その7 妖怪の世界

 アリスがうさぎの巣穴から不思議の国に迷い込むように、瑠璃は唐突に妖怪の世界へ足を踏み入れた。

 架空の妖怪ものの世界のことならまだしも、瑠璃は「現実に存在する」妖怪の世界のことなど、何も分からない。

 多くの妖怪が、人間に紛れて暮らしているらしい……ことは、紫王たちを見ればすぐに分かった。

 しかし、具体的に妖怪そのものがどうした性質の生き物なのか、人間に紛れて暮らしている一方で、妖怪としての社会はどのように築き上げられているのか。そういったことがさっぱりだ。

 陀牟羅婆那や天椿姫は、周囲の妖怪に明らかにうやうやしい扱いを受けている。そのことから、妖怪の世界にも、有力で周囲を従わせられる存在と、そうでない者が存在するのであろうくらいの見当はつく。しかし、瑠璃が学校の政治経済の時間に習ったような、具体的な「社会の仕組み」というものがあやふやだった。

 

 ならば。

 疑問は解消した方がいい。

「妖怪」当人たちに、訊けばいいのだ。

 

 

「うん。よしよし。誰もいなくていいねえ」

 蓮沼清美は、彼らと紫王の住むマンションの屋上に続く扉を押し開けた。

 空の風と光が押し寄せ、背後にいた瑠璃は思わず巻き上がる髪を押さえた。

「周り柵しかねえけど、怖くねえか?」

 横に並んでいた紫王が、一歩先んじて手を差し伸べてくれる。

「ありがと。大丈夫」

 正確に言うなら、これから「見せてもらう」ことに比べれば、「高い場所にいること」など、何ほどのこともない。

「ここ来るの久々だなー。ま、高さ自体はそんなに変わらねえけどさぁ」

 仁が先ぶれのように紫王と瑠璃に先んじながら、そう呟いた。確かに、紫王の暮らしている部屋の、すぐ上の階と言えばそうでしかない。ただ、普段は人の出入りが制限されているというだけだ。

 これから見るもの。

 それは、瑠璃が是非とも把握せねばならない「妖怪とは何か、何ができる生き物か?」という根本的な問いの、ある答えとなるもの。

 瑠璃は胸を高鳴らせながら、切り取られた光の塊みたいに見える屋上への扉をくぐった。

 

 屋上は、ごく愛想のないものだった。

 貯水タンクがそびえ立ち、打ちっぱなしのコンクリートの床は、人間の恒常的な滞在を想定していない。

 頭上には薄曇りの空が広がり、風はどこか生ぬるい。昨日までの晴天と引き比べて、何となく隠微な雰囲気だ。

 周囲の建物は、軒並みこの高層マンションより低いので、他人の目は気にしなくても良い――のだが。

 

「ええと、さて、どこから説明するかな。妖怪と、その能力について、ね」

 このマンションの住人である三人の妖怪――神楽森紫王《かぐらもりしおう》、乾仁《いぬいじん》、蓮沼清美《はすぬまきよみ》のうち、最も年長である清美が切り出した。筋骨隆々、男性性を絵に描いたような彼が、紫王の配下としては家事担当で、得意が料理というのは、ちょっとシャレ過ぎていると、瑠璃などは思うのだ。

「まずは、俺らの正体を、見てもらった方がいいか」

 独り言のように言うと、清美の全身を光の波が走った。

「ほら、来い、危ない」

 紫王に引っ張られ、すいと退いた目の前で、光はぐんぐん広がっていった。

 次の瞬間、そこに現れたのは、とてつもなく巨大な蜘蛛に似た体に、円月刀と見紛う牙を剥き出した鬼の顔を持つ怪物だった。漆黒の角は、水牛のそれを思わせる。

 でかい。

 体長4m以上はあるだろう。

 深紅の肉体には、黒で縁取られたコバルトブルーの紋様が走り回っており、禍々しさを更に強調する。

 肢の先は巨大な一本の爪になっており、床のコンクリートを踏み破らんばかりの力感に満ちていた。

 牙をむいた鬼の顔は、人間であった時の人の良さそうな色は消え失せ、目の前にある者なら全て喰らい尽くし破壊し尽くさんとする意思を見せるかのようだった。

 八本の脚には、蒼く輝く雲がまといついており、凶悪でありながらどこか神秘的な色を帯びる。

「昔話で聞かされた……牛淵川の……」

 瑠璃は、この辺の子供向け図書館に必ず置いてある昔話の本を思い出した。

「そうだ。俺が、その『牛淵川の牛鬼』だよ。そもそも、牛淵川って名前も、牛鬼の俺が住んでたから付いた名前なんだぜ?」

 大きなぞっとする口から、ここ最近で聞き慣れた清美の声が聞こえて、瑠璃は何だかほっとする思いに駆られた。

 人間だった頃の自分なら、気絶必至のその姿に、瑠璃は神妙な畏怖の気持ちとでも言うべきものを抱いた。それは凶悪で暴力的で不吉で、そして肚の奥底から登ってくる畏敬の念を感じさせた。

 

「んじゃー!! 俺も行きますかっと!!!」

 仁がそう言うと、その全身をくるりと金色の光が取り巻き、波のようなものが走り抜けた。

 その後にそこにいたのは。

「どうだ? 化け狼って、かっこ良くね?」

 それは牛ほどの大きさがあろうかという、漆黒の獣だった。

 全体的にハウンド犬のように引き締まった体つきだが、毛皮は分厚く、艶やかだ。

 星のない夜のような漆黒の中で、銀色の双眸が冷たく燃えている。口は大きく、その中に長く湾曲した牙が見える。手足の先端の爪も、さながら銀のナイフのようだ。

 体の周囲を炎が取り巻き、軽く跳ね上がるたびに、ぼぼっと燃え上がる。

「狼……ニホンオオカミ……?」

 瑠璃は百年以上前に絶滅したとされる、その幻の猛獣の名を口にした。

「ニホンオオカミの、化け狼な。大口真神《おおくちのまかみ》とか、まあ、呼び名は色々ある。動物の方は絶滅しちまったけど、そこから派生した妖怪種族である俺らは健在って訳やね」

 今や漆黒の巨狼である仁は、大きな口からだらりと舌を出す。その風貌に、仁の普段取っている人間の少年の姿がダブッて見えた。

 その姿は、五月蠅《さばえ》なす神々の跋扈する夜の神聖さ。清らかで荘厳な闇そのものだった。

 今は亡き、夜の眷属は滅びていない。不滅のものとして、今、ここにいる。

 

「なかなかかっこいいだろ? 妖怪ってよ、人間様にゃ、真似できねえかっこよさだと思うぜ?」

 高慢ちきな様子でそんなことを嘯《うそぶ》き。

 紫王は、自らの全身にも光の波を走らせた。

 風に菫泥石の色の髪がたなびき、曇天の光に、額の紫金剛石がきらめいた。幻妖な紫の光の帳が揺れる。

 準備運動でもするように六本の筋肉質な腕を回すと、千手観音じみた優雅な神々しさが生まれた。瑠璃は思わず見入ってしまう。

 仁の野性味溢れる気高さとも、清美の生物の本能を刺激する凶暴さとも違う、その玄妙不可思議な高雅さ。神の一族であると言われて、何の抵抗もなく受け入れられる威厳ある雄々しさ清浄さが、そこには満ち溢れており。

 その六臂に抱かれたことのある瑠璃は、その天上の美に、ほうっと溜息をつくことしかできなかった。

 阿修羅とは、遠くメソポタミアに遡る、地上で最も旧き神の一派。まさに戦いを至上とするのに、その姿はどこまでも高貴で輝かしい。

 その象徴するは、光。炎。そして生命力。

 その相手となったもう一方の神の末裔《すえ》は、一睨みで万軍を敗走させ、その姿を見せるだけで天上の神の加護すら退ける妖威の持ち主。

 聖なる者の血を引く子は、自らの祝福を誇示するように威厳ある姿を曝す。

 

「さて。見てもらって何となく分かると思うが、俺ら妖怪は、人間にはない多彩な力や性質を持ってる」

 清美が牙をこすらせて解説を始める。話しづらいのではないかと思うが、本人の様子を見る限り、言葉に不自由なさそうだ。

「ただ、それもピンからキリまである。妖怪としての力は、その種族によって使える、もしくは得意とするものが大体決まっていてね。ほら、人間が見聞きするような妖怪についての伝承でもあるだろ? 天狗は妖術が得意で空を飛ぶとか、鬼は物凄い怪力を持っているとか」

 瑠璃は素直にうなずく。

 事前の情報として与えられた話の中には、「人間が妖怪に関して伝えている伝承と、実際の妖怪の生態とは、大幅な開きがある」というものがあった。

 それも当たり前だと、瑠璃は納得する。

 基本的に、時折しか接しない異種族についての「言い伝え」。つまり、ごく狭い知見に基づいた偏見を、更に又聞きの又聞きで、伝言ゲーム式に伝えていくのだ。正確な姿が伝わっていると判断する方がおかしいであろう。

「その中でも、妖怪っていうのは個体差も大きくてね。同じ種族でも神様みたいなヤツもいれば、ちょっと念入りに武装した人間にやっつけられてしまうようなのもいる訳だ。まあ、これには、その妖怪がどのくらい長く生きているかとか、どんな程度の『格』の妖怪の血を引いているかとか、そういった要素も絡んでいるから、一概にこうとは言えない訳だけどね」

 その言葉に、再度瑠璃はうなずく。

「紫王の場合は、すっごく格の高い妖怪の血を引いているけど、まだ生まれて十何年しか経っていないから、ご両親ほどの力はない。でも、潜在能力が物凄くて、期待されていて、周囲からは敬意を表して『あやし皇子』って呼ばれてる、んですよね?」

 ふっと振り向くと、紫王は優雅に腕を組んでいるところだった。

「ま、そんなとこだ。もっとお袋の血が濃ければ、色々器用にこなせたんだろうが、残念ながら、俺はあのクソオヤジの血が濃くてな。もっぱら戦いに関する妖力しか持っていない」

「……でも、かっこいいね。さらっと『俺は戦うことしかできない』って。ゲームのキャラクターとかだったら人気出そう」

 思わずその年頃の子供らしい感想を瑠璃が漏らすと、紫王はおろか、仁も清美も笑い声を上げた。

 

「あー!! あー!!! 化け狼代表として、俺から、新米神虫の瑠璃ちゃんに、言いたいことがありまーす!!!」

「はい、乾くん!!!」

 ぶんぶん尻尾を振る仁を、紫王が担任の教師のモノマネで指名する。

「あのさ、妖怪って、ゲームのモンスターじゃねえから!! 同じ種族だったら、全く同じグラフィックで同じ能力とかねえから!!! 個体差、めっさ大きいから!! そこんとこよろしく!!!」

 妙に力説する仁に、瑠璃はくすくす笑って見せた。

「流石にそれは分かってるよー。要するに、人間と同じように、同じカテゴリの人でも千差万別だってことでしょ? ただ、全体としての傾向とか、最大公約数的な能力はあるってことだよね?」

 瑠璃がそう受け答えると、仁は喜びのあまり、ぼうっと口から火を噴いた。

「そう!! そういうこと!!! 俺の言いたいのはまさにそれ!!! いや、瑠璃ちゃん、理解早くてめら助かるわ!!!」

 ああ、とそれを受けたのは紫王。

「瑠璃ってさ、元から妖怪好きで、結構思い入れてたっぽいじゃねーか。受け入れる素地ってやつがあったんだろうな。妖怪そのものを」

そう口にする紫王は、妙に嬉しそうであり、誇らしげだった。

 

「ねえ、私も」

「ん?」

 おずおずと瑠璃が口にすると、紫王が一番上の右腕で、瑠璃の髪をかき上げた。

「私も、みんなみたいな、立派な妖怪になれるのかな……?」

 瑠璃は思わず考え込まざるを得ない。

 紫王にせよ、仁にせよ、清美にせよ、すでに「自分の在り方」を見出しているように見える。妖怪として、人間に化け、いわば二つの領域を掛け持ちして生きている訳だが、それに苦痛を覚えている様子はない。

 だが、瑠璃は迷ってしまう。

 自分は「ちゃんとした妖怪」ではないのではないかという恐れを抱いてしまう。

 紫王や仁、清美の態度を見れば、瑠璃が変じた「神虫」という妖怪種族の「格が高さ」には無条件の信頼を置いているように見える。それに変じたという事実だけで「半端者」になどなりようもない、と判断しているようだ。

 しかし、瑠璃にはその「有り難さ」がまだ把握できない。

 もっと……

 

「なあ、清美ちゃーん」

 仁が、不意に鼻面を宙空に差し上げ、どこまでも広がる薄灰色の一点を指し示した。

 途端に。

 清美の口から、輝くねじくれた糸の束のようなものが、凄い勢いで宙空に発射された。

 

 一瞬、何が起こったのか理解できなくなっていた瑠璃の前で、その糸が何か見えない大きなものを絡め取り拘束するのを、彼女は唖然として見上げていた。