参の弐 地獄の牛鬼

 ふと。

 

 何かが聞こえた気がして、花渡は首をもたげた。

 

 風の音ではない。

 何となく人の悲鳴のようにも聞こえる尾を引く声。

 

 起き上がる。

 首筋から背中にかけてぞわりとする。

 この感覚が、今のが単なる錯覚ではないことを教えてくれる。

 五感を超えたこの感覚があったからこそ、花渡は今日まで生き延びたのだから。

 

 ずしん、と地面が揺れた。

 地震ではない。

 継続しない。

 

 花渡は跳ね起きた。

 手早く寝巻きの単《ひとえ》を脱ぎ、枕元に用意してあった派手な若衆装束に着替える。

 

 背中に神刀をくくりつけた時、雨戸を乱暴に叩く音が聞こえた。

 

「おい! 佐々木の! 剣客! 起きろ! モノだ! モノが出た!」

 

 花渡はガタピシ鳴る雨戸を引き開けた。

 いたのは、同じ長屋に住む職人の男だ。髷を振り乱し、数打ちの刀を抜き身で持っている。

 

「モノだと!? どんなヤツだ!」

 

「屍《しかばね》だ。|髑髏鬼《どくろおに》がワラワラ出やがった。それと、何なのか分からねえ、馬鹿でかいのが……表の通りで、一人踏み潰された。手に負えねえ、何とかしてくれ!! ……ひっ!」

 

 男の視線の先に目をやると、斑の闇の中に、ぼんやりと浮かび上がる、白いおぞましい影があった。

 

 長屋のある裏路地の、入り口を塞ぐように数体の、自ら動く真っ白な骸骨がいた。

 

 髑髏鬼《どくろおに》。

 

 既に白い骨と化した屍が、自ら動き回るモノだ。

 まだ血肉が残る屍が動く走屍や、実体なき亡魂そのものである幽鬼とは、また違う。

 本来なら自ら動く力をなくしたはずの骨が、一揃いに繋がって動き回る髑髏鬼には、それだけ強い力が働いているという。

 並みの人間には、かなりの強敵だ。

 

「どいてろ!」

 

 すくんでいる男を突き退け、花渡は髑髏鬼の群れに向けて走った。

 髑髏鬼どもの隙間だらけの手の中には錆び刀。

 誰が持たせたのだろうと、疑問に思う間もなく。

 

 ひゅん!

 と銀光が横薙ぎに走った。

 

 巌流剣術が一つ、虎切剣《こせつけん》。

 

 水平に走った剣の軌跡は、狭い路地いっぱいに広がった。

 逃れる間も隙もなく、前にいた髑髏鬼が二体程、横真っ二つに両断されて骨の山と化した。

 続いて返す刀で反対方向からの横薙ぎ。

 骨ごと斬られたモノが消滅し、残りの髑髏鬼どももバラバラの骨の残骸に帰した。

 

 よし、いいぞ、と花渡は内心頷いた。

 この冥府の女神の神威の宿る神刀は、モノ一般には勿論、生死の理を曲げる邪悪な力によって動かされる屍や死霊の類いには特に威力を発揮する。

 確かでかいのがいたとかいう話だが、そいつも屍の類なら、あっさり片付けられるかも知れない。

 

 花渡は表通りに走り出た。

 息を呑む。

 

 道幅の大部分を占めている巨大な影が、叢雲に半ば隠された月に照らし出されていた。

 

 敢えて例えるなら、二本足で立ち上がった牛に似ている。

 やや前屈みになっていても、無数の鬼火のような目の付いた頭は、表通りの商家の二階の屋根に達している。

 

 毛皮ではなく油を塗った革のようにぬめる表面は腐ったように青黒く、巨大な全身には巨木の根のようなうねくる筋肉が巻き付いている。

 頭の両端からは、曲がった図太い角が二本生えており、その先端には蒼白い陰火がまとわり付いていた。

 蹄に当たるものは、分厚い奇妙な形の刃物のように伸び、尻尾は無数の蛭のように分かれ、別の意思があるかのようにのたくっている。

 ぷんと漂う、重病人の死骸のようなすえた臭い。

 

 これは何だ。

 

 花渡の頭に疑問が渦巻く。

 今まで無数にモノを斬ってきたが、一度たりとも見たことのない種類のモノだった。

 

 そもそもおかしい。

 巷間伝え聞くところによると、江戸は初めから、モノの被害を最小限に留めるため、地形や寺社仏閣を余人には与り知らぬ秘術を施すために入念に配置し、神仏の聖なる力で堅固に守られた町ではなかったのか。

 人の日々の暮らしに貼り付いた下級のモノは取りこぼしてしまうようだが、その代わりに町そのものをどうにかしてしまうような、力の強いモノはどうやっても入って来られないはずだ。

 それを知って、モノの被害の甚大な地域から、わざわざ江戸に逃げ込む民草も後を断たないというのに。

 

 ばもぅうぅぅぅ!!!

 

 モノが吼えた。

 

 見れば周りには遠巻きに刀を構えた近隣住人が見えた。

 しかし、当然のことながら、誰一人刀が届く距離まで進もうとはしない。

 これだけでかくて分厚いと、人間が振るうような武器で致命傷など与えられるはずもないのだ。

 

 モノが、ぶんと前肢を振った。

 一番近くにいた若い武士が、蹄の直撃を受けて吹っ飛んだ。

 血を撒き散らしながらその体が側の商家の壁を砕いて突っ込み、悲鳴も上げずに動かなくなる。

 

 誰かが、どうすりゃいいんだと叫んだ。

 現実的に考えるなら、火縄銃。

 刀の間合いが届かなくとも、離れた場所から一斉射撃すれば、あるいは致命傷を与えることが出来るかも知れない。

 しかし、江戸にある火縄銃は限られている。江戸城以外には、限られた大名屋敷にしかない。

 別の可能性もある。高度なモノになると、並みの刃や弾丸が通じないのもいると聞く。

 どういう理屈か花渡には分からないが、人間同士の戦いのような訳にはいかないらしいのだ。

 

 モノが、再び夜空に吼えた。

 

「おい、デカブツ! こっちだ!!」

 

 花渡は挑発しつつ前に進み出た。

 例え並みの刀や弾丸が通じないモノであったとしても関係ない。

 花渡が振るうは神刀。

 モノの怪しい力など、その込められた神威の前では無力だ。

 

 モノが花渡を無数の目で捉えた。

 大きく動いた拍子に蹄が脇の商家の庇にぶち当たり、砕けた木片と瓦の残骸を散らした。

 振り上げた前肢が、大岩のように降ってきて――

 

 神刀一閃。

 

 絶叫が上がった。

 人間で言うなら前腕半ばで断ち斬られた前肢が、ずしん! と音を立てて地べたに転がった。

 

 青黒い、恐らく血に当たるものを滝のように撒き散らしながら、モノはたたらを踏んだ。

 苦痛の悲鳴を上げて尚、闘志の衰えないらしいモノは、今度は反対の前肢をがむしゃらに振り回した。

 

 前肢が片方無いことで体勢が崩れ、前肢で花渡を押し潰すような形になったのを、風に押された花びらのようにするりと避ける。

 同時に、地べたに着いた残りの前肢に、神刀を走らせた。

 

 再度の咆哮、そして前肢が肘の下に当たる部分から断ち斬られ、モノは自らの重みでずるりと滑った。

 

 地響き。

 

 花渡の目の前に、大きな炉に無数の穴を開けたように見える、モノの頭があった。

 掲げられた松明のように、陰火に包まれた角が屹立している。

 

 自らの流した青黒い血にまみれながら、モノはまだ動く。

 くわっと口を開いた。

 日の光の下で見たなら淡い紫色だろう口の奥に、角にまとわりついているのに似た渦巻く炎があった。

 

 咄嗟に花渡は横っ飛びする。

 花渡が一瞬前までいた場所を、人間くらいあるねっとりした炎の弾のようなものが薙ぎ払って行った。

 はるか後ろの地面にぶつかり、大砲の弾のように爆発する。

 上がった炎が月を焦がした。

 

 花渡は、モノのばかでかい頭を回り込んだ。

 燃える角の後ろ、小山のように盛り上がった肩の前で、花渡は神刀を真上から降り下ろした――ねじくれた首筋に向けて。

 

 穢れた血が噴出し、花渡を濡らした。

 悲鳴は上がらなかった。ただふいごのような吐息が断末魔だ。

 

 巨大な首が半ばちぎれて、地べたに落ちる。

 見る間にその体は、熱した鉄瓶の底に残った湯のように、縮み消えて行こうとする。

 

 花渡の若衆小袖が吸った血も、あれよという間に乾いた。いや、消え失せた。

 

 魔を葬った剣客は、雲間から完全に顔を出した月を仰ぎ、ふう、と溜め息をついた。