気が遠くなりそうなのをこらえる。

 

「さて、急いだ方がいいんじゃないですか?」

 

 冴祥が、ナギを抱えたまま、そう促す。

 

「多分、暴れている奴、僕の知っている奴かも知れないですね」

 

「俺たちで止めに行く。でも……」

 

 その後に続いた暁烏の言葉に、百合子ははっと目を見開いたのだった。

 

 

◇ ◆ ◇

 

 

「こんばんは。いい夜ですね」

 

 彼の背後から、耳に心地よい深い響きの男性の声が聞こえる。

 

 彼は体ごとぐりりと振り向く。

 右側の無数の肢が生えた胴体の側面がビルにぶつかって、盛大に壁面が崩れる。

 炎と煙を噴き出す窓は、路上に揺らめく異様な照明を投げかけている、恐ろしい劇のよう。

 

 そこにいたのは、恐らくこの街に住む大抵の人間が見たことのない生き物だ。

 タンクローリーより大きいが、確かに生き物なのだ。

 鈎爪の生えた無数の人間の腕が生えた、とんでもなく大きなヤスデに見える。

 しかし、小さな類似の生き物が持つ生物としての端正さはなく、ぼっ、ぼっ、と大きな爆ぜる音を立てる青白い炎を纏う、地獄の兵卒の甲冑に似た甲殻。

 頭に当たる部分には、何か比率からすると、おかしな突起が生えている。

 目でも、頭でもない。

 人間に見える。

 並みの人間サイズの上半身だ。

 手に錫杖のようなものを持つ、顔の前に紙垂を垂らした山伏の上半身。

 

「あやかし山伏? 本体かよ?」

 

 その陽気な若い男性の声と共に、剣気が飛ぶ。

 しかし、その増幅された斬撃は、その山伏ヤスデが纏う獄炎に飲み込まれて相殺される。

 水しぶきのように盛大に炎が上がる。

 

「アー!! この気味悪い気配、コイツですね、妖精郷の背後で色々やってたのは!!」

 

 ナギが上空でホバリングしながらニャア。

 

『ほう、数咲大霊の商人さんですかな。確か、冴祥と、そういう名前』

 

 あやかし山伏の上半身から声が聞こえる。

 妙なくぐもった聞こえ方だが、意図はくっきり伝わる。

 そいつが、じゃらん、と錫杖を振り立てる。

 

「その錫杖、神器ですよね?」

 

 冴祥が、身体の周囲に鏡を無数に展開させ始める。

 一が二、二が四、八が一気に咲き乱れるような輝きの花園に。

 それは、情け容赦なく、あやかし山伏の半身を持つ人外を取り囲む。

 

「さて、あんまり街中でこういうのは感心しませんよ?」

 

 冴祥が、地獄の炎を跳ね返す無数のきらめきの中で妖しく微笑んだ。