6-8 作戦開始!!

 セリエールは、疲れ果てていた。

 繊細な硝子を組み合わせたみたいなカブトムシの翅は、すでにあちこち折れ破れ、穴が開いている。過酷な労働と栄養不足、そして極端なストレス環境下にあることが原因であろう。

 通常時なら、森の宝石とたたえられる妖精族特有の美しさは、見る影もない。

 

 亜麻色の髪も薄汚れたセリエールは、それでも律儀に宙に羽ばたき、この森名物のロドレフルーツの実を収穫する。

 腰の後ろに下げた籠に、ぽいぽいと慣れた手つきで熟した実を放り込む。

 甘く芳醇な、食欲をそそる香りも色も、今は気分を落ち込ませるだけ。

 もし、これが、例年のような、森の恵みの収穫だったら――ただ、ひたすら嬉しいだけだ。

 帰って夫や幼子のために、タルトやフルーツケーキやジャムを作る。

 だが、すでにそれは叶わぬ願い。

 この「収穫したロドレフルーツ」は、セリエールの口にも彼女の家族の口にも、まず入ることはない。

 これを汚らしく食い散らかすのは、あの非道な森鬼どもだ。

 セリエールの夫、そしてまだ五歳の息子をそれぞればらばらに監禁し、セリエールが表で働く時は必ず家族の誰かを人質として取り、誰一人逃げ出せないようにしている、あの悪魔ども。

 

 分かっている。

 こういう目に遭っているのは自分一人だけではない。

 村全体がそうだ。

 かつてフォーリューン村と呼ばれた村の住人は、全員が今や森鬼の奴隷だ。

 ただ、奴らに労働奉仕するためだけに生かされ、それ以外は生命維持する最低限のことしか許されていない。

「奴隷」という概念は、知っていた。

 昔話にも出てくるし、街に買い出しに行った時に手に入れた本で読んだことがある。

 だが、その状態がいざ自分の身に降りかかってくると、こんなにも辛いとは予想ができなかった。

 人の想像力には所詮限界があるのだと思い知った。

 

「どうしてこんなことになっちゃったんだろう……」

 

 そう、思わず呟くと、それが契機だったかのように、紫紺色の美しい瞳から、次々に涙が溢れだしてきた。

 何が悪かったんだろう。

 自分たちは、今まで、何かこんな罰を神から受けねばならぬほど、酷い間違いを犯してきたのだろうか?

 いくら考えても、出てくるのは、百年前も百年後も変わらなそうな、素朴で静かな村の暮らし。

 嫌なことだって、そりゃあない訳ではなかった。

 何かするとあっという間にみんなに知れ渡るというのは、正直とっても困る。

 でも、それに目をつぶれるほど、村の暮らしは穏やかで満ち足りていた。

 話に聞く帝都みたいに、最新鋭の電気機械なんかはないけれど、その代わりに帝都を時々騒がせるような凄惨な事件なんか起きっこない、安心できる村だった。

 それが、たった一晩で変わってしまった。

 

 望みはある――と、一緒に閉じ込められている従兄(いとこ)が言っていた。

 旅の魔法使いだとかと一緒に、村を飛び出したマイリーヤとイティキラ。

 彼女たちが、できればまたあの魔法使いと共に村に帰ってきてくれれば。

 何があったのかと思い、確かめようとするだろう。

 みんなの窮状を知るかも知れない。

 野盗の群れを、魔法の一撃で吹き飛ばしたとかいうあの魔法使いが一緒なら、もしかして、森鬼だって吹き飛ばしてくれるかも知れない……

 

 儚い望みだ。

 マイリーヤとイティキラが馬鹿なことを言うから、結局呆れて勝手にしろと、彼女たちを放り出した、というのが、あの別れの本当のところだろう。

 そんな冷たい村に、彼女たちは帰って来るだろうか?

 遠くで新しい生活を始めて、思い出しすらしないのではなかろうか?

 

「ごめん……変な夢を見てる、ちょっとおかしい子なんて言ってごめん……」

 

 セリエールはすすり泣いた。

 ここまで追い詰められなければ、マイリーヤたちを思いやることさえできない、しかも都合よく彼女を頼ろうなどと考える自分の卑しさに打ちひしがれ、泣いた。

 この先、絶望の色一色に塗りつぶされている未来に怯えて泣いた。

 卑しく、都合がいいなんて分かってる。

 でも、助けてほしい。

 夫は、息子はどうしただろう。

 夫は強い人だ。自分が無事なくらいなのだから、望みはあろう。

 だが、息子は。息子は、まだ、五歳なのだ。

 

 セリエールの涙が、ぽたぽたと地面に……

 

「セリエールさん!!」

 

 一瞬、空耳かと思った。

 あまりに熱望するばかりに、疲弊しきった心が聞かせる空しい慰めなのだと。

 

「セリエールさん!! ボクだよ!! マイリーヤ!! 大丈夫!?」

 

 唐突に肩を叩かれ、見知った顔が視界に飛び込んで来た。

 あまりのことに呆然とする。

 緑の蝶の翅、翠森石の色の瞳。

 まさしく目の前にいるのはマイリーヤだった。

 

「ああっ、動かないで、今、回復魔法かけるから!!」

 

 更に信じられないことが起こった。

 背後からふわんと押し包む、獣佳族特有の癒しの魔法の波動。

 それは振り向くまでもなく――マイリーヤと双子のようにいつも一緒にいた、イティキラの回復魔法だ。

 

「マイリーヤ!? イティキラ……!?」

 

 セリエールは嬉しさのあまり発狂しそうになるということもあるのだと、身をもって知った。

 悲鳴じみた叫びを上げて、マイリーヤにしがみつく。

 

「大丈夫、セリエールさん。もう大丈夫」

 

 マイリーヤは、セリエールの背中をぽんぽんと叩いた。

 

「さ、森鬼(やつら)に見つからないうちにこっちへ!! 外へ出ている人は、みんな救い出すのに成功したから、安心して!! 安全な場所に匿っているから!!」

 

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。

 救い出すのに成功した。

 外へ出ている者は?

 なら。

 

「ああっ、ねえ、夫と子供が捕まっているの!! あの子たちも助けて!!」

 

 引っ張られて歩きながら、セリエールはマイリーヤとイティキラに懇願した。

 

「うん。もちろん、ボクたちそのつもりで来たんだよ!!」

 

 マイリーヤは、懐かしいあの溌剌とした声で答えた。

 

「そのためにゃあさ、森の中で働かされてる人たちを回収して安全な場所に匿う必要がある訳だよ、うん」

 

 わざとらしい――きっと殊更気分を楽にしてくれようとしている――説明口調で、イティキラが後を継いだ。

 

「さ、あん中に入って。あったかい食事と風呂があるから」

 

 え? と思った、セリエールの眼前に。

 緑に埋もれるように、唐突に見たことのない様式の、華麗な石のアーチが現れた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「なんだ……?」

 

 どうにか苦労して大きな石をどけたソベルトは、急に聞こえためりめりっという音に注意を取られて顔を上げた。

 彼もまた、他の者たち同様ズタボロだ。

 黒アゲハの翅は鱗粉が落ちて薄汚く、紫のつやのある、本来なら宝玉のような黒い瞳は濁っている。

 衣装から饐えた匂いが漂っているし、元より細身の妖精族の体はやせこけているといっていい。

 

 この数千年放置されていた遺跡は、すでに森の木の根が這い回り、元の姿は見る影もない。

 それを元に近付けるほど、きれいに改修して住居として使えるようにしろというのが、森鬼たちの無体な命令だった。

 かくして、村長ソベルト始め、彼と一緒に閉じ込められていた村人の一団は、今日も果てしないかと思わせる改修作業をやらされている。

 それに加え、一部の者は、汚らしい森鬼の身の回りの世話等まで押し付けられる。まさに、奴隷だ。

 

 ふと見ると、住居遺跡の石の床一面に這い回っていた木の根が、まるで大蛇のようにうねうね動いている。

 本当にオオモリヘビでもいるのかとぎょっとしたソベルトだが、動いているのは目の前の木の根だけではない。周囲に這い回るあらゆる木の根……いや、植物が、動物にでも変身したかのように蠢いていた。

 

「これは……ッ!?」

 

 ぎょっとしたソベルトが身じろぎした瞬間、噴出する間欠泉の勢いで、植物が噴き上がった。

 あれよという間にぐるぐる巻きにされ、植物でできた閉鎖空間に押し込められたソベルトは、言葉もなく青ざめた。

 

 一瞬ののち。

 

「……これは」

 

 ようやく言葉が出るようになったソベルトは、周りを見回す。

 まるで、乙女趣味の女巨人のバスケットの中に放り込まれたように、編み上げられた樹木が絡み合い、密な籠となってソベルトを閉じ込めていた。

 ご丁寧に、内側にはランプのように、淡く発光するオレンジ色の花が幾つも咲いている。

 

「どうなっている……?」

 

 ソベルトはきょろきょろと周りを見回した。

 と。

 目前のカーブした壁から、ぷっくりとした何かが膨れ上がりつつあった。

 この時期慣れ親しんだ匂いと色合いにはっとする。

 見る間に人の頭ほどになったそれは、濃い黄色に爛熟し、いい匂いを漂わせた――まるで、食べろというように。

 この時期の森の恵みの一つ。

 モージェンの実だ。

 

 理性を失いかけたソベルトだが、ちょうど外から聞こえて来た大音声にぎくりと固まる。

 あれは、森鬼の咆哮と――重なって聞こえるのは、何の吼え声だろう?

 ついぞ、聞いたことのない――何の魔物なのだ?

 

 すぐ側の樹木の壁を誰かが叩き、忌々し気に吼える声が聞こえた。

 どうも通りかかった森鬼が、この植物の固いドームを見咎めたようだ。

 何度か叩き、揺すったようだが、ドームはびくともしない。

 再び咆哮が聞こえ、その森鬼はそれどころではなくなったようだ。

 どかどかした足音が遠ざかっていくのが分かる。

 

「一体……」

 

 いっそ、幻想的とも表現できる空間に、もしかして運よく(?)隔離されたソベルトは、目をぱちぱちさせた。

 

『ソベルトさん? 聞こえますか?』

 

 唐突に頭の中に声が響いて、ソベルトはぎくりとして飛び上がりそうになった。

 

『あたくし、お嬢様と旅をさせていただいている魔法使いの女です。覚えていて下さいましたかしら?』

 

 かっと、ソベルトが目を見開く。

 

「魔法使い殿? これはあなたが?」

 

『ええ。今、お嬢様や他の仲間たちと共に、森鬼を殲滅させる作戦を決行中ですの。外は危険です。その中にいれば安全ですから、そこで動かずににいて下さいまし。何か食べられる実でもなっていれば、それでも召し上がって』

 

 後半は、殊更気楽な口調。

 

「他の者たちは――」

 

『ご無事です。外に出ておられた方は、ソベルトさんと同じ措置を取ってあります。閉じ込められていた方々は、森鬼に踏み込まれて人質にされないよう、出入り口を封じて匿ってあります』

 

 ソベルトは、安堵の溜息が洩れた。

 

「す、すまない、魔法使い殿。どうか――」

 

『あなたは今まで最善を尽くされました。これからは、我々がその努力を発展させていただきます。とりあえず、楽になさっていて下さいな。果報は寝て待っておいでになればいいんですのよ?』

 

 ちょうどその時、激しい打撃音のようなものが轟き、森鬼らしい悲鳴が上がった。

 ソベルトはぐっと拳を握り、冷や汗と共に、追い出すように送り出した愛娘の顔を思い浮かべたのだった。