壱の弐 いつものこと

 ふと、花渡が動かしていた扇が止まった。

 

 いきなり厳しくなった視線を追った矢野は、ひっと息を呑んだ。

 赤星が腰の刀に手をかける。

 

 花渡の剣で中身をぶちまけて死んでいた屍が、ゆっくりとした動きでうぞうぞと起き上がった。

 血を吸った花と内臓がぼたりと落ち、血臭だの何だのを立ち昇らせながら、四つの屍がゆっくりと、花渡たちのいる方向へ歩み出した。

 

 生き返った訳ではない。

 それが証拠に、目は虚ろで、動きがぎこちない。

 第一、この傷で生きていられる人間などいる訳がない。

 

「走屍《そうし》か……!」

 

 明らかに自分たちめがけてにじり寄って来る死骸に、赤星は刀を鞘走らせた。

 

 走屍。

 不意に甦った死骸だ。

 唐の伝説によると、生きた人間を追うという話だが、確かにそいつらは生きた花渡たちに迫って来ていた。

 

 風のように花渡が走る。

 

 瞬き一つの間に、一番近くにいた走屍が倒れた。

 一瞬で長刀を抜き放ち、そのまま斬り下ろしたとは、実際に見ても信じ難い。

 中身をぶちまけるどころか真っ二つになって、走屍は動きを止めた。

 

「……こっちだ貴様ら!」

 

 赤星が吠え、刀を構えた。

 並の刀だが、構えは堂に入っている。

 

 ずり、ずりと花渡ににじり寄ろうとしていた一体が、ぐぎりと首を捻って、赤星に向き直った。

 

「助太刀いたす!」

 

 上ずった声ながらも、矢野が刀を構えて前に出た。

 別の方向から花渡に近付いていたもう一体の視界の真ん中に。

 そいつも、何かに引っ張られたようにずいっと向きを変え、はらわたをこぼしながら矢野に突っ込んできた。

 

 その間に、花渡は最後の一体に対峙した。

 

「哀れな奴だ。迷って出る程のお役目だったのか? 江戸の市井の、名もない当てもない女一人始末するお役目がか?」

 

 花渡の嘲笑も、既に屍には届かない。

 憑いた低級の「モノ」の命じるまま、ひたすらに暖かい血を求めて虚ろに進む。刀は手放していないのが大したものだった。

 

 ゆっくり、屍が刀を振り上げる。

 体が死んでも、その残された体の脳味噌に残されたあれこれを、憑いた低級のモノが利用して、生前と同じことをするのだと言われていたが、それはさておき。

 

 ひゅっ、と風が巻いた。

 下段斬り上げから斬り下ろし。さながら銀の燕の軌跡のように。

 四つに切り分けられた死骸が倒れる。

 

 花渡は向き直った。

 赤星の刀が走屍の刀と押し合い、ぎりぎりと押された。

 

「くっ……!」

 

 体を半ば断たれているくせに、走屍の膂力はとんでもないものだった。

 ぼたぼたとはらわたをこぼれさせながら、走屍は赤星を押し切ろうと――

 

 ひゅんと横一線に銀光が走った。

 

 胴体を横真っ二つにされた走屍が、どしゃりと崩れ落ちた。

 言葉にするも憚られる凄惨さだが、唐突に鍔迫り合いから解放された赤星にそれを気にする余裕はない。

 

「花渡! 矢野を……!」

 

 自分を救った剣士に、赤星は叫んだ。

 無論、花渡はすでに向きを変えていた。

 長刀の血脂を拭う間もなく、やはり鍔迫り合いしている矢野と走屍の背後に駆け寄る。

 

 一瞬、矢野の体勢が崩れた。

 走屍がいきなり力を抜き、同時に矢野の脚を蹴ったのだ。

 慣性で、矢野は前のめりに倒れる。

 

 その頭上で走屍が刀を振り上げて――割れた。

 

 頭頂から股間まで、花渡の長刀が断ち割ったのだ。

 

 残った血が矢野に飛び散り、汚い中身を散乱させながら、走屍の右側と左側がそれぞれ別の方向に倒れる。

 矢野は衝撃と緊張からの解放に震えた。

 

「大丈夫か? 二人とも」

 

 花渡が同心二人に声をかける。

 

「やれやれ、助かったぞ」

 

 赤星はしきりに額の汗を拭った。

 

「……助けていただきかたじけない……」

 

 許容を超える無惨な場面を間近で見てしまった矢野は、どこか目が虚ろだ。

 

「すまんな。箒でもあれば良かったのだが、間に合わない場合は走屍の体を斬り断つしか方法がないんだ」

 

 走屍を元の死骸に戻すには、箒草の箒で打てば良いという言い伝えだが、それ以外の方法としては体を一繋ぎにしておかない、切り離すという手段が有効だ。経験的に、花渡はそれを知っていた。

 

「しかし、最近この手の話が多いな。この間も葬式で仏が走屍に化けて、始末してきたばかりだが」

 

 赤星は気難しい顔で天を仰いだ。

 最早目も当てられない死骸を見たくないのかも知れない。

 

「モノが出るなんて、昔からよくあることじゃないか。江戸はそういうのが出ないように気を使って造られた町だって話だが、でかいのは滅多に出ない代わりに、走屍みたいなありふれたのは網の目からこぼれるんだろ」

 

 花渡は走屍の残骸を跨ぎ越すと、涼しい木陰に戻った。

 慣れているのか精神的に頑丈なのか、今の現象も死骸そのものも恐れている様子はない。

 

 神君|徳川家康《とくがわいえやす》公が天下を平定し、この江戸に幕府を開いてそれなりの時が経つ。

 しかし、人同士の争いの時代が過ぎ去った今でも、幕府が民草に武器の所持の禁令を発布できない理由は、まさに夜と昼の隙間を縫うようにして現れる怪しき「モノ」にある。

 

 どこかにわだかまる暗闇から、或いはこの世の薄皮一枚隔てた外側らしき場所から。

「モノ」は立ち現れ、人を脅かす。

 

 京に都のあった昔のように、洛中に堂々と人を食うモノが|蔓延《はびこ》るようなことは流石に少なくなったが、それでもモノは人間の暮らしのそこここに跋扈している。

 

 種類はそれこそ無数だ。

 定まった形すら持たない、最下級のモノが死骸に取り憑いて下等な欲求の赴くままに人を襲う走屍の類は、ごくありふれたモノの一つだ。

 

 青ざめている同心二人を尻目に、花渡はあることに引っ掛かりを感じ――

 次いで、自分が考えても詮無いこと、とその考えを放り出した。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「うわっ! どうしたんです、こりゃあ!」

 

 ようやく大八車と二人ばかりの人足を調達してきた千太が、更に酷くなった河原の様子を見て悲鳴を上げた。

 

 青い顔をしながらも、矢野が走屍騒ぎの顛末を話して聞かせる。

 最早血と臓物と幾つかの肉くれと化した死骸を始末しなければならない人足たちが心底怖じ気づいた顔になる。

 手近な番所を通じて調達してきた人足だろうから、単なる死骸なら何とも思わなかっただろうが、流石に花渡の長刀が容赦なく作り出したものは無惨過ぎた。

 

「あー、悪いな、矢野の旦那が仰った通りだから、とりあえず始末してくれ。後で赤星の旦那に駄賃でもせびりゃいいだろう?」

 

「何が駄賃だ馬鹿者!」

 

 花渡に拳骨を降らせ、赤星は人足と千太に死骸を大八車に積むよう指示した。

 

 あれやこれやの色々な意味で悲惨な作業の後、血まみれの筵《むしろ》で荷物を覆った大八車は番所に向かって大儀そうに進みだした。

 物好きにもまだ残っていた橋の上の野次馬が道を開ける。

 

「やれ、湯にでも入りたい気分だ、帰っていいか?」

 

 花渡はようやく面倒が消えたと言いたげだ。

 

「いい訳あるか! 奉行所で取り調べだとさっき言っただろうが! とっとと付いて来い!」

 

 赤星が再びごつんとやった。

 

「七面倒臭い……何度同じ話をせにゃならんのだ」

 

「まあ、お前のことだ。またかとなるのは目に見えている。恐らくそう面倒でもないが、あの刺客どもの出所も分からんだろう」

 

 赤星はいつも以上の渋面になる。

 彼にしても忸怩たる思いはあるのだが。

 

「いつものこと、か」

 

 花渡は歩き出した赤星と矢野の後を追った。

 緑の時期の風が、血臭をすすぐように、ひゅるりと吹き過ぎた。