36 トレヴァーを追って

「『宙の渦』はまだ開かないのか!! もう奴らが追いついて来るぞ!!」

 

妖精郷の様式の、繊細な飛空船の上で、トレヴァーは叫ぶ。

 一見、何もない夜の海の上。

 いや、傍に小さな岩礁のようなものは見えるが、少し距離がある。

 よくよく見ると、岩礁のすぐ上の空間に、波の反射とは違う、ゆらゆら小さな銀河のように回転する光が見えるが、今にも消えそうだ。

 周りには、沈みかけの月に照らされた海の波がちらちら光るばかり。

 妖精の帆船は、優雅な曲線で構成され、ところどころに夜光石のランプが吊るされている。

 

 立ち働く妖精の船員の中で、トレヴァーの貴族的な衣装は目立つ。

 地位の高い妖精のための、背中に翅を出すスリットの入った、きらびやかな銀のフロックコート。

 月長石を銀の飾り枠で彩ったかのような翅。

 有力者というイメージからはかけ離れているくらいに若く見えるのが、いかにも妖精だ。

 根元が金色で、先端が銀色の髪は美しく、それにふさわしい繊細な美男、なのだが。

 

「ええい、『妖精の輪』を展開しろ、強引に『封印の島』に突入するぞ!!」

 

 トレヴァーは船員たちに怒鳴り散らす。

 どこか怯えたような船員たちは、この船の持ち主兼船長であるトレヴァーの、無茶な要求に身を縮こめるばかり。

 

「トレヴァー様。だいぶお困りのようですね」

 

 ふと。

 背後から、明滅する妖精の灯に照らされて、不思議な人影が進み出てくる。

 

「『宙の渦』は不安定ですからね。この分では当分開かないのではありますまいか」

 

 その人影は、奇妙な衣装の大柄なである。

 トレヴァーが日本の文化に詳しかったら、それが山伏のいでたちだと気付いたかも知れない。

 ただし、顔の前に紙垂を幾重にも垂らして顔貌が窺えず、どういう男かはわからない。

 錫杖によりかかり、悠然と。

 彼は、青紫色のゆらゆらした人魂を三つほど、従えている。

 

「お前は、『宙の渦』に出入りできるのではないか!? 何とかしろ、この船ごと侵入するのだ!!」

 

 トレヴァーが噛み付くように命じる。

 

「それも考えましたがね。あなたがもう少し有能だったら――と、私の『本当の主』が」

 

 山伏の低いが妙に耳につく声に、トレヴァーは目を剥く。

 

「お前の主だと……まさか今更になって」

 

「ええ。あなたは今までよく頑張ってくださいました。もっと犠牲の規模が大きければ言うことはなかったのですが、まあ、こんなところでしょうと」

 

 山伏がくすくす笑うのが聞こえる。

 

「裏切るだと、貴様、あやかし、そんなことをすれば……」

 

「どうなると? 『神封じの石』を持っているのは、本当の主の方だ、あなたがどうこうできるとでも?」

 

 言葉を失って呆然とするトレヴァーを取り囲むようにくつくつとあやかしと呼ばれた山伏の笑い声が響く。

 

「まあ、もうすぐあなたの待ち人はおいでになりますよ。じっくり話し合えば、命くらいは助けてくれるかも知れません」

 

 ま、国土にこんなことをされた妖精王と妖精女王の方は、どうかわかりませんがね。

 その言葉がトレヴァーの脳裏に届く前に、あやかしはふわりと、何の支えもなく宙に浮きあがる。

 その周囲を、人魂がぐるぐると巡り、その炎が大きくなり――

 

「……やられた……そんな……」

 

 トレヴァーは呆然とするしかない。

 

 と。

 

「トレヴァー様、船が近づいてきます!!」

 

 誰かが叫ぶ。

 

 はっとしたトレヴァーは、船尾の方、つまり陸地があった方を見る。

 そこには、夜闇にも真っ白く帆を膨らませた、見慣れぬ様式の飛空船が、高速で近づいて来るところである。

 

「撃て、『妖精の矢』を……」

 

 トレヴァーが叫んだ瞬間。

 いきなり、彼の船の周囲に、真昼のように輝く分厚い雲が押し寄せ、繭のように船を包んでしまったのだ。

 

 

◇ ◆ ◇

 

 

「おい……?」

 

 トレヴァーは船を包む雲に呆然とするが、それ以上に、船員たちの様子にうろたえる。

 全員、まるで麻酔薬でも嗅がされたような急激さで、その場で眠り込んでしまったのだ。

 甲板にはごろごろと、眠りこける妖精たちの無防備な姿。

 

「やあ、あなたがトレヴァー?」

 

 急に陽気な女の声が聞こえて、トレヴァーははっと振り向く。

 船の手すりのすぐ外側、渦巻く雲の中から、不思議な女の姿がにじみ出て来たのだ。

 鉱物のような髪や皮膚に、渦巻く雲と同じような、輝く雲を纏う。

 トレヴァーはピンと来る。

 この女が、この雲を操っている。

 

「貴様らか、キノコ獣を浄化して回っているという……!!」

 

 トレヴァーは、手の中にどこからともなく、ガラス細工の壺のようなものを取り出す。

 砂糖でも入っていそうな小粋さであるが、そんな可愛らしいものではないのは、ずるりとそこからこぼれたもので明らかである。

 

崩れたなめこか何かのように見えるそれが、甲板の木材にふれた途端、甲板一面に、何か人の戯画のような奇怪なものが伸び始める。

 

 ――キノコ獣だ。

 

 雲の女、真砂は空中で眉をひそめる。

 

 奇怪なホラー映画のように、見る間に成長したキノコが割れ、中からキノコ獣が伸び上がった途端。

 

「なんだ……おい……?」

 

 まるで見えない炎で燃やし尽くしたように、キノコ獣が塵のようにぼろぼろ崩れていく。

 瞬き一つ二つの間に、甲板一面のキノコ獣は塵に帰って、廃墟の砂のように、一面を埋め尽くす。

 

「……俺に『月の刃』がある限り、お前は無力だ……。説明する間もなかったがな……」

 

 いつの間にか、トレヴァーの前に、華麗なレイピアを構えた若い妖精が降り立つ。

 

 激痛。

 

「あああ……っ!!!」

 

 トレヴァーは、右腕を押さえる。

 一瞬で、トレヴァーの右腕は、そのキノコ獣を生み出す壺ごと切り落とされたのだ。

 

「グレイディ!! 気持ちはわかるが、殺すな!!」

 

 褐色の角のある異国の人外が、グレイディの腕を押さえている。

 

「妖精王のもとに連行して、尋問するんだ。今は殺すな」

 

 グレイディが唇を噛む後ろで。

 雲から、真紅の翼の天狗、巨大な手裏剣を弄ぶ神器使い、輝く鏡を角に掲げるエキゾチックな人外、輝く太刀を持つ武士、そして場違いなくらい暢気な海鳥が、姿を現したのだった。