「あれ……こんなお店、あったかな?」
中安真海(なかやすまみ)は、ふと足を止める。
この時期、この時間帯は真っ暗であるが、その店の灯りは、暗い路地に、暖かな金色を投げかけている。
この雑居ビルは、売り物件で、店も入らず、誰も住んでなくて荒れ果てていたはず。
いつもここを通って家に帰るのに、ここにこんな店がいつの間にか入っていたことに気付かなかったのは不思議だ。
埃っぽかった壁面は、タイルと木枠で飾られ、入口横には、大きな木製の看板が掲げられている。
「画廊 綾野」
がろう あやの。
画廊ができていたのだ。
こんなところに。
客は入っているのだろうか。
まあ、こんな時間に誰もいないとは思うが。
まだ、営業しているのだろうか。
真海は入口のガラス扉に近付く。
「OPEN」の木札が下げられている。
「営業してるんだ……」
その時。
自分が何を思っていたのか、後からはなかなか説明がつかないのだが。
しかし。
真海は、木製の取手に手を掛け、身体をその画廊の内部に滑り込ませていたのだ。
◇◆◇
「いらっしゃいませ」
滑らかで耳に快い、バリトンの声がかけられる。
真海は、思いのほか広い店内の、その奥へ視線を送る。
暗褐色に塗装した木材で、内装された落ち着いた店内。
いわゆる「和風モダン」が基調の粋な雰囲気。
一定間隔で、様々な大きさの絵画がかけられている。
日本画があるかと思えば、その隣に油絵がある。
ちぐはぐになりそうなのに、何故か奇妙な収まり方を感じさせるのが、何とも不思議な感覚。
カウンターに、誰かいる。
真海は軽く会釈して、その人影を窺う。
男性である。
座っているが、立ち上がれば、かなりの長身であろうと思われる。
少し離れていても、高級品だとわかる、粋なスーツ姿。
正直、一目見てどきりとするような美男だ。
肌は色白で、切れ長の目に、魔力すら宿っているような蠱惑がある。
長めに整えた艶やかな黒髪は、軽くウェーブしていて、しどけないような色気と近寄りがたいまでの高貴さが入り混じる顔立ちを彩る。
こういうのを、水も滴る……というのだろうかと、真海はぼんやり考える。
「お客様は、初めての方ですか?」
恐らく店主であろう、その男性が、カウンターから出て、ゆっくり近づいて来る。
真海は思わず緊張してしまう。
こんな魅力のある男性にここまで近づかれたのなんて、今までの人生であっただろうか。
「はい。ちょっと、部屋に飾る絵が欲しくて」
これは、実は適当にこじつけた理由ではない。
実際、せめて殺風景な自室に何かしら絵くらい欲しいとは、前々から思っていたのだ。
――正直、子供の頃にケガで入院した病室を思い起こさせる、白っぽい平板な内装の安アパートの壁を見あげながら寝転がっていると、気分が鬱々としてくる。
自宅と会社の往復しかできない社畜生活を営んでいると、せめて繭のような自室に彩りが欲しいと切実に願うようになってきたのである。
「お客様、失礼ですが、ちょっと息苦しそうでいらっしゃいますね」
穏やかな声が、そんな風に指摘してきて、真海はどきりとする。
確かに窮屈さを感じることが多い生活である。
顔に出ていたのだろうか?
普通だったら失礼で腹立たしいと思ってしまいそうな指摘なのだが、妙に納得してしまって、全く腹が立たない。
それどころか、わかってくれたという感動が押し寄せてくる。
「お客様には、思い切り、自由に呼吸できる世界が必要だと思います。……絵でなくて、世界が、ね」
その店主が、手招きをして、真海を一枚の日本画の前に連れて行く。
思わずふらふらついて行って、その絵を目の当たりにした真海は息を呑む。
「これ……?」
かなり大判の、美しい絵である。
金色の雲の合間に、白く輝く空飛ぶ馬が描かれており、眼下には遠く輝く湖や河川の蛇行する平野。
雲に支えられるように、優雅な寺院のような建造物が浮かぶ。
胸のつかえが吹き飛ばされたかのように、真海の胸に、その絵の世界からの、新鮮な空気が流れ込んでくるように感じられる。
「あなたには、この世界の方が、今のこちらの世界よりも、合っておいでだと思いますよ。誰かしら人や、あるいは組織なんかと合わないとか、そういうことだけではなく『世界が合わない』も、人間にはあるんです」
その店主が、その絵の真正面に、真海を立たせる。
まるでいきなり大きな窓が開いたかのように、その絵の中から、強い風と光が迸り出て、真海を一気に吞み込んだ。
◇◆◇
「わあ……」
真海は、自分が雲のように輝く、白い馬に乗っているのに気付く。
風が顔にも全身にも当たる。
羽衣のような薄布を纏う今の姿は、古代インド風というか、優雅な仏像みたいなエキゾチックで雅なもの。
太陽のような金色の雲が周りを通り過ぎて行く。
頭上は瑠璃色の、果てしもない空。
真海は、自分がいるのが、あの直前に見た絵画の世界らしいと気付き、目を白黒させるばかりだ。
これは、夢を見ているということだろうか?
それにしては、頬に当たる爽快な風の感覚が、妙に鮮明だ。
こんなはっきりした夢なんて、見たことがないが。
ここって、どうなってるのかな……
真海が、ふとゆっくり周りを確認したいと思った瞬間、またがっている大きな白馬が、まるで彼女の意識を読み取ったかのように、足を緩め、空中で立ち止まる。
上空の風に吹かれて、真海は思わずその美しい世界を見渡し、溜息をつく。
「気に入っていただけましたか?」
ふと、横から声がかけられる。
聞き覚えのある、あの画廊での……
「えっ……?」
真海は、黒く巨大な獅子のような生き物にまたがって近づいて来る、その人物を見てはっとする。
あの、画廊の店主だと、整った目鼻を見て判別がつく。
が、スーツ姿ではなく、神話の英雄のような古雅な和装である。
周囲に、雲を纏う剣のようなものを幾つも浮かべている。
「ようこそ。この世界は気に入っていただけましたか?」
その店主だった男性は、優雅に微笑みかける。
真海は一瞬言葉を失い、ようやく声を絞り出す。
「あの、これ……ここって何なんですか……?」
店主は笑みを深くする。
「僕の主宰する世界の一つ、とでも申し上げておきましょう。世界も、そしてその世界ごとに合わせた僕も、沢山いるという訳なんです」
「……世界が……沢山ある?」
真海はどうにか理解できた言葉を口にする。
「そういうことです。あんまり、あの世界の人間の認識だけを絶対視しない方がいいんです。時代的制約はいつだってありますし、御覧のようにすぐ隣に別の世界もありますし」
この僕も、いっぱいいるんですよ?
店主は更にくすくす笑う。
「あの……あなた、は……?」
一体、この人何なんだろう?
神か魔か、あるいは人間には把握できない何かなのか?
「僕ですか? あの画廊のある世界では、綾野剛(あやのごう)と名乗ってましたよ」
「画廊綾野で会いましょう」【完】