その9 幻惑の魔域

「うう、何だかこの街の全域が、何となく臭ぇな……」

 仁は鼻の付け根にしわを寄せ、顔をしかめた。

 

 それはそうだろうな、と、紫王も思う。

 妖気などについての感覚には、鋭いとは言い難い自分ですら、何だか淀んだ空気を感じる。多分、ステンレスみたいな薄曇りの空が広がっているから、という理由ではないであろう。この季節の風は気持ちいいはずなのに、何だかぬめりと生ぬるい。

 市街中心部近く。

 休日だけあってそれなりの人ごみだが、高校生三人と二十代の若者一人という組み合わせに不審の目を向ける暇人は少ない。

 

「天椿姫様が仰ったように、敵はもうこの街に入り込んでいる訳だな……あの方のお膝元で、ずいぶん大胆な」

 何度となく殺されているはずなのに、凝りぬものだな……と、清美が唸る。

 天椿姫に例の人形を提出し、鑑定してもらった結果は、紫王たちの想像を超えたところにあった。

 

 霊泉居士は、すでにこの神代市に入り込んでいる。それも、かなりの手勢を連れて。

 

 そう導き出した天椿姫も、それほどのこととは思っていなかったらしく、苦い後悔の色を浮かべていた。もう少し、注意していればと。

 更に彼女が妖力を駆使して導き出したところによると、奴の目標らしきものも補足できたのだ。

 

 霊泉居士が求めるは、神虫たる瑠璃だ。

 

 その人形から作られた式鬼は、紫王を、というより、紫王の元に来る瑠璃を見張っていたのである。

 

「その霊泉居士って人……私に何の用なんだろ……どうしようっていうのかな……」

 紫王の隣で呟く瑠璃の口調は、不安に沈んでいた。

 無理もない、と紫王は思う。

 殺しても何度でも蘇る、悪夢のようなバケモノに自分が狙われているなぞ、全く寝耳に水であろう。並の人間のストーカーに付け狙われるより、何倍タチが悪いか分からないのだ。

「お袋が言ってたろ。霊泉居士っていうのは、究極の力を手に入れて、この世界を意のままに支配したいっていう、権勢欲のバケモノなんだ。自分の力を増すために、瑠璃を捕まえて使うつもりかも知れねえ。ま、俺がそんなことさせねえけどな」

 殊更気楽に口にした紫王だが、実際に気楽に考えられている訳ではない。

 脳裏に、母天椿姫の言葉が蘇る。

 

『以前にも話したやも知れぬが、紫王。霊泉居士という奴はの、元はと言えば、その昔、人間の世界で、皇位争いに敗れた皇子なのじゃ。しかし、奴は納得しなかった。自分は、この日の本を、それどころか世界中を手に入れる権利のある人間じゃと、頑なに信じた。そんな奴が、政争以外で自らの力を増す手段として手を出したのが、妖術という訳じゃ』

 

 異母兄弟たちとの皇位争いに敗れ、欝々とした蟄居の日々を送っていた霊泉居士の元に現れたのが、その師となる妖術使いだったという。

 生殺しの日々の中、時間はいくらでもあった。

 霊泉居士――その時はそういう名前でなかったが――は、表向きは後生を祈ると称して、法師の姿をした師を自室に招き、念入りに妖術の修行を行った。

 これはうまくいった。

 霊泉居士に才能があったからというのでもある。

 それに加え、その師が彼に施した、妖怪の死骸を原料にした薬を使った術法が、効を奏したからというのもある。

 それは、その人間に妖力を植え付け、更に急激に高め、短期間のうちに強力な妖術使いに仕立て上げるというものだった。

 霊泉居士は、下手な妖怪を上回る妖力を手に入れたのだ。

 

 あれよという間に、霊泉居士は妖術使いとして頭角を現した。

 その頃には、皇位には興味を失っていた。

 天皇の位に昇っても、それは所詮人間としての頂点に過ぎぬではないか?

 妖術の修行を通して、人間の限界を超えた霊泉居士は、あっさりそう結論付けたのだという。

 賽の目、賀茂川の水、叡山の法師。

 天皇になっても思い通りにならぬものなら、こんなにもある。

 だが、妖術を極めば、あらゆるものが思い通りになる。人間ばかりか、妖怪も、神々も、支配できる。

 皇位などどうでも良い。

 得るべきは、妖術使いとしての頂点だ。

 そう結論付けた霊泉居士は、自らの力を増し、配下を増やすべく行動を開始した。

 

「……霊泉居士ってヤツの得意にしてる妖術ってのが、薬を使うヤツなんだとよ。それも、妖怪の体を材料にした薬」

 一瞬だけ逡巡し、紫王は瑠璃にそう告げた。心配そうに、瑠璃を見やる。

「妖怪の、体……!?」

 瑠璃の表情が恐怖に歪んだ。

 少し前までなら、ぎょっとはしてもここまでショックは受けなかったかも知れない。

 しかし、今となっては、瑠璃自身も妖怪だ。

 そして、紫王始め幾人もの妖怪との交流によって、妖怪を人間と切り離して考えることはできなくなっていた。

 妖怪の肉体を薬の材料にする、などということは、人間のミイラを薬の材料にする、というのと同じ程度にはショッキングだったのだ。

 

「妖怪の肉体からできた薬……妖薬《ようやく》は、その材料になる妖怪の格の高さで性能が決まるんだそうだ」

 少し前まで、喧嘩すらもろくすっぽしたことがないような上品な少女に言うのは、いくら何でも残酷かも知れない。だが、黙っていては、彼女を危険に曝すだけ。紫王は思い切って説明を続けた。

「瑠璃が転生した『神虫』っていうのは、三千世界の全てを探しても、数匹しか存在しない、希少性も、そして格も高い妖怪だ。そして何より、神聖さと生命力を司る。ヤツにとって、こんな美味しい『材料』はなかったって訳だ」

 瑠璃の体が震えた。

「私を……薬の材料に……?」

「今まで、霊泉居士が狙った妖怪っていうのは、軒並み薬の材料として狙われたんだと。瑠璃の……『神虫』の性質からして、あの霊泉居士が薬の原料にって、考えねえ訳がねえってことなんだろうな」

 

 不意に立ち止まり、紫王は瑠璃を振り返った。

「安心しろ、瑠璃。絶対、俺がお前を守ってやる。だから、ちょっとだけ、協力してくれ」

 繁華街の終わり、古い街道と接続する辺り。

 彼らの邪魔を避けるように、人気が少なくなっている。

 紫王は瑠璃の目を見つめた。

 こいつは、俺の宝物。

 お袋は世界の宝物だって言ってたが、世界がどうかなんて興味ない。

 俺はこいつが大事なだけ。

 俺が好きだから守るんだ。

「私……何ができるの?」

 瑠璃はじっと紫王を見つめる。

 奥底に虹を秘めた黒い瞳と、紫王の高貴な黄金の瞳が、互いを一対の合わせ鏡のように捉える。

「瑠璃。お前は、邪な力に基づいた妖力や妖術を破る力を持っているはずだ。それに、生命力を高める癒しの力や、邪悪なものを焼き滅ぼす、神聖な毒の力も」

 形の良い肩に手を乗せ、紫王は強い口調で告げた。

「俺が奴と……霊泉居士や、その配下の連中と戦う時に、俺を援護してくれ。妖怪になって日が浅いのにすまねえ。だが、お前の力で援護してもらえば、俺は霊泉居士に勝てる」

 

 本当は、両親からは「霊泉居士のことは自分たちに任せて、瑠璃と共に城に籠り、城内で彼女を守れ」と言い渡されていた。

 しかし、紫王は嫌だった。

 自分の妻になるべき女を狙う怪物を前に、攻撃もできない自分が。

 自分の手で、自分の妻を狙う者を殲滅したかった。

 それに、チャンスだと思ったのだ。

 自分にとっても、そして瑠璃にとっても、極めて高いとされている潜在能力を引き出す、またとない実戦の場だと。

 瑠璃と一緒に、妖怪としての高みに登ろう。

 二人なら何でもできると……

 

 不意に、周囲が暗くなり、紫王ははっと振り返った。

「!? 何だ!?」

「紫王、周りが……!!」

 仁が叫んだ。

「しまった……奴の術だ!! 飛ばされたか!!!」

 清美がぎくりとした声を張り上げていた。

 

 そこは、すでにうすら明るい昼下がりの街ではなかった。

 薄めた牛乳のような濃霧が立ち込める、水と泥の匂いの濃い湿地帯のような場所だった。

 見渡す限り延々と水と苔、枯れ草に覆われた地面が広がっている。遠くにぼんやり見えるのは、遠く山並にも連なる木立だろうか。

 死んだような沈黙に覆われたその場所で、紫王は不意に「彼女」がいないのに気付いた。

 

「瑠璃……?」

 

 今の今、体に触れていたはずの婚約者の姿が見えない。

 彼女がいたはずの場所はじっとりと冷たい水の溢れる沼でしかなかった。

「瑠璃!? おい、瑠璃!?」

 紫王が周囲を見回しても、延々死に絶えたような沼地が広がっているだけ。紫王自身の他に、仁と清美がいるだけだった。

 

「やられた……!! 転移術か……!!」

 清美が呻く。

「俺たち三人だけが飛ばされて、瑠璃様と切り離された……!! くっそ……!!」

「うわっ、沈む!!!」

 仁が悲鳴を上げたかと思うと、化け狼の姿に戻り、空中に躍り上がった。人の目の高さほどの空中に浮く。

 紫王も、自分のアーミーブーツを履いた足が足首のところまで泥に沈んでいるのに気付くや、瞬時に妖怪の姿に戻った。仁と同様、空中を踏んで身構える。

「来るぞ……!!」

 こちらは水や泥に足を取られることのない、牛鬼の姿に戻った清美が叫んだ。

 

 巨大な真っ白い火の玉が、三人それぞれに降り注いだ。

「くっ!!」

 紫王は六つの拳でことごとく撃墜し、仁はひらりとよけた。

 清美は、巨大で分厚い水の壁を実体化させてあっさり無効化した。

 

 耳を打つ鋭い鳴き声と共に、濃霧の中から、何かが姿を見せた。

「妖狐か……まさか、砕羅《さいら》!?」

 清美が唸る。

 

 それは、6mほどの体長を持った、巨大な白狐だった。

 頭は二つあって、それぞれに金と銀の炎を吐き、太くて大蛇のように長い尾は六本あった。純白で滑らかな毛皮は色という色を吸い込むようであり、大きな口とぞろりと並んだ牙は、狐というより鰐《わに》を思わせた。

 そんな巨体が、頭上10mほどの場所に浮いている。

 

「くそ、まだいるぞ……!!」

 いつの間にか、人間ほどの大きさの妖狐たちが、狼の巻狩りのようにずらりと三人を取り囲んでいた。上下左右、隙間なく立体的に取り囲んでいる。

 砕羅と呼ばれた親玉のミニチュアのようであるが、頭はそれぞれ一つずつしかなく、尻尾は二本ずつだ。

 そんな妖狐がそれぞれの尻尾に白い火を灯し、それを狙いを合わせるようにゆらゆらと頭上にもたげている。

 

「貴様ら。陀牟羅婆那と天椿姫の手の者だな?」

 妖狐・砕羅の金の首が問いかけてきた。

「おう。俺はそいつらの息子だよ。まさか知らねえで仕掛けてきた訳じゃねえだろうな、あん?」

 紫王が唸るように威嚇した。

「ほう!? お前が有名な、神の如き両親から生まれた出来損ないの息子という訳か!! はぁ。噂通り、見栄えはするな、見栄えだけは……」

 けけけっ、と引きつるような笑い声に、みるみる紫王の顔が怒りに染まった。

「出来損ないかどうか、試してやらぁ!!!」

 紫王はその場で光に包まれた拳を振るった。

 光の帯のようにしか見えない超高速の拳の纏った光が大砲のように射ち出され、まっすぐに砕羅を貫いた。

 ……はずだったのだが。

 

「くっ!!」

 砕羅は、散乱した光の中から無傷で立ち現れた。

 繭のように全身を覆った尾が、盾の役割をして、紫王の光の飛拳を防いだのだ。

「はっ!! 弱いわ!! やはり噂通り、出来損ないの穀潰しよ!! しかも……」

 砕羅は、わざとらしく一拍置いた。

「貴様の拳からは、父親への劣等感がわんわん伝わってくるぞ!! 伝説の阿修羅に姿ばかり似てしまった哀れな出来損ない!! 哀れ!! 哀れな小僧よ!!!」

 けらけら笑う砕羅に、紫王が燃え盛る怒りの視線をぶつけた時、清美が警告の声を上げた。

「紫王様!! こいつの戯言《ざれごと》に引きずられますな!! こいつは他人を惑わすのを得意とする者、ペースに乗せられたら、術中にはまりますぞ!!」

「そうだ、紫王!! それにこいつなんか、おかし……」

 仁がみなまで言うことはできなかった。

 

 砕羅がわずかな尾の動きで合図を送ると、周りに控えていた小妖狐たちが、一斉に尻尾の火の玉を放った。

 四方八方、泥流のように降り注ぐ火の玉は、一瞬で三人を押し包んだ。

 

「ふむ?」

 砕羅が鼻を鳴らすのと、白い溶岩のように見えた炎の塊が爆散するのは、同時だった。

 

 輝かしい艶麗な紫色の光の弾丸が、放射状に流れる流星のように炸裂した。

 炎を吹き飛ばし、同時に小妖狐たちを機銃掃射にかけたかのようにズタズタに粉砕する。

「くっ!!」

 尾の防壁も抜けてきたのか、ダメージを受けたらしい砕羅が呻く。

 

「悪いな、俺は簡単にやられるほどお人好しじゃねえよ」

 不敵に笑った紫王の肉体の周囲には、今しがた機雷のように炸裂した紫色の光の帳が、後光のように揺れていた。