3-7 危機

 巨大な「何か」が、アマネとエヴリーヌを捕らえる。

 

 巨大な蛇のように柔軟に、魔法使いの鞭のように無限の射程をもって、長大な胴体に呑み込む。

 まるで薄黒いもやでできた大蛇に、アマネとエヴリーヌはそれぞれ呑み込まれたかのようだ。

 

「貴様……っ!!」

 

 アマネは呻く。

 全身をトリモチのような粘度の髙い重苦しいものが取り巻いている。

 体が自由に動かせない。

 周囲の空気は、泥を溶かした水のような不気味な色に染まっている。

 いや、空気ではない。

 突如伸びあがってきた巨大な「何か」が、自分を拘束しているのだ。

 煙でできた魔法の蛇のように、それはあやふやに見えながらも、確固とした実体を持っている。

 大きなものに拘束される、というより、無数の極細だが強靭なワイヤーで縛り上げられているかのように、指一本動かせないのだ。

 

 ぎりぎりと全身の皮膚を食い破るような痛みに加え、何だか全身が熱いと、アマネは感じ始める。

 錯覚ではない。

 火傷特有の皮膚を貫通するような痛み……

 

 轟音が轟く。

 

 アマネは右腕に魔力を集中させて、強引に術を放つ。

 

 かぶせられていた袋が破れるように、アマネの肺腑に、新鮮な空気が流れ込む。

 不意討ちで衝撃波を浴びせられた魔力の蛇は、一瞬で粉々になって消えていく。

 

 アマネは咄嗟に恒果羅刹に向け衝撃波を放つ。

 とにかく、遠ざけないと危ないという、瞬間的な判断だ。

 

「エヴリーヌ!!」

 

 まだ巨大な煙に囚われているエヴリーヌに向け、アマネは角度を考えて衝撃波を放つ。

 狙い通り、肉料理の衣でも剥がれるかのように、薄黒い何かがエヴリーヌから離れる。

 すかさず追撃すると、その黒い何かが簡単に剥がれて宙を転がる。

 

 アマネはぞっとする。

 魔力で作られた大蛇のような使い魔かと思っていたそれは、断じて蛇ではない。

 とてつもなく大きな、人間の腕である。

 骨がないかのようにぐねぐねとうねっているが、先端が五又に分かれており、てのひらが、手首があり、肉付きの良い二の腕……間違いなく、「腕の形をした思念体」である。

 

「おい!! 気をしっかり持て!!」

 

 アマネは音速でエヴリーヌを抱え、恒果羅刹から距離を取る。

 エヴリーヌの人外らしい薄青の肌は、あちこち無残な水ぶくれが見える。

 遅れていたら、双方焼き殺されていたであろう。

 

「あららぁ……困ったわねえ。意外と『マリー=アンジュ』を使いこなしているわね、あの怖い顔の人」

 

 のほほんといつもの調子で、エヴリーヌはこぼす。

 自分の翼でしっかり自分を保持できているようなので、アマネはそっと手を離した。

 

「まずいな。完全に使いこなせておらずとも、無理やり抽出した魔力だけで、この威力。何とか距離を置いて弱らせてから……」

 

「ねえ、アマネ」

 

 アマネの言葉を、エヴリーヌは遮り。

 

「私を、あの怖い顔の人のところに連れて行って」

 

 思わず、アマネは振り返る。

 

「おい……?」

 

「単に攻撃しても、弱らせることはできないって思うわ。なぜなら、あの人、マリー=アンジュに触れてるから。決定的な怪我なんか、しないわよ」

 

 いつになく静かな目で恒果羅刹を見据えるエヴリーヌの視界の中で、あの呪いの腕も再生しようとしている。

 

「ひっくり返す方法は一つだと思うわ。私が彼と『マリー=アンジュ』の魔力リンクに割り込んで、私自身が『マリー=アンジュ』と繋がるの。そうすれば、彼はこれ以上魔力を引き出せなくなるわ」

 

 アマネは。

 じっと、エヴリーヌを眺める。

 

「できるのか」

 

「近付けば。でも、それを可能にしてくれる人は、あなたしかいないわ、怖くて可愛いアマネ」

 

 アマネはうなずく。

 エヴリーヌはあの「マリー=アンジュ」の元々の持ち主の孫である。

 彼女の見立てに間違いはあるまい。

 そもそもヴィーヴルという種族は、魔力と極めて親和性が高い。

 僅かな接触で、魔力の流れを読み解いたのであろう。

 

 いつの間にか四本に増え、四方八方から迫ってきた幻の腕を、アマネが体の周囲に撒き散らした衝撃波が弾き飛ばす。

 

「ついてこい!!」

 

 アマネは言うや否や、翼を駆って恒果羅刹に肉迫する。

 いきなり懐に飛び込まれ、恒果羅刹のもはや人間の面影のない顔貌に、驚きの色が奔る。

 

「妖術使いさん、ママに盗んだものは身に着かないって、教わらなかったのかしら?」

 

 いきなり「マリー=アンジュ」を握っている右腕をエヴリーヌに掴まれ、恒果羅刹はぎょっとする。

 反射的に腕を引こうとするが、叶わない。

 何故なら。

 

「貴様!!」

 

 恒果羅刹の六つの目の前で、彼の右腕が先端から水晶のような石に変化していこうとしている。

 指先から手首、肘まで、あれよという間だ。

 

「失せろ!!」

 

 恒果羅刹は咄嗟に幻の腕を創り出し、アマネとエヴリーヌに襲い掛からせる。

 だが、その腕が二人を握りつぶす前に、衝撃波が腕を砕く。

 まだだ。

 二本ばかり、腕が残って……

 

 だが、それも束の間だ。

 エヴリーヌの石化の術が、その腕をも襲ったのだ。

 見る間に幻の腕が、腕の形の石に変化していく。

 付け根まで完全に石化した後は、恒果羅刹のコントロールを離れる。

 力尽きたように落下し、そのままはるか眼下のビルの端に激突して破片を撒き散らしながら転げ落ちる。

 

「あたしを誰だかお忘れ? その『マリー=アンジュ』は、あたしのおばあちゃんの形見なの。さっさとお返しなさいな。これ以上酷いことにしたくないなら」

 

 必死で石化を押し返そうと右腕に魔力を注ぐ恒果羅刹の前で、エヴリーヌがニンマリと嗤う。

 花のように美しく、しかし、世界で一番恐ろしい笑みだ。

 

 しかし。

 

「うぬら、何か忘れているじゃろう?」

 

 恒果羅刹が嘲り声。

 

 それにかぶさるように、聞き覚えのある男性の叫び声。

 

 何かを砕く轟音、そして、空中に浮かんでいても察せられる地響き。

 

 唖然としたアマネとエヴリーヌの前に。

 あの、変わり果てた姿の涼の巨体が、砕けた建物の残骸を蹴って、空中に伸びあがってきた。