伍の参 神田明神と少女と女

 人の顔を持った空飛ぶエイのようなものを、花渡は情け容赦なく真っ二つにした。

 

 異臭を放つ青黒い体液を踏み越えると、目の前に見えたのは鬱蒼とした鎮守の森とがっちりした石造りの鳥居だった。

 

「神田明神」の額が掲げられている。

 

 子供の頃より染み付いた作法に則り、丁寧な礼をしてから進みたいところであるが、今の花渡はモノの体液で汚れた神刀を手にしたまま、戦に赴くかのような様相で境内を突き進んで行った。

 

 この神社に祀られているのは、天皇の権威に弓引き、関東を独立王国たらしめんとした野望の武士・平将門公だ。

 

 坂東武者の象徴であり、今や武士の魂である「太刀」を発明したとされるその男は、一方で非常に人を惹き付ける魅力と人徳を誇り、祭り上げられるべくして王者に祭り上げられたのだ。

 

 だがその非業の死の後、公は御霊と化した。

 

 晒された首だけの姿となって尚、「体を返せ、今一度戦せん」と叫び続け、そのまま故郷である関東に飛び帰った。

 様々な祟りなす公の御霊を人々は手厚く祀り、その首の落下した首塚、そして神田明神に神として据え、それぞれが長年信仰を集めた。

 

 元和二年には、江戸の鬼門に当たる方角に遷座され、「江戸総鎮守」の社格が与えられている。

 

 要するに、ここは江戸を邪なるものから護る数々の寺社仏閣の筆頭なのだ。

 主にモノとの戦いの最前線に立っていただくのに、かの神ほど相応しい存在はまたとあるまい。

 

 花渡自身にとっても、神田明神は馴染み深い。

 何せこの神田明神の祭りは「天下祭り」と呼ばれ、神輿は江戸城内にも入ることを許されているのだ。

 その祭りの喧騒を、花渡は何度となく体験し、それなりに浮かれ楽しんだ。

 

 将門公には、個人的に親しみの感情が湧く。

 刀一つで生きる剣客として、公の自らの武力を信じ巨大な敵を恐れず突き進んだ雄々しさは、心の底から共感できるものだった。

 それに加え。

 

 ――呼んでいる。

 

 花渡はその声を感じ取っていた。

 深い響きの男の声だ。体の深奥に響くその声なき声は、花渡を呼んでいた。

 

 ――来たれ、伊耶那美の娘。

 ――我が元へ来たれ。

 

 どこか苦しそうなその声は、救援を求めるものだと分かる。

 その理由はすぐに分かった。

 

「何という……」

 

 朱色と言うより緋色に近い色に塗られた二の鳥居の前で、花渡は立ち竦んだ。

 

 江戸で最も神聖であるはずの場所に、モノの群れが蠢いていた。

 長く引き伸ばした腐肉の塊に百足の脚を付けたようなモノ、緑色にテラテラ光る、一本脚でピョンピョン跳ね回るモノ。

 

 鳥居の前に門番のように立ちはだかっているのは、昨夜出くわしたあの巨躯の化け物と良く似た、目のない牛のようなモノだった。

 蒼白い炎に包まれた角は鳥居を越え、青黒い全身から手で触れそうな程に濃厚な瘴気を滲み出させている。

 

 本来なら清々しいであろう周囲の空気は、玉子の腐ったのに魚の腐ったのを混ぜたような異臭に満ちていた。

 加えて花渡の目には、瘴気が薄汚い靄のように一帯をうっすら黒く染めている様子すら見て取れた。

 

 これだけ濃厚な瘴気なら、並の人間なら、いや先程までの花渡自身でも当てられて倒れるだろう。

 今の花渡がそうならないのは、一重に伊耶那美命と一体化したからだ。

 自ら放つ神気が、瘴気より遥かに強いのだ。

 

 ――こいつらは、地獄の奥底から這い出して来たのだ。

 

 伊耶那美に与えられた知識がそう囁いた。

 本来なら、まず自然には繋がらないであろう地獄の奥深くまで、穴が開いたのだ。

 地獄の瘴気とその発生源である格上――下と言うべきか――の魔物が現世に這い出し、その本能の命じるままに、現世を蝕もうとしている。

 

 しかし、おかしいな、と花渡は怪訝さを感じた。

 寛永寺のモノ、花渡神社のモノ、そしてこの神田明神のモノどもは、まるで武将の配下にある武士が、その命に従って配置に着くように、計画的に置かれているように思える。

 鬼門の守りを崩そうとするかのように、明らかに江戸市中より凶悪だ。

 江戸の中心である江戸城、そして将軍を狙うのではなく、「江戸の結界」、そして「江戸という町そのもの」を狙っているように思える。

 

 待てよ。

 

 更に花渡は訝しむ。

 神田明神には、将門公の首であるご神体と、それを守る、少なくとも数十人に及ぶ神職が詰めていたはず。

 

 ご神体があり、それに祈りを捧げる者たちが存在するなら、例えその者たちに直接的に戦う力がなかったとしても、ご神体が神威を発揮し、こんなモノどもが入り込む余地などないはずだ。

 

 花渡神社は、無人で荒れ果てていた隙を突かれたが、寛永寺は僧侶たちの折伏で境内にまではモノが入り込めなかった。

 

 そして、将門公自身の首が宿す神威は、なまなかな仏像に劣るものではない。

 何せ、死後それだけが空を飛んで江戸に帰って来たという程のシロモノなのだ。

 まるで神代の昔のような奇跡を起こした聖なる遺物。

 モノが容易に近付けるとも思えないのだが。

 

 ふと、花渡は自分が何故こんなことを知っているのか奇妙に思い、僅かの間に、これは神の、伊耶那美命の知識なのだと思い至った。

 

 奇妙だった。

 母親と違って神職向きとは言い難い自分に、このようなものが与えられるとは。

 

 ある意味、それは恐ろしかった。

 聖なる花で飾られた底知れぬ淵だ。

 いくらでも宝を引き上げられる、しかし、底に潜って帰って来られなくなってしまいそうだ。

 

 そんな花渡の思いも知らず、目の前のモノが吼えた。

 

 こんなモノがいるのでは、ご神体に何かあったのか。

 詰めていた神職は全滅か。

 

 吐きかけられた毒気の吐息を掻い潜り、花渡は前進した。

 横薙ぎに神刀を振るうと、腰の上辺りから真っ二つにされたモノの巨躯が、ずるりと倒れた。

 

 単に刃の長さだけではない。神刀から放つ神気が刃と化して、数倍の攻撃範囲を与えているのだ。

 余程の巨躯のモノだろうと、一撃だ。

 

 地響きを上げて倒れるモノを尻目に、花渡はそこら中にいるモノ――瘴気を漂わし場を汚す疫鬼を次々に斬り捨てていった。

 

 異形の手や脚や胴体が斬り飛ばされ、次々に散らばった。

 噴き上がる青黒い血潮が雨の如くに地面を叩く。

 吐きかけられる陰火すらも斬り払い、周囲は見る間にモノの残骸で埋め尽くされた。

 

 以前も強かった。

 強さの自覚があった。

 

 しかし、今は人には到達出来ぬ境地にいるという空恐ろしい実感を得ていた。

 まるで疲れないのだ。

 それに、敵の動きが異様に遅く感じる。

 実際には元より速かった花渡の動きが人にあらざる段階にまで高められたからだ。

 重さが変わるはずもない神刀が、妙に軽く感じられ、自分でも小気味良い程正確にそれを振るえる。

 全てがくっきりと澄明で、何をすべきかが高いところから見下ろしたように分かる。

 

 と。

 足が、地面にずぶり、とめり込んだ。

 まるで泥沼にでも踏み込んだかのように。

 

「ほう?」

 

 思わず感心して呟いた花渡の周囲の地面が波打ち、その底から噴火よろしく幾本もの触手が噴出した。

 

 花渡に雪崩れ落ち――

 

「止まれーーーっ!!」

 

 甲高い子供の声がした。

 

 その瞬間に、その極太の触手は、妙な形を保ったまま、がちり、と固まった。

 まるでそこだけ時間が止まったかのような有り様だ。

 

 花渡はすかさず神刀を背後から一回転させ、周囲を薙いだ。

 斬り飛ばされた触手が人が倒れるような音と共に転がる。

 青黒い血が水芸のように周囲を彩る。

 

 強引に地面から足を抜いた花渡は、目の前の地面から浮かび上がりかけて固まった、無数の玉を埋め込んだ蛸の頭ようなものを真正面から突き刺した。

 ぐいと深く突き刺し抉ると、田んぼのように柔らかくなった地面が揺れ動いた。

 花渡くらいなら包み込めるくらいの巨躯だったのだろうが、刺した先が急所だったらしく、見る間にしぼみ、消えていく。

 同時に地面も元に戻った。

 

「出て来い。いるのだろう?」

 

 無造作に花渡は神刀を担ぎ、振り返った。

 元の色が分からなくなるくらいに自らの血を吸った小袖と袴を穿いている、その姿は戦いに狂った幽鬼のようだが、表情は妙に険がない。

 面白そうに笑っている。

 今の子供の声には、聞き覚えがあったのだ。

 

「あはは、やっぱり分かるよねぇ~」

 

 たははと笑いながら石段の下から小さな姿を見せたのは千春だった。

 こんな時なのに、祭りの帰りのような、あの格好だ。

 

「お前、そんな技を持っていたのか。知らなかったな。助かったぞ、礼を言う」

 

 にこやかと言える花渡の顔と表情。

 

「そうでしょ~便利なんだから、これ。助かったでしょ~えへへ」

 

 千春は図に乗ってくねくねしながら笑った。

 一応は照れているのかも知れない。

 

「……お前がこんなにモノだらけの中、無傷でここに来られたのは、その妙な力のお陰という訳か?」

 

 太刀を担いだまま、ゆっくりと近付く。

 穏やかな足取りで、余分な力は入っていない――入っていたら、戦うのに不利だ。

 

 ――神刀の間合いに千春が入った。

 

 千春は特に恐れてはいないように見える。

 年端もいかぬ子供が、抜き身の長刀を前に、大した度胸だ。

 

「……で、何の用だ?」

 

「お姉さんをね、助けに来たの」

 

 間髪入れず、千春は告げた。

 

「私を助ける……?」

 

 花渡は目をすがめる。

 

「前に会った時言ったでしょ、お姉さんを召し抱えたい人がいるって。その人が、お姉さんのこと助けて来いって」

 

 まっすぐな目で、千春は訴えかけた。

 自分は、自分たちに嘘はないと。

 

「……そのお前の主とやらは何者なのだ? どうして私がここにいると知った?」

 

 自然な仕草で、神刀が下ろされる。

 この体勢からだと、下段斬り上げ。

 必殺の燕返しがいつでも繰り出せる。

 

「う~ん、詳しく話してる時間ないんだけど……」

 

 気楽そうにいなしながら、千春は実は緊張していた。

 真の危機に遭遇した時のあの寒気が足下から全身を這い昇ってくる。

 

『でも、ここでケツまくったら、お姉さん二度とあたしを信用してくれないよねぇ~』

 

 気を取り直して、改めて花渡に向き直る。

 

「お姉さん。この事態を終わらせようとしてるでしょ?」

 

 花渡がますます怪訝な顔になるのに構わず畳み掛ける。

 

「それからさ……お姉さん、酷い傷だよねえ。血塗れ」

 

 隠しようのない血塗れの小袖と袴に目をやる。

 どう考えても、これだけ血が流れれば、人間は生きていない。

 

「あたし、知ってるよ。宿したんだね、お姉さん。伊耶那美を」

 

 神刀の切っ先が跳ね上がった。

 千春の首筋にぴたりと付けられる。

 

「……お前、一体何者だ?」

 

 冷ややかな声の響きが、千春に冷や汗を流させる。

 

「いや……お前の主が何者か知るのが先だな。言え」

 

「……あたしの主も、この事態を収めようとしてるってこと。引っ込んで震えていられる立場からは、一番遠いと思うよ。責があるって言ってもいいかな?」

 

 びくりともしない刃に感心しつつ、千春は殊更気楽な調子を作った。

 

「責がある……この江戸の今の姿にか?」

 

 花渡は考え込んだ。

 江戸そのものに責を負うなら。

 

「幕閣、ということか?」

 

 千春はにへら~っと笑った。

 

「ごめん。この先は本当に駄目なんだ。ただ、外れてはいないと言っておくよ」

 

「幕閣なのだな?」

 

「だから~……」

 

「そうすると、全部に説明がつく。お前のような年端もいかぬ子供が働かされているのが気になるが、今の力を見る限り、それこそ『お上の大事』なのだろうな」

 

 江戸で相応の権勢を誇るのも、花渡を付け狙う相手を静かにできる力を持つのも、妙な神通力だか何だかを備えた人間を養い使役しているのも、幕府が元締めなら、何の不思議もない。

 

 朝廷が国を治めていた古には、暦の制定の他に「モノに対する護り」を専門にする「陰陽寮」なる役所があったそうだが、幕府に似たようなものがあって、何の不思議があろう。

 

「お前はどのような修行をしてそんな神通力を身に付けた? 私の母親は伊耶那美命の巫女だったが、そんな力を振るうのは見たことがないな……」

 

 身のこなしからてっきり忍の者だと思っていたのだが、あの強力な術を見るに、そうではないのかも知れない。

 

「んだから~! 言えないって! お仕置きされちゃうよ~!」

 

「そうか。まあ良かろう。それより先に、この神社だ」

 

 花渡は頭を切り替える。

 徹底的に問い詰めたいところであるが、幕府に属する者なら話は別だ。

 滅多なことを口にすれば、恐らく文字通りに首が飛ぶのであろう。

 

「そうそう。かなりヤバイことになってるんだよ、この神社」

 

 緊張の色合いを変えて、千春は告げた。

 

「何故、こんなことになっている? ここのご祭神は、戦の神平将門公だぞ、本来ならモノなど近付けもしないはずだ」

 

 しかし、将門公は、花渡に明確に助けを求めてきていた。

 東国きっての武神がそんな状態になる理由とは。

 

「ご神体に何かあったらしいの。それで、将門公の力が衰えて、モノに蹂躙されてるの」

 

 口早に、千春は説明を繰り出す。

 

「まず境内のモノを片付けて、場を浄化しないと。その上でご神体を見付けて……それに、中にいた神職の人たち……望み薄だけど」

 

 最後の一言が、花渡に自分の生まれた神社で見たおぞましい光景を思い出させる。

 

「……行くぞ」

 

 花渡は神刀をいつでも振るえるように携えると、千春に背を向けた。

 本殿の方角へと参道を進む。

 

 背中を預けられる格好になった千春は、会心の笑みと共に花渡の後ろに付いた。