漆の捌 御霊士集結

「天海代僧正様。私は夢でそれを見ました」

 

 今度は天海がはっとした。

 目に力がこもる。

 

「地上にその巨大な腕を伸ばしている様を見たのです。あれの名は――」

 

「その名を言ってはならぬ!!」

 

 思いがけず天海が大喝した。

 さしもの花渡が雷に打たれたように震える。

 

「その名を口にすることも、頭に思い浮かべることもならぬ。何となれば、それだけであやつの力になってしまう故。我らはどうしてもそれを口にせねばならぬ時は、『呼ばれざる者』と呼んでおる」

 

 花渡は頷いた。

 

「天海大僧正様。『呼ばれざる者』とは何なのですか? あやつ自身がモノでなく、あやかしの類であるはずもない。一体――」

 

 天海は一瞬、瞑目した。

 

「あれはの、おぞましいことに神じゃ」

 

「は……」

 

 唖然とする。

 

「あれがなぜそのようなものになってしまったのか、今では誰も知らぬ。一説には、古の神々の戦いの際に敗れてその無念から堕落したとも聞くが、それが本当かどうかも最早分からぬ」

 

 おぞましい知識は、高僧の口から、ひそめた声で伝授された。

 

「とにかく『呼ばれざる者』が神であり、だからこそ世界の壁を超えて人の魂に通ずることができるのじゃ」

 

 邪神というやつか。

 なるほど得心がいった、と花渡は内心一人ごちた。

 

 しかし、それと武蔵とどう繋がるのだ?

 

「おぞましいことに、かの『呼ばれざる者』を神として奉ずる者たちがおる」

 

 天海の顔が一層険しくなった。

 

「生者でありながら、人ならざる力と引き換えに、自らを『呼ばれざる者』に差し出し、帰依するのじゃ。すると、『呼ばれざる者』はその者を人を超えたものに変える……すなわち、生きながらモノと化すのじゃ」

 

 深い溜息が、天海の口から洩れる。

 

「こういった、生きながらモノと化した連中は厄介での。並のモノと違って、人間の性質も幾ばくか残している故、モノを遮る術や結界が効かないことがあるのじゃ」

 

「武蔵は、それだと……?」

 

「まず、間違いなかろう。どういった経緯かは知らぬが」

 

 花渡は、ふと思い当たることがあった。

 

「上人様、昨夜の呼ばれざる者を垣間見た夢で、気になる名前を聞き申した」

 

「それは?」

 

 花渡の真剣な表情に、天海も何かを感じ取ったようだ。

 

「夢枕に立った父母に教えられました……地の底に眠る怪物を呼び出そうとする者がいると。金地院崇伝と聞き及びましたが、ご存知であらせられましょうや?」

 

 かっと、天海が目を見開いた。

 

「それはまことであるか!?」

 

「はい。確かに父母はそう申しておりました」

 

 背後で千春がそんな、と呻き、黒耀が息を呑む気配がした。

 

「芝の……増上寺の側の寺の敷地から、巨大な腕が伸び上がるのを見たのです。その時にその名を」

 

「……増上寺近く……金地院か……間違いないの……」

 

 苦渋の声で、天海が呟いた。

 花渡は困惑する。

 どうも天海ばかりか千春も黒耀も、その崇伝という人物を知っているようだ。

 

「不躾ながら、金地院崇伝とはどなたのことなのですか?」

 

「拙僧と同様、ご公儀にお仕えしていた僧籍の者じゃ。ご先代様の折に、芝増上寺の側に金地院を賜っておられた……」

 

 天海の顔がますます曇る。

 その恐ろしい意味は分かりきっている。

 

「崇伝なる方が、『呼ばれざる者』に魂を捧げた、と……? そして、金地院を拠点にこの江戸の騒乱を引き起こしている……?」

 

 低い花渡の問いに、天海は無言で頷いた。

 

「今すぐに金地院に討伐の手を」

 

 黒耀の声が固い。

 

「その前に、花渡殿には正式に御霊士に加わっていただく確約をいただかねば。花渡殿」

 

 天海がいずまいを正した。

 

「御霊士の一員に加わっていただけるであろうか? 表向き身分としては旗本五千石、加えて役料千石をお約束いたす」

 

「謹んでお受け申し上げまする」

 

 断れる訳もなかった。

 神の御霊を宿す身としての役割を果たせ、更に身分まで保証されるのだから、何の不満があろうか。

 

 ――生きて帰って来れれば。

 

「うむ。では、これを。御霊士となった者には、拙僧より神器を授ける」

 

 上役の口調で、天海は傍らに控えていた僧に三方に白い絹の布を被せたものを持たせ、花渡の前に置いた。布が取り除かれる。

 

「これは……」

 

 そこに乗っていたのは、白翡翠で作られたと思しい、勾玉の首飾りだった。

 目が吸い込まれる、清涼な存在感を放っている。

 

「熊野有馬の花窟神社より分霊した、伊耶那美命の神威の篭った勾玉じゃ。異なる世界の境を自在に行き来する力を持つ。これから行ってもらう場所で役に立つやも知れぬ」

 

 花渡はぞくぞくとした神威に心地良さを感じながら、それを首に掛けた。

 

 別室で控えていた陣佐、青海が呼ばれる。

 

 天海から改めて引き合わせがあり、詳しく紹介された。

 みなそれぞれに「宿神」と呼ばれる神を宿していた。

 

 千春は言葉の約定を司る宇迦之御魂《うかのみたま》。

 陣佐は炎の御子であり伊耶那美命の子神の火之迦具土神《ひのかぐつちのかみ》。

 青海は大いなる海の清浄を司る大綿津見神《おおわたつみのかみ》。

 そして黒耀は仏尊が一、全てを無に帰す大黒天《だいこくてん》。

 

 引き合わせの後、天海より説明があると、陣佐と青海はぎょっとした顔になった。

 

「まことでございますか……崇伝様が」

 

「確か今、病で青息吐息ってお話じゃなかったんですかねぇ?」

 

 口々に疑問を述べる二人に、天海は静かに首を横に振った。

 

「拙僧も何かの間違いであったらと思うてはおる。しかし、かの方が黒幕とするなら、全て辻褄が合う。この江戸を、拙僧を恨む理由が、かの方にはあるのだ」

 

 詳しい経緯を尋ねて良いものか逡巡している花渡の袖を、千春はそっと引いた。

 

「崇伝さんって人はね、神君様のご神号を巡って天海様と言い争いして負けてるの。江戸の町そのものも天海様がお造りになったし、それに最近では幕府の中にも居場所はなくって、京と江戸を行ったり来たりしててね……」

 

 天海に匹敵する高僧が堕落したなら、これくらいの騒ぎを起こすこともできよう。

 不思議なのは、その崇伝と宮本武蔵がどこで繋がったか。

 

 花渡は、素直にそれを天海に問うた。

 

「分からぬ。今こちらでも調べを進めておるが……それを確かめるためにも、そなたには黒耀らと共に金地院へ赴き、調べをつけてきてもらいたい」

 

「武蔵は親の仇にございます。葬っても良いものでしょうか? それとも、生け捕りにしてお調べになりますか?」

 

 花渡は答えを予想しながらも、そう尋ねた。

 

「いや。既にモノと化した者は生かしておいてはならぬ。調べはできる限りつけてきてもらいたいが、まず何より呼ばれざる者の呼び出しを阻止するのが第一である。皆も、左様心得よ」

 

 応と答えて、今や花渡をも含む御霊士一同は頭を下げた。