その17 最終決戦

「る……り……」

 唖然とする紫王の胴体から、瑠璃の尻尾の毒針が、ずるりと引き抜かれた。

 

 瑠璃の顔には、虚ろな笑みが張り付いている。

 紫王が見慣れた、あの春の午後の日差しのような暖かな笑みではない、およそ生気のない仮面の微笑。

 

 その笑顔が、ぐらりと傾いだ。

 いや、傾いだのは、紫王の体だ。

 毒針が突き込まれるのと同時に、猛烈な痛みと意識の混濁に、全身が悲鳴を上げた。

 瑠璃の神虫としての猛毒は、紫王の肉体すら容赦なく苛んだ。

 いや、紫王だからこそ「苛まれる」程度で済んでいるのであろう。

 彼以外の妖怪だったら、毒に全身腐食され、溶けた腐汁と化していたかも知れない。

 

 仁が、清美が、瑠璃の名を叫んだのにも、紫王は気付かなかった。

 ただ、自分が瑠璃に攻撃されたという事実だけが、脳裏にわんわんと木霊している。

 

 瑠璃。

 俺の、瑠璃。

 どうしちまったんだ。

 

 いや、問わずとも、紫王には分かる。あの瑠璃の様子を見れば。

 瑠璃は、何らかの術にかかり、霊泉居士に操られているのだ。

 自分たちの救出は、やはり遅かったのか。

 もしかしたら、瑠璃は魂を失ってしまったのかも知れない。

 そこにいるのは、瑠璃の抜け殻で、本当の瑠璃の魂は、どこか手の届かない遠くへ。

 

 瑠璃。

 

「ははは。やはり、恋人の一撃はこたえますかねえ。分かりますよ、そういうものです」

 さも同情したかのような霊泉居士の声が、遠くに聞こえる。

 実際には、彼がいるのは紫王の目の前。

 紫王は、毒で足腰が立たず、彼の目の前にへたり込んでいるような状態だ。

 

「あやし皇子なんて呼ばれていい気になっていたようですが、所詮あなたなんてこの程度ですよ」

 まるで仲の良い友人に、新しく見つけた美味しい店の情報でも教えるような調子で、霊泉居士は語り掛けた。

 糸の切れた操り人形のように座り込む紫王の目の前にひょいとかがむ。

「誰もかれも、あなたを見捨てるんです。恋人だって、両親だって、友達だってね。あなた、結構自分は恵まれていて、大概のことはなんとなく上手くいくと思ってたでしょう? とんでもない間違いですよ」

 まるで知らずに規則を犯してしまった友人を諫めるように、穏やかに霊泉居士は紫王に語り掛けた。その目には、昏い悦びの炎が燃えている。

「もう、あきらめなさい。あなたは、今まで出来損ないなりによく頑張りました。後のことは気にせず、ゆっくり眠りなさい。万事、私が上手くやってあげます。……最後は、恋人の手で終わらせてあげますね」

 

 背後で仁と清美が何事か叫んでいるのを、紫王はぼんやり意識した。

 それも水面に浮かぶ泡のように、遠くを通り過ぎていくだけだ。

 

 ああ、駄目だったのか。

 瑠璃を助けられなかった。

 俺は、出来損ないだった。

 粋がってる割に、親の庇護を離れたらこのザマだ。

 一人で何もできないくせに、こんなとこまで来たから……

 ごめんな、仁、清美、瑠璃……

 

 視界の端で、瑠璃の姿をした者が、ゆっくりとその毒針のついた尻尾をもたげていた。

 狙いは、自分だと紫王は知っている。

 せめて「瑠璃だったもの」に殺されるだけ、マシなのか。

 

 後ろで仁の悲鳴が聞こえた。

 あの、布男のナタにざっくり切り裂かれたのだろうか。

 血の匂いがする。

 

 その更に向こうで、清美の胴体に、あの二つ頭男のはさみが食い込むのが分かった。ざくざくと肉が刻まれる音。

 

 ああ、もう終わりだ。

 これで俺たちは終わりなんだ。

 

 瑠璃、せっかく会えたのに、どうしてこうなったのかな。

 

「さあ、瑠璃!!」

 霊泉居士が、嬉し気に叫び。

 びゅっ!! と虹色の尻尾が飛んだ。

 

 悲鳴は、背後から聞こえた。

 

 いや、むしろ絶叫と言うべきか。

 仁を寸断しようとしていた布男が、脇腹を毒針に貫かれ、のたうち回っていた。

 その全身が、酸で溶かしたように溶けていく。

 白い形代が、床に舞い落ちた。

 

 次いで、悲鳴が上がったのは、清美の側。

 二つ頭男がの胸板の真ん中に、釣りの仕掛けのように翻った毒針が撃ち込まれていた。

 やはり薄いチョコレートに熱いコーヒーでもかけた時のように、見る間にその全身が溶けていく。えずくような臭いが漂った。

 汚泥の中に、ひらりと形代が落ちた。

 

「お前は……馬鹿な!!」

 

 先ほどまで余裕綽綽だった霊泉居士が、引きつった声で叫んでいた。

 紫王は、咄嗟に何が起こったのか分かりかねる。

 見えたのは、瑠璃の姿をしたものがどさりと倒れ……白い紙に戻った。

 

 背後から、もう一人。

 瑠璃の姿をした誰かが、歩み出てくるところだった。

 

「紫王から離れて!!!」

「瑠璃」が鋭く叫んだ。鮮烈な、血の迸るような怒りを込めて。

 

 その、活き活きとした口調、生命の通った清冽さ。

 

 紫王は顔を上げた。

「……瑠璃?」

 

 視界の中を、虹色の蠍の尾がうねった。

 それは異国の神話にある、流れる虹のように。

 それに触れずとも、その威力を知っているはずの霊泉居士は、風圧に押されたように飛びのく。

 

 

「紫王っ!!!」

 誰かの暖かい手に支えられて、紫王は我に返った。

「瑠璃……」

 信じられない思いで、紫王は彼女を見つめた。

 体内で暴れまわっていた毒が、いつの間にか雲散霧消している。

 頭がしゃっきりした。

 瑠璃の、愛しい少女の顔が、鮮やかに目に焼き付く。

 

「瑠璃!!!」

 紫王は、反射的に跳ね起き、瑠璃を後ろでに庇った。

 飛んできた幻の槍の穂先を、光を纏った拳で打ち返す。

 

「馬鹿な、どういうことだ……!! 貴様、どうやって術を破った!?」

 霊泉居士が動転して叫んでいた。

 怒鳴りつけられた瑠璃は綺麗なまなじりを怒らせて、その視線を弾き返した。

 

「あなたの術の力は、私の神虫の力と相性が悪いのは知ってるくせに。どうせ、どんな術をかけても、しばらくすれば解けてしまうんだよ」

 

 瑠璃の豊満な胸の上に、例の呪符はない。

 とっくの昔に、瑠璃の妖力に退けられ、ひとりでにはがれ落ちてしまったのだ。

 

 紫王は、まるで大樽から注ぎ込まれるように、一気に自分の生命力が回復していくのを感じていた。

 針金のように纏いつく虚脱感と苦痛はすでに思い出すも難しいくらいに遠くなり、むしろ今まで以上に手足に力がみなぎる、視界は澄明で、敵の動きをくっきり捉えることができた。

 これは、生命を賦活し邪悪を退ける、瑠璃の妖力だ。

 今までに倍する力で、紫王は霊泉居士と相対することができた。

 

 いや、紫王だけではない。

 かなりの傷を負っていたはずの仁も清美も、無傷で戻ってきた。瑠璃の生命力賦活の妖力は、範囲にも効く。彼女と同じ空間に入った味方である仁と清美は、紫王と同じく回復・強化されたのだ。

 

「さて、こいつは楽しいことになったぞ?」

 今まで緊張して余裕のなかった清美が、いつもの呑気な調子を取り戻していた。

「あー、ゲームでいうアレね? 敵にダウナー、味方にアッパーと再生状態ってやつね?」

 仁も妙に気楽な調子で舌を出した。

 

 霊泉居士の顔色は、紙のような白からすでにどす黒くなりつつあった。

 見方には生命力賦活を与える瑠璃の妖力は、敵である霊泉居士には、生命を削る神毒として作用していた。

 

「……またもや、負けか。だがな、これで終わりではないぞ?」

 霊泉居士は、ぞっとするような笑みを唇に浮かべていた。

「私は死んでも死なぬ。今この計画が駄目になっても、まだ次がある。またあと何十年か後には、お前らの前に戻るぞ。その時こそ……」

 

「いや。てめえに、次はねえよ。俺が終わらせる」

 

 紫王は、だが、凛然と言い切った。

 目を見開く霊泉居士に向かい、

「てめえが何度殺しても蘇ってくるからくり。要するに、転生ってやつを自分の意思で操っているからだろう。体は殺せても、魂そのものは滅ぼせなかったからだ」

 瑠璃、そして仁も清美も、更には霊泉居士本人も、その言葉に聞き入っていた。

「……だが。魂そのものを砕く拳だったらどうだ? てめえは二度と転生できねえ」

 

 そんなことが。

 瑠璃たちが唖然とするより、紫王が叫ぶのが早かった。

 

「瑠璃!! 援護を!! 仁と清美は手出しせず、瑠璃を守れ!!!」

 

 霊泉居士が絶叫した。

 目の前の空間から、槍が、刀が、雑多な妖怪が、用途の分からぬ不気味なものが顕現し、紫王に襲い掛かった。

 紫王は、自分の肉体を覆う光の帳を弾丸に変えてそれらを弾く。その威力は数倍にもなっているかのようだ。瑠璃の力が、惜しげもなく注ぎ込まれているからである。

 

「くたばれ!!!」

 

 紫王の拳が唸った。

 古より戦い続ける戦神・阿修羅の妖力に、聖地の守護者たる大妖怪の妖力が反応して新たに発現した妖力。

 単に肉体や妖力だけではなく、魂まで砕く深遠なる拳は、今、光の奔流となって邪悪な妖術使いに襲い掛かった。

 

 肉体は一撃で済んだ。

 だが、その業の塊のような魂を砕くのに、数十の拳が必要とされた。

 

 一撃が振り下ろされるたびに、肉体から迸り出た闇の深みが薄れ、消えて行く。

 まさに今、「戦い」という概念そのものと化した紫王の力が千年の闇を砕いていく。

 

 最後の一撃が、わずかな残骸を砕いた。

 

「あ……」

 瑠璃が小さく声を上げた。

 

 闇が消え、妖火が消えた時。

 まるで固体のように重苦しく粘つていた空気が変わった。

 まるで、楽に呼吸できることに今気づいた人のように、瑠璃たちはしんとした地底の、石の匂いを味わっていた。

 

「……紫王?」

 

 霊泉居士の灯していた妖しき灯火が消え去り、浄化された闇の中で。

 紫王は、新たな紫色の星のように鮮やかに輝いていた。

 

「瑠璃。終わったぜ」

 

 その言葉に抑えていた涙が溢れだし、瑠璃は紫王の胸に飛び込んだ。