3 美味しいお話

 予約してあった、奥の席に案内された。

 

 ダイモンは柔らかな間接照明の落ちるそのテーブルで、メニューについて解説してみせた。

 思いっきり高級という訳ではないが、いかにも通が選びそうな、凝った味わいが感じられる、エンパイア風のこじゃれた内装。

 二人掛けにしては十分広く感じられるテーブルで、ダイモンはD9に、料理について解説してくれた。

 

「まず、この店はカキを頼まなきゃ始まらない。とびきりだぜ? カキを一年中食べられる養殖技術を確立したのが、人間様最大の功績だと、俺は考えているんだ……それと、ムール貝は食べたことがあるか?」

 

「名前は聞くんだけど、食べたことは……映画の中で、みんな美味しそうに食べてるから、一度でいいから食べてみたいとは思っていたけど」

 

 なんだか自分が田舎者になったみたいで恥ずかしく思いながら――実際には東京生まれの東京育ちなのだが――D9はそんな風に正直に答えた。

 正直、「そんな贅沢」は、状況が許してくれなかった。

 

「トマトとガーリックのスープがおすすめだぜ。あとはアマダイのソテーとメカジキのウッドグリル、どっちがいい?」

 

「メカジキ!! 食べてみたい!!」

 

「よし、じゃあそれで決まりな」

 

 ダイモンはワインとデザートの付いたディナーコースを注文し終えると、嬉しそうなD9に向かって微笑んだ。

 

「嬉しそうだな。喜んでもらえて嬉しいよ。日本にも美味いものはあるだろうが、アメリカ料理だって大したものなんだぜ?」

 

「私、アメリカ料理って詳しくなくって。でも、思ってたよりずっと美味しそうだね」

 

「はは。ジャンクフードのイメージが強いかも知れないが、それはお安いところで、金さえ出せばいくらでも美味いものは食えるんだ。覚えておくといい」

 

 D9とダイモンは、食前酒の白ワインで乾杯した。

 柔らかい口当たり、するする喉を流れ落ちていく上等なワインの感触に、D9は正直驚く。

 お酒って、ワインってこんなに美味いのか。

 

「さて、君の新しい門出に乾杯だ。君はもう、今までの君じゃない。小さく縮こまってなくていいし、良心に反しないことならなんでもできるし、どこにだって行ける。財布が許す限り何を買ってもいいし、誰の機嫌もうかがうことはないんだ。何よりも」

 

 ダイモンは指を上げて啓示のように天を指した。

 

「君は、存在するだけでヒーローだ。例の、脱皮後の殻が奇蹟の素材ってだけじゃない。俺も含め、大部分のOracleの面々は、君が来てくれて良かったと思っている。君はおおらかでオープンハートで気持ちのいい人だ。いるだけで雰囲気がいいと、皆の見解が一致している」

 

「そ、そうかなあ。私、日本じゃ空気読まないってよく馬鹿にされて。親にも気が利かないって」

 

「それは要するに、自分たちに都合が悪いってことでしかないだろ。過去は地球の裏さ。新しい自分を祝えばいい」

 

 あ、自分は、今、自由なんだ。

 

 今更になって、D9はそのことを実感した。

 自分を縛る何者も、もはやどこにも存在していないのだ。

 メフィストフェレスは、D9の身柄については日本政府了承済みだから、後のことは気にしなくていい、多分、大して思いだしたくもないだろう? と言っていた。

 その通りだ。

 心残りもない。

 親には親の、数少ない知己には数少ない知己の人生があり、自分が関与することではなくなった。

 唯一連れてきた猫又のポトは、今、自宅のソファででも寝転がっているだろう。

 

「そんなこと、いまさら気付いたって顔だぜ?」

 

 ダイモンが笑った矢先、前菜が運ばれてきた。

 期待通りにカキのキャビア乗せだ。

 

 スプーンで、恐る恐る口に運ぶと。

 

「美味しい……!! 家で食べたことのあるカキと全然違う……!!」

 

 元いた家でたまに出された、白くてぽにゃっとしたあれと、目の前の巨大な白い美味の暴威が同じものだとは到底思えない。

 まさに、「滋味豊か」という表現にふさわしいふくよかな味わいだ。

 磯の香りと、ミルクを凝縮したかのような濃厚な旨味が、口の中で炸裂し、キャビアの塩味が更に花を添える。

 

 そう大食いの自覚はないD9だが、あっという間にカキを平らげた。

 食べ物にこんなに夢中になったのはどのくらいぶりか。

 人間でも神魔でもなく、カキを食べるために生きている、何やら海生物にでもなった気分だ。

 

「どうだい、カキ、最高だろ?」

 

「うん、最高!! ありがとう!! もうチェサピーク湾に住みたいよ!!」

 

 そういう生き物に転生したい、と素直に告げると、ダイモンは苦笑しつつ、「ま、わかるけどな」とのたまった。

 

 続いて出てきたのは、メカジキのウッドグリルだ。

 燻されて丹念に焼かれ、燻製特有の香ばしい香りが付いていて、その厚いステーキが、長方形の皿の上にソースと絡めた野菜と共に、彩り豊かに並べられていた。

 

 どきどきしながら口に入れると、ウッドチップの香ばしい香りと、こってりした滑らかな味わいが舌と鼻を直撃した。

 玉ねぎとバターのソースが、余計に甘味と合まった塩味、旨味を引き出す。

 時折付け合わせの野菜ソテーを口に入れると、それがまた濃厚なメカジキの味わいと調和して、もっと貪るように食えと誘惑してくる。

 最近まで日本で箸で食事をしていたとは思えないほど、D9はナイフとフォークを使いこなし、順調にメインディシュを腹に収めていった。

 

「美味しい……メカジキって、こんなに美味しいんだ……」

 

「知らなかったのか? またいつでも連れてきてやるし、自分でも好きな時に食えばいいのさ」

 

 自分はアマダイのソテーを上品に口に運びながら、ダイモンは面白そうにウィンクした。

 

 実際、D9は残っていた一抹の不安が、美味の嵐で吹き払われるのを感じていた。

 生活も保障され、食物も合う。

 文化面でも、何とかなりそうだ。

 みんな助けてくれるし、周囲の人々への感謝を忘れなければいい。

 

 無論、この先、困難もあるだろう。

 周りに再三忠告されたように、色々な意味で有用であり、ある種の勢力にとっては都合が悪かったりする性質立場のD9は、狙われる身になるかも知れない。

 それでも、恐怖はない。

 自分が強いと知っているからだし、自分が一人ではないと知っているからだ。

 特に、孤独を払拭してくれるのは。

 D9は、改めてダイモンのどこか妖しい刃物のような端麗さを見やり。

 単に芸術的感動以上の暖かい感情が湧き上がるのを感じた。

 

 二杯目の白ワインに続いて、いよいよムール貝が来た。

 ふっくらした美味しそうなパンも、籠に入れられて運び込まれてくる。

 

「おおう、これだこれだ」

 

 ダイモンはトマトとガーリックのソースの中で泳ぐムール貝を、器用に貝殻からこそげ落とした。

 

 D9も、見様見真似で同じようにする。

 ぷるりとした薄オレンジの身が、フォークに乗った。

 口に運ぶと、クリーミーさと独特の柔らかい旨味がソースと絡み合う。

 端的に言って、手が止まらなくなるタイプの美味さだ。

 ひと鍋でも食べられそうである。

 

 D9は、正直驚いた。

 日本にいるころ、ふと気になって、ネットでムール貝を調べたことがある。

「美味」と「生臭いだけで不味い」という意見が半々だったように記憶しており、正直思いっきり期待という訳ではなかったのに、これは問答無用で美味い。

 生臭いだけで味がしない、まずい、というのは、この貝とはもしかして違う種類の貝なのか。

 真相は今となっては闇の彼方だが、そんなことに頭を持っていかれるのが惜しいと思うほど、目の前のご馳走の誘惑は強烈だった。

 

 さすがに行儀が悪くならないように注意しながら、貝を平らげていく。

 慣れてくれば貝殻から身をこそげ落とすのも手際よくできるようになり、トマトとガーリックの香る絶妙なソースの味わいもますます深い。

 パンに挟んでムール貝とソースを食べてみると、正直今まで食べ慣れていない新鮮な旨味が感じられた。

 日本から出て、初めて出会うタイプの味。

 世界は広く豊かと思える味と言えば大げさだが、正直そのくらいの感動はある。

 

「気に入ったみたいだな?」

 

 自分に劣らぬ勢いで食べまくるD9に、ダイモンは満足気だった。

 

「うん、すっごい美味しい。日本だと口に合わないって人がいたから、正直そんなに美味しいのかなってダイモンのこと疑ってたけど、ダイモンは悪魔だ邪神だ言われる割に嘘はつかないんだね……私の好物がまた増えた……」

 

「悪魔らしく、誘惑はしてるだろ?」

 

 にやりと意味ありげに笑うダイモンに、D9は笑みを返す。

 

「悪魔の誘惑には勝てそうにないよ」

 

「それは重畳」

 

 すっかりソースも片付いたくらいで、シーフードシチューが運ばれてきた。

 エビ、タコ、白身魚とブロッコリーが濃厚な汁の中で泳いでいる。

 玉ねぎベースの甘味の強い味が暖かい。

 

「初めて食べる味なのに、安心する味だなあ……」

 

 エビの身から頭を切り離しながら、D9はぽつりと呟いた。

 

「君の郷土の味ってやつさ。雇ってるメイドにレシピを検索してもらって、作ってもらうこともできる」

 

「郷土の味かあ。私、ここに何年住んでいられるんだろ?」

 

 ふと、D9は未来を思った。

 

「まあ、身分的にはアメリカって国自体がどうにかなるまでは大丈夫だろうな。ちなみに、俺はこの近辺に、四十年近く暮らしてる」

 

 普通の人間の目をごまかすために、たまに引っ越しもするがね、さほどペンタゴンから離されたことはないな。

 

 そんな風に言われると、日本にいたころは実感が湧かなかった体を張って国を守る、ということが、彼女にとって紛れもない現実になったのだと実感する。

 同時に、自分のこの両腕で、どのくらいの命を守れるのだろうかとも考えざるをえない。

 本土に着いてからの仕事では、親の庇護を失った子供を助けた。

 あんな立場の人が、これからも絶え間なく出てくる……。

 

 赤ワインでさっぱりしたら、いよいよデザートが運ばれてきた。

 

 ほろ苦いチョコムースケーキの上で、チョコ細工のオブジェが見事な数学的曲線を描く。

 

「ふう……このほろ苦さがね……」

 

 多分、日本にいるころだったら、こんなに濃厚なものを食べた後で、更にチョコムースケーキなど考えられなかっただろう。きっと、さっぱりシャーベットにでもしていた。

 だが、今は重みのあるほろ苦さが心地よい。

 

「最後まで気に入ってくれたみたいで嬉しいぜ。よかったよ。外国に来て一番切実な悩みになるのが、食生活だからな」

 

「私もさ、船に乗ってから、あ、食べ物どうしようって思ったけど、船内食もわりとイケたから、こりゃ大丈夫かなって」

 

 D9とダイモンは顔を見合わせて笑った。

 

「これは神の御導きってやつだ。結局、君はここに来る運命だったのさ」

 

「で、どの神様?」

 

「さあな。案外、君のご先祖かも知れないぜ? なにせ、凄い人だからな」

 

 私がもっと凄い神様になったら、なんでもわかるようになるのだろうか、と、D9は漠然と思いを馳せる。

 

 例えば、ダイモンの、本心、でも。