がしゃがしゃと、耳障りな音と共に、暗闇から「それ」は湧き上がってきた。
うすら寒い闇に浮かび上がる白骨の群れ。
まるで視界の奥の暗がりから無限に吐き出されているかのように、自ら動く髑髏の軍団が、その石の広間に向けて押し寄せてきた。
四方の通路から、際限もなく、手に手に錆びた刀だのナタだのを携え、場合によっては朽ちた鎧を身に着けたまま。
生ある者の息吹に引き寄せられるように、死者の一団は、無言でその薄闇わだかまる広間に向かっていた。
冷たい石の迷宮の奥深く、悪夢の光景は現実のものとなっていた。
「消え失せろ、貴様らぁーーー!!!」
怒声と共に、膨大な量の水が周囲一帯を押し流した。
闇を呑んで黒い水は、四方を石で固められたその建造物の中を荒れ狂い、中に収められていたもの全てを押し流し、さらっていった。
中心の広間から、水は洪水のように噴出し、無数の頭を持つ大蛇のように、通路を荒れ狂う。
八方から集結しつつあった動く骸骨の群れは、巨大な水の槌に砕かれてバラバラになり、水流に押し流されてどこへともなく消えていった。
後に残されたのは、濡れた石の壁と床、そして、天井近くにある、不気味な妖術の灯火の列。加えて、渦の中心となった部屋にいるそいつだけだ。水自体は役目を終えると、幻であったかのように消え去る。
「おおう、清美ちゃーん、スッキリしたでねえの」
水を避けて空中に浮かんでいた仁が、舌をだらりと垂らしたまま笑いを漏らす。黒い狼の毛皮に、水の痕跡はない。
「だが、まだ本星がいる。ぬかるなよ、お前ら」
同じく正体を現して清美の上に浮かんでいるのは、燐光に包まれた紫王だった。彼が見据えているのは、その石の広間の中央に居座る、巨大な影だ。
「この水圧に耐えるとは、やはり只者ではない……本物のようですな」
まだ渦巻く水を鎧のように蜘蛛の体に纏わりつける清美が、その巨大な影を見ながら低く呻く。
そこにいたのは。
それは、「天奏寺の十抜け」の一角に潜む、巨大な悪霊だった。
神代に数ある伝説の中でも、一際不気味なものの一つ。
古代の遺構も利用して作られた地下迷宮「天奏寺の十抜け」の中に潜む、古の武将の亡霊の話だ。
かつて、この地を治めていた戦国武将、全道将左衛門爲清《ぜんどうしょうざえもんためきよ》。
彼がこの「天奏寺の十抜け」を完成させたと言われているが、それだけに強く結びついてもいる。色々な意味で。
彼が隣国に攻められてこの「天奏寺の十抜け」内部に避難した時、配下の者の裏切りに遭った。
彼は寝首をかかれ、あっさりこの地は陥落。敵将の手に渡った。
だが、この地の支配者が変わってからも、爲清の影がこの地から去ることはなかった。
志半ばにして裏切りによって命を落とした爲清は、悪霊となってこの「十抜け」に留まった。自分を討った裏切りの臣を探して、いまだに十抜けを徘徊している――と、伝説は伝える。
「しっかしな。地上にまで実害があるからってんで、お袋がなだめて封じたはずだろ、とっくの昔に。何でこいつがまだいるんだ?」
紫王が険しい表情を見せる。
一般の人間はあずかり知らぬことだが、天椿姫は凶悪な悪霊と化した爲清を放ってはおかなかった。
単身「天奏寺の十抜け」に侵入し、妖術を駆使して爲清を慰撫・沈静化し、成仏させたのだ。彼は自らの墓所に戻り、穏やかに眠っている……はずであったが。
「それもこれも、霊泉居士のせいですよ」
獣じみた唸り声を上げる、甲冑に身を固めた武将の霊を眺めやりながら、清美が応じた。
「爲清公は、この地の守りの一柱として、地上に留まっていた。霊泉居士なら、妖術を使ってその霊を悪霊に戻すくらいは簡単にするでしょうな」
彼らの目の前で、闇が渦を巻いている。
その渦の中心にいるのは、ぼろぼろの甲冑に身を固めた巨躯の男。
彼こそが、この「天奏寺の十抜け」の主である、仙道将左衛門爲清公。
今となっては「十抜けの悪霊」であるが。
彼の怨念が呼んだのか、それとも霊泉居士の妖術か。
「十抜け」内部には、自律して動く骸骨の怪――髑髏鬼《どくろおに》が無数に徘徊し、紫王たちに襲い掛かった。
彼らが「十抜け」深部の石室で爲清公に出くわすなり、四方八方から髑髏鬼が押し寄せてきた。それを一気に洗い流したのは、牛鬼である清美の操る荒れ狂う水流である。
しかし、本星である爲清公はこの場に留まっている。
清美の操る妖力を秘めた水は、一定の体力を削ったようであるが、流石に年季の入った悪霊、まだ余力を残している。
『友景《ともかげ》、ようやく見つけたぞ』
悪霊が、ぽっかり空いた穴のような口から呻き声を漏らした。
『忘れたか、このわしを……だが、わしは忘れておらぬ』
困惑気味の紫王たちに構わず、悪霊は暗い目を輝かせ、一行を睨み据えた。
「紫王」
仁が早口で友に耳打ちする。
「友景って、確か、あの殿様を裏切ったっていう家臣の名前だったぜ。俺らのこと、仇《かたき》だって思い込んでる」
紫王は苦い思いと共に頷いた。
目の前の悪霊の境遇には、一抹の同情が湧かないでもない。
自分の身に置き換えるなら、仁や清美に裏切られて殺されたようなものであろう。多分、実際に自分がそんな目に遭ったら、そう簡単に成仏できそうにない。
だが、自分には、彼の相手をしている暇はないのだ。
この地下迷宮のどこかに閉じ込められているのであろう、瑠璃を救出しなければならない。
時間は、あまりない。
『滅せよ!!!』
爲清が吼えた。
渦巻く闇となった怨念が、無数の奔流となって彼らを直撃した。
「あぐっ……!!」
紫王、そして仁も清美も呻いた。
至近距離でショットガンに撃ち抜かれたように、衝撃と痛みで視界が暗くなる。急激な立ちくらみがのように、意識が現実から引きはがされようとした。
闇に呑まれようとする意識を現世に繋ぎ止めたのは、彼らの強大な妖力だ。
全てを闇の冥府に送り込まんとする死の妖力に対抗するは、この世の生命を燃やす鮮やかな妖力。
だが、神代きっての悪霊の妖力も凄まじい。
闇の奔流は、うねくる支流一つ一つが巨大な蛭《ひる》のように、のたうち、紫王たちに絡みつき生気を啜《すす》ろうとする。
「いい加減にしやがれ死にぞこない!! 俺らは忙しいんだってぇ……のっ!!!」
仁が闇を振り払って跳躍した。
妖しの火が四肢を彩り流星のように尾を引く。
くわっと開けた口に、聖なる牙が覗いた。
一瞬のうちに、悪霊の喉笛に、炎に彩られた化け狼の牙が食い込んでいた。
「仁!! 喰らわせてやれ!!!」
紫王がその後を追って突撃する。
化け狼たる仁の牙は、悪霊や憑き物といった歪んだ思念の具現化たる存在に、特に強力な効果を及ぼす。正義を司る聖獣たる狼の力の前に、歪んだ怨念や悪意は強制的に正され、無力となるのだ。
真正なる大口真神の牙に貫かれた悪霊の肉体に、聖なる炎が燃え移る。
仁の肉体を常に取り巻く、怨念を浄化する至聖の炎は、強大な怨念の塊という燃料を得て爆発的に燃え上がった。
絶叫が、「天奏寺の十抜け」内部に轟き渡った。
「うらぁあぁぁぁ!!!」
聖なる炎に勢いを得た、紫王の光の拳が爲清の肉体に食い込んだ。
闇を滅する光と、想いを具現化する想念の輝きを帯びた拳が目指すのは――邪悪なる存在の抹消。
仁が飛びのいた瞬間、紫王の拳が無数に分裂したかのように炸裂した。
それはまさしく千手観音の腕のように、空間に花開き、轟音と共に雪崩れ落ちた。
一撃ごとに「十抜けの悪霊」はその存在が削られ、闇が薄くなっていく。
聖なる炎で燃やされ、神性を帯びた拳で砕かれ、悪霊は存在そのものを損なわれた。
闇の空間を光と熱が圧した時。
「十抜けの悪霊」爲清は、この世から消滅していた。
「ふぃ~~~、手ごわかったな!!」
仁がぶるりと首を震わせた。多少の傷は負ったが、自分の牙があのくらいの悪霊にも通じると分かって満足したようだ。
「? 紫王様? どうかなさいましたか?」
雲をまとう清美が、自分の拳をまじまじと見下ろしている紫王に近づいた。
「いや……」
紫王は、今までと違った「何か」の感覚を覚えて、じっと自分の六臂を見下ろしていた。
それは、ある力を別の、自らの持つ力をぶつけて破壊するのとは違った感覚だった。
言うなれば、化学反応にも似た力とでも表現すべきか。
自分の意思が、いつも以上に拳に乗った感覚があった。
そして、それが、まるで酸が鉄を溶かすように相手の存在を「分解した」とでも言うような。
普段なら空中に残留する、相手の「残留思念」の気配がない。
きれいさっぱり「消滅」している。
これは。
今までとはまた違う力の発露に、紫王は体の奥底から武者震いした。
……妖怪をある程度長くやっていると、こういうことがある。
新たな「妖力」が芽吹く瞬間だ。
それは父とも、母とも違った妖力。
自分だけの、妖力。
「……やっぱ、瑠璃ちゃん、こっちの方にいるんじゃねえかな? こっちから匂いする」
ふと、瑠璃の名前が耳に飛び込んできて、紫王は顔を上げた。
仁が、悪霊が立ちふさがっていた方の通路に長い鼻面を向けて唸る。
「やはりこっちか……紫王様」
清美に促され、紫王は頷いてそちらに足を向けた。
延々と、無限に続いているような暗闇が、奥に続いている。
ところどころに灯された妖術の灯火が、むしろ余計に闇の深さを強調しているような。
「行くぞ」
紫王がそちらを見据えた。
この奥に、瑠璃がいる。
早く助け出さなければ、霊泉居士に何をされるか分かったものではない。
紫王たちは、先頭に瑠璃の匂いを追跡できる仁、そして紫王、最後尾に清美の布陣で、死の腐臭に満ちた地下迷宮に足を踏み出した。
「……あれ? また誰か」
足音を聞きつけたのか、仁が立ち止まる。
「髑髏鬼か」
紫王が構えようとしたが。
「!? 違う……まさか!?」
仁がぎょっとしたように首の毛を逆立てた。
それは、確かに骨が石の床を叩く乾いた音とは違っていた。
生身の足音だ。
それも、裸足《はだし》の。
同時に、シャラシャラと宝飾品が触れ合う高貴な音が混じって聞こえた。
「そんな!?」
清美がぎょっとして巨体を震わせた。
妖しい灯火の中に、見覚えのある影が差した。
「たかがここまで来るのにこれほどかかるとは。やはり、お前の実力はこんなものだな」
吐き捨てるように言葉を叩きつけた長身の影を、紫王はまじまじと見つめた。
「親父……」
唖然と見返す紫王の視線の先で、金色の目が冷ややかに光った。