51 迷宮と過去の亡霊

「ひっ……ひやぁぁああああぁぁぁっ!!!」

 

 百合子は心の奥底に眠っていた、生々しい傷を、不意に開かれる。

 我知らず絶叫が口から飛び出している。

 戦うどころではない。

 百合子は頭を抱えて屈み込む。

 

「なるほど、精神攻撃で来たかぁ」

 

 真砂の、のんびりした声が聞こえて、何だか雰囲気が変わる。

 百合子はしまったと思い直し、顔を上げる。

 そこには、市庁舎の古びて煤けた廊下以外、何もない。

 

「え? あれ……」

 

「今のでわかった。あれは、百合子の弟の霊魂体の、コピーだ」

 

 真砂の反対側で、天名が淡々と分析する。

 百合子は思わず彼女を振り向く。

 どういうことだろう。

 

「コピー……」

 

「正確に言えば、魂そのもののコピーではないな。残留思念というやつ、空間に焼き付いた恐怖や苦痛の感情をコピーしてどこかに保存していたのだ。おかしいと思った、あの子供の魂は、確かに曾祖母に頼んで常世の国へ送ったというのに」

 

 ところどころいまいち理解できない百合子であったが、あの亡霊が「本物の」弟の春希本人ではないことは理解できる。

 あれは、弟の影でしかないらしい。

 

「……弟じゃないんですね? 弟は成仏しているんですね?」

 

 百合子は思わず確認する。

 天名はきっぱりうなずく。

 

「安心しろ。成仏という言葉が適当かはともかく、お前の弟の魂そのものは、とっくの昔に安全な場所で安らいでいる。邪教徒ごときには手出しできん。あれは当時の写真を悪用しているようなものだ」

 

 そこまで噛み砕いて説明され、百合子は大きく安堵の吐息を洩らす。

 

「ありがとうございます……よかった」

 

 百合子は、じわっと滲んだ涙を拭う。

 この件が片付いたら、弟の墓参りでもしようと内心で誓う。

 

 そうだ。

 この件を完全に終わらせねばならない。

 自分たちの手で。

 

「……多分、鵜殿はじめ邪教徒の手にかかった人間の残留思念のコピーは取ってあるんだな。何かの時に使えると。今は奴らにとって『何かの時』なのさ」

 

 真砂が軽い口調で付け加える。

 ふと。

 百合子は嫌なことに思い至る。

 

「残留思念のコピーを取ってある……それって、犠牲者だけなんですかね? 滅ぼされた邪教徒っていう連中自身をコピーはしてないですよね?」

 

 思い出してしまったあの事件を、百合子は反芻する。

 鵜殿が大暴れしていた時。

 人間だったはずの奴は、何人にも分裂して街に攻撃を仕掛けて来た。

 あの時もどういうことだと不気味に思っていたが、今ならある程度見当がつく。

 鵜殿は「コピー」されていたのだ。

 兵隊になるような邪教徒は、もしかしてコピーされて、本体が倒された後も「再利用」されるのではなかろうか?

 

 真砂と天名が、不穏な顔を見合わせているのが、百合子の不安をそそる。

 不吉な想像は、考えすぎという訳でもないらしい。

 

「そうそう、あの鵜殿ね。あいつら、何体くらいコピーされてたんだろうな?」

 

 あの時は、被害が収まったからこれで終わりと思ってしまったけど、あの鵜殿くんが16号くらいまでいたらどうなるんだ?

 真砂は、全く笑えない推測を、殊更おちゃらけた口調で投げ込む。

 百合子は、思わず手の中の傾空をぎゅっと掴む。

 

「どこかに保管されていたとしたら、それにアクセスできる権限のある邪教徒がいるかが問題だが……あのあやかし山伏、かなりの権限を与えられて活動していたはずだな」

 

 そもそも、あやつ自身もコピーされているのではないか。

 街中で暴れているのは、あやつのコピーだろう。

 天名が、恐ろしい推理を披露する。

 

 と。

 

「あれ……エレベーター……?」

 

 百合子は、チン、という、エレベーターの稼働を知らせる音に、思わずすぐ脇のエレベーターホールを振り返る。

 

 今の今まで、最上階の五階で停止していたエレベーターが、次第に階を降りてくる表示がなされている。

 四階を瞬時に通り過ぎ、三階、二階。

 

「まずい。エレベーターホールから離れろ」

 

 天名が号令し、彼女ら三人は、エレベーターホールの前から退避。

 玄関ホールに戻る。

 

「ああ、もしかして聞いて……」

 

 真砂が口にした途端。

 

 大音声と共に、玄関ホールに爆風じみた衝撃が吹き荒れたのだった。

 

 

◇ ◆ ◇

 

 

「久しぶりだねって、言うべきだったのかな?」

 

 玄関ホールに、正面玄関から入り込んで来た影。

 それは、あの忍者じみた、鵜殿の姿をしている。

 玄関ホールは、もはや爆撃に遭ったかのようにがれきに覆われている。

 鵜殿は、その剣風を巻き起こした太刀を手にして、ゆっくり内部に入り込み。

 

 視界の端に何か動くものが見えたのと、視界がおかしくなるのは同時だ。

 鵜殿は、自分の視界が、急に低くなったことを訝しむ。

 まるで、急に背が低くなったように。

 視界が更に縦二つに分かれるに至って、鵜殿は自分がどうなっているのかようやく認識する。

 

「そら、消えろゴキブリめ!!」

 

 天名が、飛来した傾空で縦横四つ、もっと切り刻まれた鵜殿の残骸に向かって灼熱の衝撃波を放つ。

 一瞬で、鵜殿のコピーだったものは蒸発する。

 正面玄関から火竜の吐息のように、天名の衝撃波が夜に放たれる。

 

「ふう……多分、この上から降りて来たんだな」

 

 真砂がふわりと玄関から顔を出し、市庁舎の建物を見上げる。

 玄関の庇の脇から見上げる市庁舎は、何事もなく煌々と照明を灯しているのみ。

 

「やはり上階にあやかし山伏や、恐らくあと何体か鵜殿がいるのだろうな」

 

 天名は、恐ろしい破壊を引き起こした扇で、今度は優雅に白い顔を扇ぐ。

 

「エレベーターに乗れば上に……でも、まずいですよね」

 

 待ち伏せされるかも知れないし。

 そもそも、あのエレベーター、ちゃんと上の階に繋がっているんでしょうか?

 百合子は、懸念を吐き出す。

 

「階段を探すしかないねえ。外を飛んでもいいんだけどさ、途中に職員の人たちがいるかも知れない」

 

 真砂が、鵜殿の衝撃を受け止めた雲を縮めて纏い直しながら、寂しげな廊下を指したのだった。