5 傾空

 百合子は、ともすれば萎えそうになる自分の足を叱咤して、神社の石段を駆け上がる。

 

 厚い鎮守の森の緑の重なりの匂いと、海から吹く風に乗った潮の香りが、百合子の鼻孔をくすぐるが、その風情を楽しむ余裕など、もちろん今の彼女にはない。

 

 乾いた石段を蹴り、どこからともなく聞こえてくる奇妙な鳥の声にも怯えながら、百合子はようやく石段を上がり切る。

 小高い丘のほぼ頂上、ちょっと開けた境内を抱えた古い神社。

 トタンの急勾配の屋根が、神社特融の角度を見せる。

 社が向かっているのは、はるかな海原。

 何でも、この神社はこの海の沖合はるかにあるという、伝説の「常世の国」から流れ着いた「何か」を祀っているのだと、聞いたことがある。

 中学生時分の自由研究で取り扱ったテーマ。

 こんな状況でないなら、懐かしいと思えたのであろうが。

 

「なに……なんだったの……」

 

 ぜいぜい言いながら、膝に手を置いて上体を支え、百合子はさっきまでの出来事を反芻する。

 

 昨日見かけた殺人鬼そっくりの少年の住所を確認しに行ったら、その少年が太刀を持って襲い掛かってきた。

 あわやというところで、美しいが人間ではない二人組の女に助けられ、逃がしてもらった。

 

 こうして脳内で言葉にしてみると、本当に訳がわからない。

 なんとシュールな状況であろう。

 

 いや。

 もっとシュールな事柄がある。

 

 あの鵜殿少年は、自分のことを覚えていたのだ。

「二十年前に」、弟を殺害したのは、鵜殿文章だという内容の言葉をはっきりと百合子に告げたのである。

 百合子にははっきりした記憶がないことだが、どういう訳か、二十年前の鵜殿は、百合子の弟は惨殺したものの、四歳の百合子は殺害しそこねたらしい。

 何故かはわからない。

 ただ、「続きをしよう」と口にして襲い掛かってきたところから、あいつは当時、百合子のことも殺害するつもりでいたのだろう。

 きっと誰かが来るなりという邪魔でも入って、あいつは逃げたのだ。

 そして二十年間、歳も取らずに逃げ回り続け、そして二十年経ってここに戻って来たということなのか。

 

「あたし、殺人鬼に命を狙われてたんだ……」

 

 百合子は呻く。

 弟を失ってからの二十年間、常にその危険に曝されていたのかも知れないが、全く考えたこともない。

 弟の無残な死がショックに過ぎ、自分が以降も危険だったなどと想像してもいなかったのである。

 

 年も取らない、不老不死の殺人鬼に狙われていた?

 どういう状況なのだ、そんな生き物がいたとは。

 

「あの人たち……」

 

 百合子は、今上がって来た石段の下、N町にいるはずの、自分を助けてくれた、奇妙な二人組のことを思い出す。

 

 人間ではないのは、一目でわかる見た目をしていた、彼女ら。

 真紅の翼の美女と、雲を纏う宝石のような女。

 こういう生き物が存在するんだという今更な感動がこみあげるが、しかし、彼女らも何者だろう?

 怖くはなかったが、何故助けてくれたのか。

 どうも、あの口ぶりからすると、鵜殿のことを前々から知っていたようだ。

 それに、あの雲の女の人は、明らかに百合子のことも知って……

 

 ふと。

 

 ぞわり、とする寒気が、百合子を襲う。

 

 今日は良く晴れた暖かい日、しかもかなり激しい運動をした百合子の体は汗ばんでいるほどだったのに。

 冷水でもぶっかけられたかのように、百合子の体が背中から冷えていく。

 百合子は振り向く。

 

 妙なものが、見える。

 

 最初、すぐ脇の鎮守の森から張り出した木の枝か何かかと思ったのだ。

 しかし、違う。

 金属の灰色を呈している。

 しかも、何かを切り裂くように、上から下へ動いている。

 

 いや。

「何かを切り裂くような」ではない。

 切り裂いている。

 空中を、見えている風景を。

 

 あれは。

 刀だ。

 太刀の切っ先だ。

 

 その太刀が通り過ぎたところから、空間としか言いようのないものが切り裂かれて場所を広げる。

 そして。

 そのすぐ後。

 切られた空間の向こう、薄暗い虚無から、赤黒い何かが、ずるりと這い出したのだ。

 

「え……やっ……きゃああああああぁぁぁあああああぁぁっ!!!」

 

 百合子は身も蓋もなく絶叫する。

 

 虚無から這い出して来たのは、異様な怪物である。

 

 生物室の人体模型のように、つるっとしていて滑稽だったらまだ良かっただろう。

 だが、それは、明らかに生きた怪物である。

 グロテスクに歪んだ、筋肉も神経も眼球も剥き出しだ。

 肉体の一部からは恐らく皮膚の残骸をぶら下げて、そのままずるずると、そいつは百合子の元ににじり寄る。

「中身だけ」の右手に握られた、太刀が光る。

 血まみれの表情筋が動き、口元が、ぐいと持ち上がる。

 笑ったのだと認識してしまい、百合子は更に悲鳴を上げる。

 

『お姉さん。ここにいたんだね。続きをしに来たよ』

 

 その皮膚のない怪物が発したその声は、ざりざりとかすれてはいたが、明らかに聞き覚えがある。

 鵜殿少年。

 これがあの殺人鬼なのか。

 

 百合子は逃げ出そうとして、足がもつれて転倒する。

 見上げる彼女の視界に、太陽に輝く太刀が、呪われた怪物に振り上げられるのが……

 

「おい!! これを!!!」

 

 いきなり、何かが視界を割る。

 

 高い音が上がる。

 ばしん、と左手に衝撃。

 

 はっとして、百合子は目を見開く。

 

 いつの間にか、自分の両腕が上がっており。

 その手の中に、紋章のような放射状の形を描く「何か」収まっている。

 太陽を図案化したような、優雅で数学的な美しさまである、金属らしき塊。

 ちょうど、人間が振るうのに適した大きさ。

 太陽の炎のような刃が放射状に生えた、円形の武器だというのが、百合子にはようやく認識できる。

 二本一組で、百合子はそれらを両手にいつの間にか構えている。

 鵜殿の太刀を止めたのは、左手に握られた武器である。

 

 あっという間もない。

 何かが、百合子の脳裏に囁いたような気がした途端に、身体が勝手に動く。

 

 右手の武器を太刀を握った手に叩きつけようとした瞬間に、鵜殿だったものは、背後に飛びのく。

 百合子は、生涯にこれほど素早く動いたことはないというくらいの素早い動きで、一息に跳ね起き、その奇妙な武器を構える。

 

「やはりだ。使いこなせるね、君には」

 

 視界の両側から、かぐわしい影が舞い降りてくる。

 予想はしていた相手。

 あの、真紅の翼の女と雲の女。

 

「今のお前なら、奴に勝てるはずだ。その『傾空(かしぎぞら)』の主になったからにはな」

 

 翼の女が静かだがずしんとくる声で告げる。

 

「傾空」。

 この武器の名前だろうか?

 これは何だろう、物凄く大きな手裏剣?

 

「そういうの初めてだろ? だが、それは君のものだ。切れ味を試したらどうだい、あの化け物でね?」

 

 雲の女が促すのも待たず、百合子は、鵜殿に向けて、右手の「傾空」を放ったのだった。