「……マイリーヤ!! マイリーヤ!!」
がくがくと、誰かに体を揺さぶられているのに気付き、マイリーヤは、はっと我に返った。
目の前に見えるのは、浅黒い肌に緋色の髪の蛇魅族――見慣れた、あの、ゼーベルだった。
彼の、まさに蛇型の縦長の瞳は、恐怖に細くなっている。
――マイリーヤがどうにかしてしまったのではないかという、心配の表情だと気付いた彼女は、じんわりと喜びと安堵が溢れだす。
あの、悪夢の中の「ゼーベルの姿をした何か」ではない。
彼はゼーベル本人だ。
「なあ、大丈夫か? 俺が誰か分かるか?」
顔を間近で覗き込まれて、何だか照れくさくなってから、マイリーヤは気付く。
自分が涙を流しているということを。
周りは、石造りのそこそこ広い部屋だった。
星暦時代の霊宝族様式というのか、壁面に恐らく宗教的意味があるのであろう古雅な彫刻が施された、その部屋。
一隅に、設置された機械らしきものが、この遺跡の「核《コア》」であろう。
仲間たちは、ちゃんと五人いる。
誰もが心配そうに、マイリーヤを覗き込んでいる。
さきほどまでの孤独を感じさせずにいてくれた人物――親友のイティキラと、姉貴分のレルシェントの気遣わし気な顔を見て、彼女たちを思い出さなかった自分の思考に、マイリーヤは不気味さすら感じた。
その背後のジーニック、そしてオディラギアスは、マイリーヤに何があったのか知りたそうだった。
彼らと自分の間辺りで、何度も見た例の悪夢(ナイトメア)型古魔獣が、ずるずると溶けていく。一際大きなところを見ると、ここの最終的な守護者のような存在だったのか。
「……ゼーベル?」
何か言いたくて、でも、何と言っていいか分からなくて、マイリーヤはただ、目の前のひとの名前を呼ぶ。
……わずかの間に好きになった、その響き。
「一体、おめえ、何を見たんだ? 俺の名前を叫びながら泣き出すから、どうしたのかと思ったぜ? それでも、あのバケモノのドタマ吹っ飛ばしたのは、大したもんだが」
ゼーベルがそんな風に水を向けると、マイリーヤはわずかに戸惑った。
「今思うとおかしいんだけど……昔のフォーリューン村の幻を見せられてた」
「昔の?」
それが自分とどう繋がるのだ。
ゼーベルは先を促した。
「父さんとか母さんとか、近所のおじさんおばさんたちが、ボクのこといらないって言う、怖い幻を見せられて……」
「おめえの親父さんとお袋さんが、おめえを? まさか。そんな人らじゃねえだろ?」
しれっと、呆気なく否定されたその言葉に、マイリーヤは確かに、あれは悪夢でしかなかったのだと納得する。
頭の霧が晴れて、現実がにわかにクローズアップする。
「あの、悪夢(ナイトメア)型の怖いところはそこなのよ。人の心の、傷とは言えないような傷――些細な疑いや不安、そういったものを無理やり押し広げて、さもありそうな恐怖の幻を心の中に送り込んで、相手を操るの」
レルシェントは溜息をついた。
これは我が種族の恥となることだけど、と前置きして、
「昔、それを悪用しまくった魔術師がいてね。沢山の罪なき人を悪夢に捉えて奴隷化した。あまりに酷い被害をもたらしたから、それ以来悪夢(ナイトメア)型は厳重に製造や使用が規制されることになったのよ」
何を見せられても、奴らが見せてくるものは、普段なら意識にも上らないような些細な不安をグロテスクに拡大した幻覚なのよ、とレルシェントは付け加えた。
すらすらと、筋道立てて説明されて、マイリーヤは納得する。
確かに。
自分は両親を呆れさせているのではないか、という漠然とした不安を、無限大に拡大すると、ああいう形になるだろう。
元の世界で言うなら、心を病んだ人物の見る悪夢に近いのかも知れない。
「なあ。なんでおめえ、そういう状況で、俺の名前呼んで泣いてたんだ? 俺、そこまでおめえを怖がらせるような、酷いことしたか?」
困惑しきった表情で、ゼーベルが尋ねてきた。
本気で分からないようだ。
もじもじと。
顔を赤らめてうつむき、マイリーヤは切り出した。
「……ゼーベルが、女の人といたのを見たんだ。スフェイバの街で」
「……はっ!?」
ゼーベルは、何を言われているか理解できずにきょとんとする。
「蛇魅族で、鱗が雪みたいに白い、きれいなひとだった。なんか、もうすぐ結婚しそうな感じの……」
「ちょ……ちょっと待てぃ!!」
ゼーベルは目を白黒させる。
「俺、そんな相手いねえぞ!? 大体、スフェイバの街でおめえらと会ったのは、来て三日目くらいなんだぞ!? 荷ほどきも完全に終わってねえよ!! 知り合いなんかできるかっ!! まして、そんな間柄の女なんか!!」
マイリーヤはじーっと、ゼーベルを見た。
「……元住んでた……バウリってところに、そういうひとは……」
「いねえって!! ああもう、どう言やいいんだ!! 勤務先のバウリの王宮ってのは、王族同士の仲が極めつけに悪くて緊張してたんだ!! オディラギアス様に護衛のために貼り付きっぱなしで、女作る暇なんかねえよ!!」
多少当たり障りのない言い方に直してあるが、現王の後継者を巡っては、陰険極まる権力闘争が繰り広げられていた。
兄弟間で暗殺が行われることもままあったくらいだ。
オディラギアスは、蔑まれるべき白い鱗を持ちながら、目覚ましい才覚を持っていた。
煙たがっていた兄弟は多い。
暗殺を警戒し、ゼーベルは緊張を緩める暇もなかった。
「マイリーヤ」
苦笑を浮かべた顔で、オディラギアスが割って入ってきた。
「私が、ルゼロス王国第八王子の名誉にかけて保証するが、ゼーベルに女などいないぞ。少なくとも、ここ二年くらいは、私の供をする以外の用事で、王宮の外にも出ていないくらいだ。女と親密になど、なりようがない」
まじまじとオディラギアスの顔を見て、マイリーヤはゼーベルを改めて見詰めた。
「ほんとうに……」
「マジだっての……ああ……その、それじゃおめえ……」
そっと、浅黒い手を伸ばして、ゼーベルはマイリーヤのアッシュブラウンの柔らかそうな髪に触れた。
「……俺に女がいると思って、悲しくて泣いてたのか……」
こく、と、マイリーヤは恥ずかし気にうなずく。
「そうか……俺をそういう風に思ってくれていたのか……」
一瞬だけ躊躇して、ゼーベルは思い切ったように、彼女の華奢な肩を抱き寄せた。
「すまねえ。今まで気付いてやれなくて、本当にすまねえ……」
ぎゅうっと抱き寄せると、マイリーヤは彼にしがみつき、細くて静かな声ですすり泣き始めた。
「さて、マイリーヤのケアはゼーベルさんに任せて、あたくしたちは、眠った遺跡の起動にとりかかった方が良さそうですわね?」
声をひそめ目配せをして、レルシェントは彼ら以外の一行を、核である思考機械の前に呼び寄せた。
「ええっと。どうするんでやすか? 命令すれば聞いてくれるんでやすかね?」
同じく声をひそめて、ジーニックが思考機械とレルシェントの間に視線をさまよわせた。
レルシェントは首を横に振る。
「いいえ、多分、それだけでは駄目ですわ。まず、この遺跡には、スフェイバと同様にAIが搭載されているはず。それを覚醒させないと」
AIが眠っていて、外部からの命令を受け付けないから、ここは眠れる遺跡と呼ばれているようですわね、と説明すると、オディラギアスが難しい顔を見せた。
「……どうすれば起こせる?」
「死んでいる訳ではなく、眠っているだけですから、最低限の機能は稼働していますわ。それを介して……」
「ねえ。レルシェ」
不意に、イティキラが壁際の丸い突起に触れた。
「AIってさ、あのケケレリゼみたいなやつ? このカプセルん中に入ってるコレじゃない? なんかこれ、子供みたいなのが入ってるよ?」
かりかりと前肢で金属の曲面に触れるイティキラに、一行は思わず顔を見合せ。
彼女の後ろから、それを覗き込んだのだった。