13 クグツの城の魔王様

 空凪がコンパスに指を当てると、彼自身とチカゲ、百合子の体がまるで巨人につまみ上げられたかのように、宙に浮いた。

「……ッ!!」

 声を出すのを抑えて、チカゲはひゅっと息を吸い込む。

 感覚としては体のどこかを掴んで吊り下げられているというよりは、エレベーターで一気に上昇している感覚に近い。ただ、足下に床の感覚がないのが不安感を引き起こす。

 目の前にふっさりと茂った緑の立ち木に隠れる形で、チカゲたちは廃病院の屋上に無事降り立った。

 

「……なにも、いないね」

 少しばかり即時戦闘の覚悟を決めてきたチカゲは、排気筒が立ち並ぶ屋上のしんとした様子を見て拍子抜けした。ブーツの靴底を通してざりざりと朽ちたコンクリートの床の感触が微細に伝わる。周りの排気筒は埃まみれで、外国の未確認生物の首のようにのっそり立ち並んでいた。

「見張りがいないなら好都合ね。さっさと中に……」

 百合子がそれでも油断なく銃を構えて、階下に続く出入り口のドアを見やった。

「……いや、おかしい。反応があるぞ、何かいる!!」

 空凪が低い声で警告した。コンパスの蓋を開いて一瞬確認する。チカゲもちらりと見たが、まるで磁石を傍に近づけてぐるぐる回してでもいるように、針がぐんぐんと不規則に回転している。

 

「なに……」

 チカゲが何かぞわりとしたものを感じて振り向き――瞬時に飛びのいた。

 今までチカゲがいたところに、何か銀色に光るものがうごめいていた。埃まみれでまだらになった表面がぼんやり光る。

「くっ!! なにこれ!!!」

 チカゲと同じく飛びのいていた百合子が、姿勢を固定して引き金を引くと、その銀色の大蛇のようなものは、金属片をまき散らして爆散した。

 

 排気筒だ。

 

 チカゲは凝然とその破壊されたものを見た。

 まるで伝説の大蛇のように、排気筒の一つがぐねぐねとうごめいて、鎌首を伸ばすように全身を伸ばしてチカゲたちに襲い掛かったのだ。硬質なはずの材質が突如生き物の皮膚や肉のように柔らかくなったはずだが、百合子の一撃で飛び散った金属片は、やはりただの金属片だった。

「なにこれ……」

「クグツの一種だ」

 咄嗟に空中に浮かんで逃げていた空凪が冷静な声で呟く。

「……建造物の備品の一部をクグツにか。考えたな」

 そんな彼に、屋上から噴き上がるかのように銀色の排気筒が伸び上がった。

「一色くん!!!」

 チカゲは神速で石刀を振るった。

 首を落とされた大蛇のように、通常の状態から数倍にも長く伸びた排気筒がゆっくり倒れる。

 見れば、周囲に幾つも並んでいた排気筒が、いずれも海上に触手を伸ばす伝説の怪物のように、うねうねとうごめいていた。

 

 これが、全部、クグツ。

 

 血の気の引く思いでそれを認識したチカゲは、次の瞬間、もう一つの事実に気付いてしまった。

 ――この排気筒の下には、当然、建物の内部を縦横に這い回る排気ダクトが繋がっているはず。

 ――その、繋がっている建物内部のダクトはどうなっているのだろう。

 

 ぞっとしたその瞬間、二つの排気筒クグツが、一気にチカゲに殺到した。同時に、真後ろの一際大きな排気筒から、膨大な陽炎の発生するような熱風が噴き出し、屋上を薙ぎ払った。

 

「こンのぉっ!!」

 チカゲは、体の周りを一回転させるように石刀を振るった。

 轟雷のような音と共に、衝撃波が発生し、熱気も、排気筒自身も吹き飛ばした。

 ミサイルが着弾したかのような、破壊が生じた。

 ばらばらと、破砕された金属片が散らばる。屋上から吹き飛ばされ、はるか眼下に落ちていく。

 共鳴者たちを火あぶりにするはずだった熱気は払い飛ばされて、屋上の周囲に一瞬陽炎の津波を作ってから四方に霧散した。

 

「はぁっ!! こりゃ凄いね!!!」

 百合子が銃を構えたまま、思わず嘆息する。

 一瞬で、屋上の排気筒はきれいになくなっていた。かちゃり、と音を立てて、どこかで金属片が落下する。

 チカゲの石刀の作り出す破壊に巻き込まれたはずだった空凪も百合子も、傷の一つも負っていない。チカゲの作り出す破壊は、選択的に作用したようだ。

「……宇津。今の技はどうやって出した?」

 空から舞い降りた空凪が、怪訝そうに尋ねた。一体いつの間に、こんな高度な技を、と不審に思うのは人情であろう。

「……わたしも、よく分からない。何とかしなきゃって思った途端に、体が勝手に動いたっていうか」

 記憶をまさぐるように端正な眉をひそめて、チカゲは言葉を選んだ。

 やはり、この「お守りの石」はわたしの凄い力を与えてくれている、と、チカゲは懐の中を意識した。

 

「とにかく、ここにいても仕方ないわ。あの荻窪って子も気付いているってことでしょう。さっさと中に侵入して、終わらせましょ」

 百合子はさっさと気持ちを切り替えて、内部に続く扉を指さした。

 三人の共鳴者が、そっとドアを押し開けて内部に侵入する。

 何かタチの悪い罠でもかかっていないか、空凪のコンパスで確かめたが、特に何ということもなく、彼らは内部にいた。

 

「……だが、おかしいな」

 空凪は、一歩建物内部に侵入した途端に、相変わらずぐるぐる回り続けるコンパスを見下ろしながらそう呟いた。

 扉を入ってすぐ、階段の踊り場に、彼らは一旦腰を落ち着ける。

「クグツの反応が消えない。これじゃ、周り中クグツで押し合い圧し合いしているようなものだが」

「……周り中、クグツなんじゃないのかな」

 チカゲが、ごくっと唾を飲み込んで呟いた。

「……あのさ、あの排気筒って、空調用のダクト、っていうの? そういうのに続いているはずじゃない? 外国の映画で、主人公たちがよく潜り込むあれ」

 チカゲは続ける。

「建物中のダクトが、全部クグツになってるから、その先っちょの排気筒もああなってたんじゃないかな……」

 空凪と百合子が顔を見合わせる。

「……だとしたら……」

「マズイわね。敵にぐるぐる巻きにされてるようなもんよ」

 百合子が階下を見下ろす。

 この病院には、さほど大きくはないが入院施設がある。空調は、完璧だったはずだ。つまり、入念にエアコンのダクトが張り巡らされていた訳で。

「……どこへ行っても、敵のクグツの目の前、ってことか」

 微かに舌打ちして、空凪は眉をひそめた。

「さっきみたいに熱風を送り付けられたりするのかしらね……困ったな」

 百合子も秀麗な眉を寄せている。

 

 ピシッ、という音が響いたのはその時だった。

 

 バン!! と大きな音と共に、チカゲたちの頭上の蛍光灯が弾け、破片が弾丸のように降り注いだ。何故か、空凪に集中している。

「一色く……!」

「止まれ!!」

 不意討ちで破片を浴びせられても、空凪の霊性事物が発動した。

 半ばの破片が、力を失い階下に落下していく。

「……っつ……」

「空凪!? チカゲちゃんも、大丈夫!?」

 百合子が悲鳴を上げた。

「私は……でも、一色くんが」

 全身破片まみれの空凪を、チカゲは青ざめて見つめた。

「大丈夫、大した傷じゃ……」

 空凪は肩に刺さった大きな破片をぐいと取り除いた。シャツに血が滲む。

「一色くん、ごめん、油断してて、わたし……」

「気にするな。油断していたのは俺も同じだ……。だが、俺を主に狙ってきたのは確かなようだな、ふむ……」

 さらりとチカゲの謝罪をいなすと、空凪は難しい顔をした。ふと、何か思いついたように宙を睨む。

「……今、治すね」

 チカゲは手の甲を切ったピリピリする痛みをこらえて、懐から「お守りの石」を取り出した。

 それがぽうっと清浄な蒼い光を放ち、空凪、そして少しばかりの怪我のチカゲと百合子をも包む。彼らの皮膚のあちこちにできた傷が見る間に塞がった。

 あの日、正体を見せた正太郎の攻撃で傷を負った二人を治したのが、この技だ。チカゲの「お守りの石」は、癒しの力をも宿していた。

 

「急になんだってこんなこと……」

「……状況は思っていたより悪いのかも知れないですね」

 ぼやいた百合子に、空凪が低い声で返す。

 

「クグツ化してるのは空調関係だけかと思っていたが……そうではないのかも知れません。コンパスの極端な反応からするに……《《この建物そのものがクグツ化しているのかも》》」

 

 一瞬、チカゲも百合子も言葉を失う。

 自分たちは、敵の体の中にいるのだ。

「……早く荻窪くんのところに行こう」

 チカゲの声は固かった。

「それしかないよ。荻窪くんを終わらせよう。それしかこのことを終わらせる手段はないんだから」

 真剣なチカゲに、空凪はうなずき、百合子も一拍遅れてうなずいた。

「……マスターに助力をと思ったけど、ここに呼んだら街に張った結界が崩れるわね」

「俺たちでやるしかない。幸い、宇津の霊性事物の性能は期待以上で、しかもぐんぐん成長している。こいつに賭けるしかない」

 空凪にじっと見詰められて、チカゲは胸が高鳴るのを感じた。二重の意味での高揚感。

「……大丈夫、だと思う。この石は、私がこうしたいって思うと叶えてくれる。どういう仕組みだか自分でもわからないけど、そうなの。いけるって気がする」

 自分でも予想外に強い声が出て、チカゲは自分の声で落ち着いた。

 

 《《自分がここにいるのに、彼を止められないのでは、何のためのこの力なのだ》》。

 

「行こう」

 繰り返しチカゲは促した。

 共鳴者たちは立ち上がり、地獄へ続いているであろう、埃っぽい階段を降りて行った。