肆の伍 伊邪那美命

 星空を見上げている自分に気付く。

 

 七宝を散りばめたような、見たこともない程美しい星空が、そこにはあった。

 こんなに存在感のある星々は初めて見る。

 吸い寄せられるような星空だ。

 

 しばし言葉もなく星に見入っていた花渡だが、ふと我に返って目を下に下ろした。

 

 周囲の景色は一変していた。

 吹き渡る風と瑠璃紺青の爽快な景色はなく、そこには煌めき渡る星々と、地上のそこここを覆う、幻妖な花園があった。

 

 妖しい青に仄光る、華麗な茨があちこちに繁茂し、小さいが艶麗な花が周囲を照らしていた。

 その周りにはやはり妖美な光を放つ、名も分からぬ花が咲き乱れて、さながら乱立する細工灯籠のようだった。

 

 輝き渡る昼から妖しの夜に。

 

 周りにはすでに両親の姿はなかった。

 花渡は、起こっていることを判断しようとした。

 母親の百合乃は、誰かが自分を呼んでいると言わなかったか。

 ここへ招き寄せたのは、その誰かなのだろうか。

 

 花渡は足元に、小さな玉石を敷き詰めた小道が、さながら花園の間の小川のようにうねりながら続いているのに目を留めた。

 

 どこへ続く道だろう。

 何故かこの道を進まねばならないような気がして、花渡は滑らかな感触を踏み締めながら道を辿った。

 

 しっとりした大気は、甘い花の香りに満ち、ややもすればその場で眠ってしまいたくなる。

 

 しかし、花渡が足を止めなかったのは、歩を進めるごとに強まる確信故だ。

 誰かが自分を呼んでいる。

 

 自分でもあり自分ではない強固な意思が、花渡を前に進ませていた。

 

 あの方に、会いに行かなくてはならない。

 

 あの方とは誰か、を考え始めると、思考の形は指から滑り落ちる。

 しかし、正体が分からないのに、確信はまるで揺らがない。

 既に知っている。

 自分はあの方を知っているのだ。

 

 どれだけ歩いたか、目の前に輝く巨大な磐座《いわくら》が見えてきた。

 

 一際濃い花の香りに包まれ、光を閉じ込めた、大名屋敷程にも巨大な水晶の塊の表面には、妖しく光る蔓花が、艶を競っていた。

 

 花で彩られた岩塊の下には、その磐座と一続きになっているかのような岩の王座が設えられ、そこに人影があった。

 

 それは、人間では有り得ない。

 

 息を呑む美しい女の姿をしていても、その左半身は腐り爛れ、骨の見えたおぞましい屍だ。

 全身にうねうねと、輝く雷光を放つ龍蛇が絡み付き、形容しようのない色彩が閃いている。

 

 美しさとおぞましさ、二つを兼ね備えたその存在はしかし、モノでは有り得なかった。

 

 ――我は伊耶那美なり。

 

 その存在は名乗った。

 

 ――我は汝を選んだ。故に我が治めるこの常世国へと汝を招いた。我が声を聞き、我が願いを全うせよ。

 

 花渡は息を呑み、それから思い切って口を開いた。

 

「伊耶那美よ。常世の神よ。あなたの願いとは何か。私は何をすれば良いのか?」

 

 母が生涯をかけて仕えた古の女神が目の前にいる。

 その感動は大きすぎて認識すら覚束ない。

 ただ、自分を強く突き上げる使命感は感じていた。

 

 ――汝、未だ死すべきに非ず。現世は汝が救いを待つ。

 

 はっとした。

 あの手の付けられぬ混乱の最中にある現世で、自分にはすることがあるのだろうか。

 あの寂れた、母と暮らした神社と、それが背後に抱える町の、普段の賑やかさが思い浮かぶ。自分がそれらを守る術があるのか。

 

「江戸はどうなる? あなたが女神だと言うなら、江戸を守ってくれ!」

 

 ――我が江戸を守るには、汝が必要だ。花渡よ、我が娘よ、江戸を守れ。

 

 花渡は訳が分からなかった。

 

「私が必要? どういうことなのだ!?」

 

 ――我が江戸に置きし分霊《わけみたま》は、既に封じられている。我が神威を生まれながらに受けし汝の命も断たれている。

 

 伊耶那美は静かに口にした。

 億年の時の彼方から響いてくるかのような、あまりにも深い声で。

 

 ――しかるに、汝の身に我が分霊を封じるならば、それが汝が新たな命となり、汝は甦り、我が神威は江戸に満ちるであろう。

 ――汝は人に非ず、人の肉身を借りた神となるであろう。

 

 花渡は知っていた。

 

 通常、神社に祀られるご神体には、神の分霊が勧請される。

 神の魂の一部を招いて、その神威で崇める者たちに恵みをもたらすのだ。

 言わば太陽のような大きな火種から、松明や蝋燭のようなものに同じ火を移すようなもの。

 

 神の魂を封じるのは、通常聖なる物品だ。

 しかし、人間にそれを移す?

 

「私が神の……伊耶那美命の化身となって、現世で戦うと言うのか」

 

 前例がない訳ではない。

 例えば天照大御神の霊をその身に降ろして、長年の放浪の末、伊勢を見出だした古の倭姫《やまとひめ》。

 

 ――我が御霊と汝が一つとなって、現世の守りとなる。この先、この世の果てるまで、汝は神の化身として生きる。

 ――伊耶那美が佐々木花渡となり、佐々木花渡は伊耶那美となる。

 

 伊耶那美はふうっと笑った。

 ふわりと宙に浮き、花渡の上に浮かぶ。

 真っ白な花びらのような右腕と死そのもののような左腕が伸び、母のような優しさで花渡の頬に触れた。

 

 そうだ。

 伊耶那美は「死」そのものなのだ。

 そして生でもある。

 殯《もがり》の窟《いわや》に手向けられた花であり、裁きの雷でもある。

 生き物の根元的恐怖であり、だからこそ全ての生きとし生けるものが頭を垂れねばならぬ神なのだ。

 

 何ということもない。自分は、生まれた時から、この女神と共にあったのだ。

 

「あなた様に従い申します。私を現世へ帰して下され。あなた様のために、いや、あなた様ご自身として戦いましょう」

 

 きっぱりとした花渡の言葉に、死と冥府の女神は嬉しげに微笑んだ。

 視界が輝き、光の洪水が花渡と伊耶那美を一つにした。