38 その頃高月城下では

「なんだって……? どういうことだ……?」

 

 さしもの真砂が青ざめている。

 妖精王の城であてがわれた客室、目の前にローナが、衝撃を必死に抑えている表情で立ち尽くしている。

 まだ早い時間の光がすがすがしいが、部屋の中は到底それどころではない。

 

「本当のことです。今朝になって、冴祥さんと暁烏さん、ナギさん、そして百合子さんが城から消えていました。出て行ったところを目撃した者はおらず……」

 

 ローナは大きく溜息を落とす。

 

「恐らく何かの術を使って出ていかれたのだと。何があったのか……ご存知ありませんか、真砂さん」

 

 真砂が口を開きかけた時、部屋の扉が乱打される。

 入れという間もなく、天名が飛び込んで来る。

 

「真砂。やられた。昨日、冴祥が言っていたことを覚えているか」

 

 真砂は、自分の内部に意識を向ける表情で、首をかすかに振り。

 

「……そうだね。奴は、まぼろし大師と取引したことがあると言っていたんだ。断ったと言っていたが、それが事実か確かめる術はない」

 

 天名は荒い息を落とす。

 

「奴がまぼろし大師と繋がっているとしたら、百合子やナギを連れて行った先は一つしかない。高月城下、まぼろし大師の世界だ。百合子は良質な刻ノ石を生み出せる心の持ち主だ。そしてまぼろし大師は神封じの石を持っている。邪神を封じた石を」

 

 つまりは。

 百合子は、邪神の最も都合のいいエサだ。

 天名は断言する。

 

 真砂は瞑目する。

 脳裏に浮かぶのは、あの図書館で会った真面目な司書の百合子。

 そして夜の海に急に現れた、おかしな喋るウミネコのナギ。

 

「……妖精王と妖精女王に、暇乞いを。グレイディとアンディにもお別れを言わないと。すぐに百合子とナギを救出しに行く」

 

 

◇ ◆ ◇

 

 

「真砂さん……天名さん……?」

 

 百合子は自分の言葉で目を覚ます。

 妙に絡みつくような、嫌な夢を見ていた気がする。

 恐ろしく嫌な夢だったとは強烈に印象に残っているのに、具体的な内容を思い出せないので、恐怖が倍増している。

 百合子は冷や汗の嫌なじっとり感を感じて、身体を起こそうとして……

 

「あ、あれ?」

 

 百合子は、そこがどこだかわからなくなる。

 目の前に、丸い窓のようなものが見え、向こうに、豪華な和室のように見える部屋がある。

 いつだったか旅行で赴いた、城の一室を再現したという旅館に似ている。

 

 どういうことだろう。

 自分は、妖精王の城にいたのではなかったか。

 

 それに、身体の感覚がどうにもおかしい。

 視点の位置からして立っているとしか思えないのだが、どうにも上下の感覚もない。

 重力を感じないのだ。

 暖かい水にでも浮かんでいるような浮遊感。

 

「えっ、なに?」

 

 百合子はにわかに意識が明瞭になっていくのを感じる。

 体の周囲を見回すと、銀色のぼんやりした霧のようなものが詰まった「何もない」空間に取り囲まれているのがわかる。

 洋服屋の試着室ほどの大きさもない空間だ。

 手を伸ばすと、見えない壁に突き当たる。

 まるで管に入れられたネズミだ。

 

「もしかして……百合子さーん!?」

 

 どこからか……恐らくは、目の前の窓の向こうから、ナギののほほんとした声が聞こえる。

 百合子は急激に安堵感に包まれて、涙ぐみそうになる。

 

「ナギちゃん!? どこにいるの?」

 

 百合子は目の前の窓を開けようとするが、案の定というか、そこも透明な何かで塞がれている。

 声は聞こえる、この部屋か通じる建物かに誰かしら人のいる気配も感じるが、出ることはできそうにない。

 

「どこと言われても、表現するのが難しいです。でも、ワタクシ、これでも神ですからね。わかることはあります。多分、百合子さんもだと思いますけど、これ、冴祥さんの鏡に閉じ込められているんですよ」

 

 百合子ははっと思い出す。

 そうだ、あの意識を失う前に、最後に会ったのは冴祥ではないか。

 

「冴祥さん!? あの人が私たちを鏡の中に閉じ込めている? なんで!?」

 

 百合子は悲鳴のように声を跳ね上げる。

 何で彼がそんなことをするのだ。

 頼りになる味方。

 おかしな行動など……

 いや。

 

『この冴祥って男は、まあ、一言で言うなら、私らのところの出入り業者だ。私と天名が作る神器や魔具を買い付けて必要なところで売って来る、商人なんだよ。だがまあ、御覧の通り、油断も隙もない奴でね』

 

『悪党と言い切れる訳ではないかも知れんが、善人ではないことは確かだ。色々な奴と商売上の付き合いがあるからな。顔が広いのと、情報が確かなのはいいが、どこまで公正明大かは怪しいものだ』

 

「……最初に冴祥さんたちに会った時に、真砂さんと天名さんが言ってた。全面的に信用できる人ではないって」

 

 百合子は幻術を使っておちょくられ、最初は正直、かなり警戒していたはずだ。

 だが、共に戦ううちに、そんな些細な猜疑心は忘れて行った。

 

 ――最初の引っ掛かりを、信じれば良かった。

 ――真砂さんと天名さんの言う通りだった。信用できない人だったんだ。

 

「流石にねえ、まともな商人だったら、あんまりヤバイ奴とは取引しないんだと思うんですけど、あの方、気になさらないタイプだったと。ふむ、この可愛いウミネコ神の目をもってしても、じぇんじぇんわかりませんでしたっ!!」

 

 あ、今しゅたって羽を上げたな、と百合子が見当が付くような、ナギの口調。

 

「……冴祥さん、私とナギちゃんを売り飛ばす気なのかな? でも誰に?」

 

 妖精王の城からは一転した、和風の豪邸のような場所。

 思い当たることがあり。

 百合子の背中に悪寒が走る。

 

「……まぼろし大師って人の話が出た途端に、冴祥さん……まさか、ここって……」

 

 と。

 誰かが近づいて来るような、足音が聞こえる。

 木造の重厚な廊下を歩む、複数の足音。

 

「まぼろし大師様。あちらです」

 

 窓の外……いや、鏡が置かれているのであろう部屋に入って来たのは、冴祥と暁烏。

 そして、雪のような白い長い髪をたなびかせ、頭上に刃物のような長い二本の角を生やした、豪勢ないで立ちの、巨躯の鬼であった。