55 籠城の終わりと海から来たモノ

「なに……どういうこと……?」

 

 百合子は、目の前の光景をまじまじと見つめながら、思わず呻く。

 

 その部屋、内装の一部から推測するに、多分市長室だったのだろうと思われる整えられた部屋。

 そこに、死骸が転がっている。

 ……あやかし山伏の死骸が。

 

「ふむ。ただ自害したとは思えんな」

 

 天名は、薄黒い煙を上げ、ドライアイスよろしく気化していく死骸を淡々と眺める。

 市長の執務机であろう重厚なデスクによりかかるように、仰向けに倒れたあやかし山伏の死骸の胸の真ん中左寄り、長大な太刀が杭のように突き立ち、あやかし山伏に致命傷を与えたようだ。

 周囲に、百合子と天名、真砂、ナギ、冴祥に暁烏以外の生きている者はいない。

 すると、この致命傷は、あやかし山伏自身が自分に与えたものなのか。

 

「この、この人が自分の胸を貫いた太刀が、邪神の神器だったようですね」

 

 冴祥が、自らの神器である鏡を、死骸に向けて検分している。

 

「この神器は特に邪神の力を強く受け継いでいますね。……街中の鵜殿くんが持っていた『軽めの』ものとはくらべものにならない。おや」

 

 冴祥が、何か気付いたようだ。

 その頃には、邪神の神器の太刀も含め、あやかし山伏の死骸は、かなり薄くなって消えて行こうとしている。

 

「冴祥も気付いた? この人の死骸、どっか異空間に転移しているね。念入りな仕組みだなあ」

 

 ただ単に消えて行ってるんじゃないな、と真砂がおちゃらけた口調で付け足す。

 言葉が終わる頃には、あやかし山伏の死骸はほとんど消えて、わずかに空中の薄黒い煙が漂うのみ。

 

「えっと。つまり、どゆコト? 大将に部屋を閉じていた結界を破られたから、あやかし山伏って奴は観念して自害、その死骸と神器を、誰かが遠隔で回収?」

 

 暁烏が、混乱した様子で、こめかみに手を当てる。

 

「これ以上協力者がいるにせよいないにせよ、恐らくこの仕組みは最初から仕掛けてあったのだろう。こういうことを見越していたとしか思えない」

 

 天名が推理を述べる。

 彼女の周囲で、空間がぐにゃぐにゃ曲がって行こうとしている。

 百合子は傾空をしっかり保持しながら、何があってもいいように、周囲を警戒している。

 

「するとだねえ、今のあやかし山伏くんの残骸と、あの邪神神器がどこに転送されたかが問題だね。ここからわざと離れるってことは、ここの仕掛けが上手くいかなかったからっていうことで、次の手を打ってあるってことだよ」

 

 真砂が、雲の羽衣を軽く叩きながら更に推理を述べる。

 彼女の周囲で、空間の乱れが収まる。

 そこにあったのは、古びているが十分に整えられた、誰かの執務室。

 百合子たちがこの部屋の封印をこじ開ける前に見た、「市長室」という表示が示す、そのままの部屋。

 

「えっ……あれ」

 

 百合子は部屋に仲間以外がいないことを確認すると、扉に走り寄って、真鍮のノブを回し、首を廊下があるはずの空間に突き出す。

 ……きっちり、廊下だ。

 市庁舎の他の空間と同じような、古びているが清掃の行き届いたこざっぱりした廊下。

 天井の蛍光灯が、闇を窓の外に追いやっている。

 あの異常な邪神の力の漲る異様な迷宮の痕跡など、どこにも見当たらない。

 コンクリートとリノリウムと、アルミとガラスでできた、日本のどこにでもあるような「公共の建物」。

 

「建物……元に戻った?」

 

 百合子の呆然とした呟きに、室内の真砂たちがそれぞれ応じる。

 

「あの神器が消えたからだな。邪神の力がこの建物に及ばなくなったのだ。ここはもう心配いらんな」

 

 天名が、何か考え込む様子で、そんな風に説明する。

 

「しかしだね。すると、あの消えた神器は次はどこに行ったんだ? まぼろし大師は世界ごと消えた。するとこの現世のどこかという可能性が高いな」

 

 真砂が腕組みをして口を尖らせる。

 

「どこに……」

 

 百合子は、市職員の人たちを戻すのは早いだろうかとか、どこかの部屋で電話が鳴っているけどどうしようとか、あれこれ考えながら廊下の窓の外を見て……ふと。

 

「風が出て来ましたね」

 

 冴祥が、そんなことを呟く。

 妙に深刻な表情で。

 

「冴祥さん……?」

 

「おかしいですよね。窓に風が当たっている方角からして、風向きは、海から陸への風だ。通常、夜に吹くのは、陸から海への風、陸風のはず。何があったんでしょうね? 台風の季節でもないのに?」

 

 百合子は、市長室の中に駆け込んで、海がある南に面した窓を見つめる。

 ガタガタ鳴り、強い風に震える窓ガラスに、百合子の呆然とした顔が映っている。

 

 

◇ ◆ ◇

 

 

「こいつが……!!」

 

 夜の海岸で、百合子は呻く。

 

「それ」は、古い言い伝えにある、海の向こうの陸地に住む異種族の巨人のように、海から陸へ上がって来る。

 

「巨人」という表現が妥当かはかなり怪しい。

 また、一体だけでもない。

 

 ネオンサインよろしくテラテラ光るその巨躯は、六本の四肢の先が、無数の触手に分かれていて、それが更に派手やかに発光している。

 辛うじて巨人という概念を想起させる上半身は、古い車のテールランプのような楕円形の発光器官が、片側に三列ずつ、計六列交互に並んで、まるで話をするようにしきりに光っている。

 頭部というべき部分は、巨大で極太の、チューブ状の何かだ。

 象の鼻のように長く伸び、先端が何かを包んで持ち上げられるようにか、薄くひらひらとした円形に広がっている。

 チューブ状の頭部の付け根にある丸い凹凸の塊は、まさか目なのだろうか。

 

 そのビルくらいもある怪物の、周囲の海を沸き立たせるように埋め尽くしているのは、人間より二回り程度大きいくらいのサイズの、やはりテラテラ光る皮膚を持つ異形の者たちである。

 全体的に言うなら、エイと人間を掛け合わせたような、奇妙な形状の者が多い。

 ある者は足らしきもので泳ぎ、足が地面に付くと駆け上がり。

 ある者は奇妙な力で、水中から空中に浮遊していく。

 

 そんな者どもの軍勢が、海から陸へと上がって来る。

 

「あの邪神の気配ですねえ。あの神器が、この地獄の軍勢みたいなものを作り上げたということでしょうか」

 

 冴祥の言葉は、落ち着いて聞こえる。

 彼の周囲の神器の鏡が光る。

 

「さあ、みんな気張れよ!! 全部壊すぞ、遠慮なしだ!!」

 

 真砂が空へと浮き上がる。

 

「うひょお。これ海岸線一帯を覆い尽くしているとか?」

 

 流石の暁烏が引きつっている。

 それでも、抜き放った太刀は輝いている。

 

「わー!! 来るな!! ホタルイカみたいにウジャウジャいるけど、こんなマズそうなホタルイカは、ナギちゃん認めません!!」

 

 ナギが、上空に浮き上がって、破魔の光を呼び出し、シャワーよろしく降り注ぐ。

 怪物どもが溶けるが、ほんの一角だ。

 

「どうしよう、どこから攻撃すればいいの……!!」

 

 現代社会の中で生まれた一般人として、こんな状況への適性はない百合子は、傾空を構えても、視線がうろついている。

 

「まとめて倒すまでだ!!」

 

 天名が、扇を天に差し上げる。

 

 瞬間。

 唸りを上げて、夜空から燃える隕石が、まさに雨のように、海へ向けて降り注ぐ。

 まるで宇宙の只中から、そこに獲物がいるのを計算していたように、燃える星屑が、海を埋め尽くす邪神の眷属どもを粉砕していく。

 海が白く沸き立つ。

 切れ目なく、星が降り注ぎ続け、邪神の軍勢は海から前に進めなくなる。

 

「あ、あのでかいのに集中すれば……!!」

 

 百合子は肚が決まる。

 彼女は神器が囁く声に従い、大きく振りかぶって、傾空を巨大な邪神の化身に向けて投げつけたのだった。