漆の弐 清浄の花

「あれは一体何だ? モノ、なのか?」

 

 そう呟いたのは、黒耀の横に立っていた、驚くべき美しさを誇る若い女だった。

 男女の別を超えて思わず見とれる端麗さは魔性のものと言えるほど。

 長身で、更に長い太刀を右手に提げている。赤黒い小袖を着ている……と思いきや、よく見ると若衆装束の上も下も血で染められているのだ。

 

「そうみたいだね。何とかするの、お姉さんも手伝って」

 

 黒耀を挟んで女の反対側にいた千春が、飴でもねだる口調でせがんだ。

 

「時が惜しい故、手短にご紹介いたす。こちらが佐々木花渡殿じゃ」

 

 黒耀の紹介に、陣佐と青海はまじまじとその剣客を見た。

 剣客の視線は溜池を泳ぎ回るモノに向かっていたが、ふと陣佐たちを見返す。

 

「巌流佐々木小次郎と、熊野の巫女祝部百合乃が一女、佐々木花渡と申す。……貴殿たちも、御霊士、というお役の方々なのか?」

 

 陣佐と青海は顔を見合わせた。

 千春はどこまで話しているのだろう。

 

「はーい、それは後で後で! 今はあのモノをやっつけるのに協力して!」

 

 千春が花渡の前に回って、陣佐と青海への視線を邪魔するようにぴょんぴょん跳ねた。

 

「同じく手短に申す。自分は神野登陣佐常則《かのとじんざつねのり》。旗本だ」

 

「あたしは、南戸青海って遊女上がりのケチなモンさ。……後でこっちこそあれこれ聞かせてもらうから、覚悟しといとくれ?」

 

 ふふっと青海が笑って、優雅な動きでモノを指し示した。

 

「でね、剣客さん、あのモノなんだけどねえ。何とかできるかい? 水に潜ってる間、不死身なんだ」

 

「不死身? どういうことだ殺せないと?」

 

 剣客は心そそる眉をひそめた。

 

「水に浸っている間は、決して傷が付かないのだ。水から出た場所を攻めても、すぐに水に潜ってしまう。そして、次に上がってきた時には水の力で傷が綺麗に治っている」

 

 陣佐は忌々しげに説明した。

 

「なーんだ、簡単じゃない」

 

 答えたのは花渡ではなく千春だ。

 

「岸辺におびき寄せて、あたしが言霊で動きを止めて、その間にみんなで攻めればいいんだよ」

 

 簡単簡単と笑う千春に、陣佐は苦い顔を見せた。

 

「だから待っていたのだ。しかし、例えそうしても、あれだけでかいと面倒……」

 

「いや、そうでもないぞ。神刀さえ届けば」

 

 あっさりと応じたのは花渡だ。

 

「この神刀にはモノを滅する神威があるのでな。斬れさえすれば、滅ぼせる」

 

 自信に満ちた、と言うよりすでに起こったことを述べているような確固とした口調だった。

 

「しかし、モノを滅ぼすだけでは足りぬ」

 

 黒耀が重々しく告げた。

 

「水じゃ。溜池の水がモノの毒気で濁りどうしようもない。表鬼門の結界を繕い、わずかにマシになったものの、これでは……」

 

「いや……それもどうにかなるやも知れぬ」

 

 花渡が前に進み出た。

 

「おい! 危ない、あのモノに近付きすぎると毒水の弾を吐きかけられるぞ!!」

 

 陣佐の警告が効いたかのように、花渡は足を止めた。

 実際には、池に続く斜面の端に辿り着いたからだ。

 ふっと、しゃがむ。

 白い指が地面に触れた。

 

 風より速い何かが、淡い光を伴って斜面を駆け下りたかのように、御霊士たちには見えていた。

 

 その暖かく清らかな何かは、一瞬で斜面を下り池の周囲、そして池の只中を駆け巡った。

 水面にわずかな漣が立つ。

 

 あ、と小さな声を洩らしたのは誰だったか。

 

 それが通りすぎた後から、みるみる元からある緑より鮮やかな新緑が萌え出した。

 恐ろしく大きな蔓草が這い回るように見えたそれは、実際には無数の花芽だった。

 するすると伸び、先端に萌え出た蕾が膨らむ。

 

 次々と、池の周囲に花が開いた。

 いや、池の中もだ。どろりとした油のような水面を割って、白い蓮に似た、しかしそれより典雅な花が無数に姿を見せた。

 

 それにたまたま触れたモノが激痛に襲われたかのように急激に動いた。

 しかし、大きな鰭で叩き潰されたその花の後にも、また同じ花が咲き誇る。

 

 腐った水の臭いを押しやって、芳しい花の香りが空を漂った。

 どんよりしていた空気が、その清冽な香りに押し流される。

 

「何だい、こりゃあ……」

 

 青海が呆気に取られて呟いたが、花渡本人と千春を除き似たようなものだった。

 

「神田明神でやったやつだ! 伊耶那美命の、浄化の花!」

 

 千春ははしゃいだ声を上げた。

 

「伊耶那美命の……神物である花か……そのようなものが……」

 

 黒耀は信じ難いといった面持ちだ。

 長い時を神仏と共に過ごした身であるからこそ、この奇跡がどれだけの神威であるかが分かる。

 

「これでモノさえ消えれば、恐らく水が澄むと思うが。後は私の剣が届くところまで、モノをおびき寄せてくれ」

 

 落ち着き払ったまま、誰にともなく、花渡は促した。