その11 勝利と絶望

「らぁッ!!!」

 紫の聖なる光を纏う紫王の拳が、妖狐・砕羅の右の首を捉えた。

 微妙に軌道を変えた二対目、三対目の腕が逃れようもない角度でめり込む、はずだったのだが。

「!!!」

 しかし、それは幻。

 蜃気楼のように、その姿は薄れ、消える。

 同時に紫王の左側から、白い火の濁流が押し寄せ、彼を呑み込んだ。

 

「くっそ、どうなってやがるんだ……!!」

 しかし、紫王は大した傷もない。

 紫王の全身を覆う聖なる光は、聖地を守る大妖由来の、強固な霊的防壁である。咄嗟に分厚い障壁と化させて、妖火の濁流を防いだのだ。

「確かに捉えたはずなのに……何で当たらねえ……!!」

 にも関わらず、先ほどからの紫王の苦戦の理由。

 紫王の攻撃が、砕羅に当たらないのだ。

 確かに捉えたと思った瞬間、砕羅の姿は消え、同時に反撃の妖術が押し寄せてくる。

 妖気を嗅覚で嗅ぎ付ける仁の警告が飛ぶのだが、それも決定打にはならない。仁が紫王に警告した時にはすでに、砕羅は移動してしまっているのだ。

 

「まずい……!! 我らはすでに砕羅の幻術の中に囚われておりますぞ」

 清美が牙を軋らせながら呻く。

「まずは、砕羅の幻術を破らなければジリ貧で……」

「俺だけ居場所分かっても、一人じゃ対抗できねえしなぁ……」

 黒い毛皮が、あちこち炎で縮れている仁がぐるると喉を鳴らした。さっき果敢に砕羅本体に噛みつくことに成功したものの、炎を纏った尻尾で殴り飛ばされ、傷を負ったのだ。

 

「くっそ、瑠璃がいてくれれば……おっ……と!!」

 頭上から雪崩れ落ちてきた蛇の鎌首のような尻尾を拳で払いのけ、紫王は歯噛みした。

 瑠璃がどうなってしまったのか。

 それが、全く分からない。

 瑠璃なら、簡単にこうした幻術を破れるはずだが、紫王たち三人はきっぱり瑠璃と切り離されてしまったようだ。三人のうち誰も瑠璃を感知できない。

 

「瑠璃を助けに行くにもこいつを……くそっ、何か……」

 紫王はめまぐるしく策を練り始め。

 

 と。

「清美ちゃん、こいつに糸を!!!」

 吼えた仁がいきなり虚空に突進した。

 

 悲鳴。

 今の今まで何もなかったその場所に、双頭の妖狐の姿が浮かび上がった。

 

「でかした仁!!!」

 清美が牙の林というべき口から、水を紡いだような糸を吐きだす。

 それは巧みに仁の体を避け、一瞬浮かび上がった妖狐の全身に、縦横無尽に絡みつき、縛り上げた。

 

「貴様ァ!!!」

 怒りの絶叫も、水の糸で口を縛られ途絶えた。

 妖狐・砕羅の炎の術は、牛鬼・清美の水の糸で封じられた。

 時折隙間から、ぼっ、ぼっ、と金銀の炎が漏れるが、それはもはや攻撃に使えるような威力を残していない。

 

「さあ!! 紫王様!!!」

 清美が糸で砕羅を拘束したまま叫ぶ。こうしていれば、新たに清美に対し幻術の上書きをしない限り、糸の存在で砕羅の居場所は丸わかりだ。そして、自分と同等以上の妖怪に対し幻術の上書きをするには、砕羅は術を使い過ぎていた。

 

「らぁあぁぁぁああぁぁぁーーーーー!!!」

 

 紫王の拳が唸った。

 たくましい三対六本の腕が、その十倍もあるのではないかと錯覚させる勢いで、砕羅に振り下ろされた。

 糸で拘束された砕羅は、それに対抗する術を持っていない。

 聖なる光で増強された半神の拳は、轟音と共に砕羅を文字通り粉砕した。

 妖気ごと肉体を砕かれた砕羅は、あっさりとひしゃげ、見る間に消えて行った。

 空気に溶け込むように、肉体が消えて行き――

 

 はっと。

 紫王たちは、見慣れた故郷の街角にいる自分たちに気付いた。

 まるで何か大きな塊でも突っ込んだように、角の薬局が大破しているが、それ以外は見知ったあの風景だ。

 いや。

 よく見れば、アスファルトの地面が焼け焦げ、でろりとした妙な物質に変わって異臭を放っているが、それでも歩道のタイルも信号機もそのままだ。

 

「なっ……なんだ、急に……元の場所!?」

 仁が頓狂な声を上げた。

「やられた……転移なんか、していなかったんだ!! 戦場が変わったように見えたのも、幻術だ!!!」

 清美は文字通り歯噛みする。すっと、その姿が元のマッチョな若者に戻った。幻術が解けた今、いつ普通の人間が来るか分からない。

 

「瑠璃……!?」

 紫王は青ざめた顔で叫んだ。

「瑠璃!! どこだ!!!」

 周りを見回しても、恋人の姿は影も形もない。

 戦慄が、紫王の背中を走り抜けた。

 

「……これか……目的は……瑠璃ちゃんだ!!」

 清美が呻く。

「奴らの目的は、我らと瑠璃ちゃんを引き離して、彼女を連れ去ることだ……!!」

 

 仁が、素早く地面に降りて、まるで警察犬のように匂いを辿りだした。

 が。

「駄目だ……! ここで途絶えてる……!!」

 10mばかり行った歩道で、仁は瑠璃の匂いを見失った。同時に。

「!! 臭ぇ、これは……!!」

 仁の首回りの毛が、ざわっと逆立つ。

「紫王!! あの匂いだ!! あの、式鬼と同じ匂いが!!!」

 紫王が目を見開いた。

「霊泉居士……奴が自分で……!!」

 

 紫王には、ようやくこの企みの全貌が見えた。

 さっきの砕羅は――本人がどういうつもりでいたかはともかく――囮でしかなかった訳だ。

 自分たちだけ砕羅の幻術に捉えさせ、瑠璃から強制的に注意を引きはがし、その隙に乗じて霊泉居士本人が、瑠璃を連れ去る。

 自分たちは、最初から騙されていたのだ。

 

 瑠璃は……

 

 紫王は、人間の姿に戻ると、背中のボディバッグからスマホを取り出した。

 いつも瑠璃と連絡を取る時に使う通話アプリを起動させ、瑠璃に電話をかける。

 スマホを耳に押し当てると、呼び出し音が鳴っているのが聞こえた。

 何回かのコールの後、誰かが電話口に出たのが分かった。

 

「おい、瑠璃!? 今どこ……」

 紫王が思わず叫ぶと。

『やあ、その様子だと、砕羅は倒せたんですね。おめでとうございます。ま、特にあなた方に有利になることってありませんけど』

 妙に響きのいい、若い男の声に、一瞬だけ紫王は怪訝さに囚われた。

「……てめえ、霊泉居士だな!?」

『ええ、まあ。今はその名前は使わないようにしているんですが、仕方ないので、とりあえずはそれでいいです』

 妙に気やすい、そんな受け答えに、紫王は神経を逆なでされた。

「瑠璃はどこだ!!!」

 紫王が瑠璃のスマホにかけて、霊泉居士が出た。これは、瑠璃が霊泉居士に誘拐されたという線しかない。

『どこって、ここですよ。まあ、具体的な場所は控えますけど、私と一緒にいることは確かですよ』

 ハハハと軽い笑い声を立てる霊泉居士に、紫王は怒りを爆発させた。

「てめえ!! 瑠璃をどうする気だ!!」

『私に奉仕してもらいます。ま、本人の許可は取ってないですけどね』

 あまりにあっさり言い放たれたその言葉に、紫王の血の気が引いた。

「なんだと……」

『神虫。いやあ、私も今までの長い人生で、実物を拝見するのは初めてですよ。素晴らしい。この時代に、わざわざ私の罠にハマッてくれる間抜けと一緒にいたということは、私のための|糧《かて》ということでしょうね?』

 露骨に嘲笑う口調とそれに乗せられた「糧」という冷酷な言葉に、紫王の血が沸騰した。

「瑠璃に少しでも手出ししてみやがれ!! ブッ殺すぞ!!」

『いやあ、執着してますね。ま、気持ちは分かりますが。じゃあ、執着が消えるように、最後にいいもの送りますね』

 その言葉を最後に、一方的に通話は切れた。

 

「瑠璃!? 瑠璃、くそっ!!!」

 紫王がスマホを耳から離した時、聞き慣れた電子音と共に、画面上部に着信が表示された。

 通話アプリで、何かが送り付けられたのだ。

 紫王は、それを開き――固まった。

 

 送り付けられてきた画像は、神虫の姿に戻った上で、入院用のベッドのようなものに雁字搦めに拘束されて眠る、瑠璃の姿だった。