弐の弐 隠密と秘密

 畳を蹴り一挙動で立ち上がり、花渡は千春の首根っこを押さえ付けようとする。

 緋色の颶風のように、花渡の袖が渦を巻いて千春の首に巻き付こうとした。

 

 だが、千春の動きは人間離れしていた。

 座った姿勢から、弾かれたように花渡の勢いを利用して宙に舞った。

 その肩を捕まえ勢いに任せて前転したのだ。

 くるりと小柄な体を捻り、花渡の背後を取った。つんのめった花渡は無防備に畳に手をついた。

 

「……お姉さん、案外大雑把……」

 

「その動き、間違いない、お前、隠密としての鍛練を受けているな?」

 

 花渡はゆっくり立ち上がった。

 千春は円《つぶ》らな目を見開いて何も言わない。

 

「以前に戦ったことがある。流石に強敵だったが、恐らくお前程ではあるまいな。お前、江戸言葉だな。ということは、もしや公儀隠密《こうぎおんみつ》なのか?」

 

 通常なら、いささか首を捻る推理である。

 

 もしも千春が公儀隠密の家に生まれついたとしても、十二かそこいらで、実際のお勤めに駆り出されるはずもない。

 それに加え、公儀隠密を使えるのは、将軍、もしくはその許しを受けた近しい幕閣くらいであろう。

 

 非常識過ぎるが……この推理が当たっているなら、大分「主」の正体が絞られる。

 

「うーん。ごめん、お姉さんを甘く見てたかも。戦いの腕じゃなくて、色々と明らかにする頭の使い方を」

 

 千春はとんとんと自らの肩を叩いた。

 大儀だったと言いたいのかも知れない。

 

「まあ、誤魔化してもしょうがないから言うけど、確かに隠密の鍛練は受けたよ。少なくとも今は『公儀隠密』という肩書きではないけどね」

 

 千春はぽりぽりと頭を掻く。

 

「『今は』……? 以前はそうだったという風に聞こえるが?」

 

 こんな子供に以前も何もないが、言葉を額面通りに取るなら「以前」もあったということになる。

 

 花渡はこぼれてしまった茶を拭き、元の座布団に戻った。

 千春も何事もなかったように元の位置に収まる。

 

「……解せんな」

 

「あはは、まあ、そうだよねえ」

 

 千春は呑気に笑う。

 

「お前の言う私を召し抱えたいお方というのは、江戸の者なのか」

 

「うん。この件に応じても、とんでもなく遠くへ行かされる、なんてないから安心して」

 

「なら国持ちの大名ではないな? 江戸城におわします方か」

 

 将軍本人か、或いはその周辺のごく一握りの幕閣か。

 ならば、花渡の命を狙う黒幕をも牽制できるというのも頷ける。

 

 しかし――いくら何でも、納得は出来ない。

 

 それ程の地位にある者が、こんな子供を使いに寄越すだろうか。

 二本差しの、それなりに威儀の張った幕臣か、例え隠密であってもそれなりの年齢を重ねた者を送り込まなくては、信頼感も何もない。

 表沙汰に出来ぬ仕事とも言っていた。

 こんな子供を駒として使う程の、それは常識はずれのご奉公、ということか。

 

 歳の割に、色々と経験している自覚はあるが。

 それでも、さっぱり見当が付かない。

 

「うーん、ごめん、その辺りの詳しいことも、あんまり話してはいけないことになってるんだ。ちょっとでも話したら、本当はこんなところで話しちゃいけない大事も、話さなくてはならなくなるからねえ」

 

 のらりくらりと、千春はかわす。

 

「要領を得んな。どんなご奉公か分からないのなら、返事のしようもないではないか」

 

 どうやら江戸城に関わる仕事である他には、何の中身も提示されないのでは、花渡としても応じかねる話だ。むしろ疑念が強まっていく。

 

「あー。そうだよねえ。それにあたしじゃご公儀って感じじゃないものねえ。他の奴、連れて来れば良かったかなあ。それっぽい奴もいるんだけどねえ」

 

 ……どうやら、他にも同輩らしきものもいるらしい。ますます分からない。

 

「……それらしい奴もいるのなら、何故お前の主はお前を寄越した」

 

「あたしが忍だから」

 

 しれっと、千春は答えた。

 

「前から見てたよ、お姉さんのこと。知らなかったでしょ? ……強いんだね。うん、強ければ強い程いいんだから」

 

 何かを一人合点して頷く千春を、花渡は胡乱な顔で眺めた。

 こんな年頃の子供が務める公儀の「お役目」。

 一体どんなものなのか、いくら考えても分からない。

 

「……ねえ。お姉さん。あたしたちには、お姉さんの力が必要なの。話だけでも、聞きに来てくれない?」

 

 千春が一転、真剣な表情になった。

 何かが花渡に引っ掛かる。

 千春の目の中にある、案じる気配に。

 

「話だけなら、か」

 

 表沙汰に出来ない公儀の仕事。

 断ったら始末されるというのだろう。

 無論、そもそも話を聞かない、という選択も、選択肢にはないのかも知れない。

 

「近い内に、主からの正式な招きがあると思う。その時に全部話すよ」

 

 と、千春は立ち上がった。

 

「……お姉さんさ。さっき手加減したよね?」

 

「何の話だ」

 

「あたしの動きを見極めるために、押さえ込みにきた時。本当はもっと速く動けるんだよね? あーんな長い刀、すっごい速さで振り回すのに、何にも持ってない時にあんなに遅い訳ないもんね」

 

 してやったりと言いたげな、千春の顔つき。

 花渡は目を細めてフッと笑った。

 

「本当はあたしをくびり殺せたんだ……ま、あたしにも対抗手段てやつがあるけどね……えっへっへ」

 

 知りたい? 知りたいでしょ? と言わんばかりの千春に、花渡は苦笑を返した。

 

「良かろう。その主とやらにお招きいただいたら、お前のあれこれも聞かせてもらおう」

 

 厄介事は、生まれつき巻き込まれているので十分だが、この娘が持ってきた用件には既に巻き込まれていたようだ。

 恐らくしばらく前から監視されていたのを、不覚にも気付かなかったのは、千春の腕前だろう。

 不愉快だが、一概に不本意とは言えない。

 生まれつき付きまとわれている敵が消え去る機会かも知れないからだ。

 

 

「お姉さんに、あたしのあれこれ知ってもらいたいな! あたしもお姉さんのこと知りたい。表向きのことは大体調べたけど、ほら、そういうことじゃなくて、普段何考えているかとか」

 

 去り際。

 玄関先で、千春はきらきらした目で花渡を見た。

 

 花渡は更に苦笑する。

 この娘は、成長したらさぞや立派な男たらしになれるだろう。

 いや、女の忍はそれで良いのだったか。

 

「じゃあ、ね!」

 

 振られた小さな手に、花渡は同じ仕草を返した。