参の壱 回想

 風に雨戸がガタガタ鳴っていた。

 

 油障子越しと、雨戸の隙間から洩れる微かな月光の中、花渡は身じろぎもせず夜具に横たわっていた。

 視線の先には、くすんだ微光の中にうっすら浮かび上がる愛刀「物干し竿」の輪郭がある。

 

 佐々木小次郎の愛刀として有名な物干し竿だが、実際には最初から小次郎の持ち物だった訳ではない。

 父親にこの規格外れの長刀を譲り渡したのは、母親の百合乃だと聞いている。

 

 あたかも人間が振るうことを考慮していないかのようなこの長刀は、そもそも熊野の大神に捧げられた神物だったと聞く。

 母|百合乃《ゆりの》は、熊野那智大社が祭神、|熊野夫須美大神《くまのふすみたいしん》、即ち黄泉の女神|伊耶那美命《いざなみのみこと》の巫女として、この神刀を授けられ――その破邪の力を以て全国に布教の旅に出た。

 

 神刀の力、そしてそれを保持する百合乃の磨かれた巫女としての聖性は高く、その地に足を踏み入れると、下手なモノはその神威に怯えて逃げ去ると言われていた。

 まるで自分を生き神様のように崇める者も珍しくなかったと、百合乃が苦笑混じりに回想していたことを思い出す。

 

『母上様は神様みたい!』

 

 幼い花渡は無邪気にそう言った。

 

 しかし、百合乃の旅の性質が変わったのは、ある一人の剣士に出会ってしまってからだ。

 

 佐々木小次郎《ささきこじろう》。

 

 その若く美しい、前髪を残した少年のような剣士は、そう名乗った。

 

 人間離れしていると言える程の剣の実力と、ぞくりとする程の女性的美貌を兼ね備えたその剣士は、武者修業の旅の途上で出会った巫女の、その神物たる長刀に目を留めた。

 自身も長刀の扱いを得意とし、新たな流派「巌流《がんりゅう》」を旗揚げしたところであった剣士は、巫女と自分の邂逅に見えざる神の手を感じた。

 

 剣士は言った。

 

『女人の一人旅は物騒にございます。憚りながらこの佐々木小次郎、剣の腕には少しばかり覚えがございます。巫女様、この私めを、護衛に雇うおつもりはございませんか?』

 

 巫女は答えた。

 

『私はあなたに支払う何も持ってはおりません。あなたと私の行く先も違うでしょう』

 

 しかし剣士は粘った。

 

『報酬は要りませぬ。ただ、代わりにと申し上げては何でございますが、あなた様のお持ちの神刀を、この剣客めにお貸し下さい。次の目的地までで構いませぬ』

 

 巫女は驚いた。

 

『これは人が振るえるものではございません。重さ長さのみならず、加護なき身が触れれば神罰が下ることもございます』

 

 剣士は引かなかった。

 

『私めに加護があるかなきか。試しに神刀を振るわせて下され。もし私めに邪心が、殊にあなた様への邪心があれば、この身は神威に撃たれて滅びましょう』

 

 巫女は熱心に頼み込む剣士に、試しに神刀を渡した。

 

 剣士の言うように、神に忌まれる者であれば、神威に撃たれて滅びよう。

 実際、以前にこの神刀を盗み出そうとした者が、黒焦げになったことがある。

 また、神そのものでなくとも百合乃自身に対して害意のある者なら、やはり伊耶那美命は等しく罰を与えよう。

 かの女神は、女を害する男に厳しいから。

 まして、自身の巫女であるなら。

 

 しかし――

 神刀は、剣士を滅ぼさなかった。

 

 まるで何年も前からの愛刀のように、神刀を振るう剣士が、巫女に尋ねた。

 

『行き先はどちらでらっしゃる、巫女様。この小次郎、あなた様の行かれるところなら、どこへでもお供いたしますぞ』

 

 巫女は僅かに考え、答えた。

 

『我が神のお告げが下りました。豊前《ぶぜん》へ』

 

 剣士の顔が輝いた。

 

『それは奇遇な。私の故郷なのです。一族を挙げておもてなしいたしますとも。参りましょう』

 

 結局、豊前の国小倉《こくら》藩に着いても、剣士は巫女に神刀を返す必要はなくなった。

 

 旅の間に親密になっていた二人は、豊前で祝言を上げ、佐々木の家に入った百合乃の持ち物である神刀は、百合乃から小次郎に贈られた。

 

 こうなったのは、我が神のご意志に相違ありません、この神刀も、あなたの手に渡すために、私に託されたのかも知れませんね。

 

 結局小次郎は、その神刀を振るって自らの才能を最大限に引き出し、人間の挑戦者のみならず、当時小倉藩を脅かしていたモノの群れをあっさり平らげた。

 名声はいやが上でも高まり、あれよという間に小倉藩剣術指南の地位を与えられた。

 

 しかし。

 その幸福な生活は、間もなく破られることになる……

 

 父と母を、その栄光と愛と生と死を見てきた、神刀。

 私の人生は、この神刀に何を刻むことができるのだろうか?

 何一つ、持っていない私が。

 

 今は仇の武蔵陣営が広めた「物干し竿」なる無粋な名前で呼ばれているが、そんなことに関係なく、この太刀には伊耶那美命の魂が宿っているという。

 ならば、私の危地を救ってくれるのだろうか?

 母を父の元に導いたように、私を最良の方向へと導いてくれるのか。

 

 いっそ、母のように神と交信する力があったなら、この刀からお告げとやらが下ったのだろうか?

 もし父が生きていたら、自分の置かれた状況について、助言をもらえたのだろうか?

 

 今、花渡の頭を占めているのは、昼間に出会った娘、時塚千春の残した謎の人物からの仕官の誘いだった。

 

 ただの仕官の誘いだったら、条件に合わせて断るか応じるかするだけだが、これはそんな単純な話ではない。

 

 どうやら、自分のような下々の者なら、本来近寄ることも出来なかった公儀の秘密が、わざわざ自分を招いてくれているらしい。

 断る断らない以前に、「それがある」ことを知ってしまったのが、何かの始まりだろう。

 

 ご公儀に関わる人物が後ろ楯になるなら、自分の生まれる前から付きまとわれている災難は確かに消えてなくなるだろう。

 が、しかし、別の災難の入り口かも知れないことは、十分考えられる。

 

 ごく淡い陰影の付いた闇を、花渡は凝視した。

 

 母が授けられ、父が振るい、そして自分が二人の形見として受け継いだ神刀の影。

 父母と話がしたいと真剣に願ってしまう情けない自分にがっかりする。

 佐々木花渡なる女剣客は、刀で斬れるものはまるで怖くないが、そうでない無形の押し包むようなものがどうにも苦手らしい。

 

 父母なら……元藩士と全国を巡り歩いた巫女だった二人なら、公の主従関係や組織に疎い自分と違って、今回のことの背後の見当でも付けられたのではないか。

 

 疲れた。

 花渡は闇の中、ふうと溜め息をつくと、ごろりと寝返りを打った。