1 運命の大逆転

「はぁあ~~~っ……」

 

 路地を歩きながら、盛大なため息が漏れる。

 佳波(かなみ)は、最低限の荷物の入った旅行用バッグを、大義そうに抱えなおした。

 

 風が、柔らかくうねった長い髪をなびかせる。

 女性にしては身長が高いことが、今はありがたい。

 問題の根本的解決には、何一つ役立たないにしても。

 

 もう、家には帰れない。

 あまり、帰りたいとは言えない、居心地の悪い家だったけど、それでも生まれ育った家だった。

 働いている収入のほとんどを吸い上げられ、申し訳程度の「小遣い」しかもらえないという、大人とは思えない待遇だったけど、それでも彼らは佳波の両親だった。

 

 ケチの付き始めは、猫がしゃべるようになったことだった。

 

 そう、猫。

 

 飼い猫のポトがしゃべるようになったのだ。

 

 正確に言えば、「佳波が猫がしゃべる幻聴を耳にするようになった」のである。

 

 今思うに、ストレスが閾値を超えたシグナルのようなものだったのか。

 直後、ついに体を壊して勤め先を辞めざるを得なかった。

 

 そうなると、家族からの突き上げがきつくなった。

 病院に行くための金を貸してくれと言っても、黙れ、さっさと再就職して治療費と家に入れる金を稼げとせっつかれるだけだった。

 父親はまだ働いており、それなりの役職に就いていて、佳波の収入などあてにしなくても、かなり余裕のある暮らしができるはずなのに、両親は佳波のせいで家が貧乏になったと言い募った。

 もちろん、彼らにとってはした金以下であるはずの治療費すら佳波に渡さず、理の当然として、佳波の病気は悪くなっていった。

 

 猫がしゃべる幻聴に加え、何もないはずの場所に、どう見ても妖怪としか思えないような奇怪な生き物が見えるようになった。

 神社の杉の木の上には天狗。

 川べりの茂みに河童。

 時と場合によっては、彼らと話し、どういうわけだか女王様みたいに忠誠を誓われるということまであった。

 

 ヤバイ、という自覚はあった。

 自分に都合のいい幻覚や妄想は、統合失調症のわかりやすい症状だ。

 佳波は職場と家でのストレスで、その病気になってしまったのである。

 何とか金を工面して転がり込んだ総合病院の精神科でも、ばっちりと太鼓判を押され、佳波は晴れてメンヘラデビューを果たした。

 

 呆然とし、医者から再就職は後にして治療に専念しないと危ないと警告され、佳波はそのことを両親に話した。

 

 両親の態度は変わった。

 

 金を産むことができないなら、家に必要ない。

 両親の態度はそれに尽きた。

 昨日、いきなり、中途半端な厚さの封筒を渡された。

 二十万円ほど、入っていた。

 

 それをやるから、出ていけ。

 今後一切、この家に関わることを禁じる。

 その金が最後の支援だ。

 後は自分でどうにかしろ。

 一切、家に迷惑はかけるなよ。

 

 かくして、佳波は家から放り出された。

 

「カナちゃん、気を落とすなにゃあ」

 

 足元に付いてきた飼い猫のポトが鳴いた。

 

 こんな時まで幻覚か。

 佳波は情けなくなった。

 

「カナちゃんは神様の娘にゃあ!! なんでも思い通りにする力があるにゃあ!! 落ち込まなくても、最悪のことになんか、ならないにゃあ!! 安心するにゃ!!」

 

 こんな時にまで妄想交じりの幻聴が聞こえることに、佳波はつくづくがっかりしてしまう。

 昔から、夢見がちな性格だと自覚はあったが、それがこんな方向に針を振り切るとは。

 

「……ポト。もし、私にそんな力があるんだったら、ブラック企業になんかそもそも就職してないよ。ストレスで潰されてメンヘラにならないし、家も追い出されないっての」

 

 幻聴だとわかっていても、愛猫を無視するのが忍びなくて、つい律儀に会話してしまう、佳波であった。

 

 ふと。

 

 住宅街の路地が終わって、大通りに出る。

 

「もう、家に帰りな、ポト。ここ、交通量多くて危ないし、私はこれからとりあえずネカフェにでも行って休むから、連れてってあげらんない」

 

 ポトが、にゃあ、と鳴いた。

 

「カナちゃん。もうすぐ全部上手くいくようになるにゃあ。だって、あなたは」

 

 甲高い、自動車のクラクションが、その「幻聴」を遮った。

 目の前に、黒塗りのベンツが滑り込んできた。

 まるで呼びつけられたタクシーのように。

 ベンツの窓に映し出された顔は、少し前なら目力が強いと言われていたくっきり顔だが、こう疲れた雰囲気を醸し出していては、病的な印象が強まるばかり。

 

 驚く佳波の目の前で、ベンツの運転席側のドアが開き、長身の若い男性が降りてきた。

 佳波を見ると、その端正な顔に満面の笑みを浮かべる。

 誰だろう、と佳波は訝しんだ。

 知り合いに、こういう人間はいない。

 ネイティブの日本人ではないのは、見ればわかった。

 彫りの深い顔立ちに、鮮やかな銅色の髪、紫の目をしていた。

 ざわりとさせるような、妖しい雰囲気の美男だ。

 洒落たスーツを着こなし、大股で佳波に近づく。

 

「九良賀野佳波(くらがのかなみ)さん?」

 

 明瞭な日本語で聞こえた、というよりも、明らかに相手は外国語で話しかけてきたのだが、幻聴が勝手に日本語に翻訳している。

 

 だめだ……

 こんなイケメンを目の前に残念だけど、私、本格的に駄目だ……

 

 どうしていいかわからずにいると、その男性がまたもや話しかけてきた。

 

「迎えに上がりましたよ。旧き神の神子よ」

 

 その瞬間、風が吹きすぎ、それに飛ばされるかのように、意識が消し飛んだ。