『恐れ入ります、姫様。実は、火急にお耳に入れたいことが二つございまして』
スマホの向こう、道了薩埵の声は、恐怖と緊張を必死に抑えているかのような、ただならぬ響きを帯びている。
アマネは怪訝な表情を浮かべる。
電話の向こう、道了薩埵の背後では、明らかにそれなりの人数が騒々しく行きかっているような音が断続的に響く。
時折混じる、何かを荒っぽく確認しあっているような怒鳴り声。
エヴリーヌはもちろん、闇路も、アマネと道了薩埵のやり取りに注意を向けている。
相変らずビル風吹きすさぶ屋上は、電話するには不向きであるが、それでも折り返しかけ直す訳にはいかない緊迫感がある。
「道了薩埵。どういうことだ。妙にざわついているようだが、何があった」
アマネはぴしりと発言を促す。
涼に何かあったのだろうか。
しかし、道了薩埵のいる箱根の山奥、現世と隔絶された人外だけの世界――一種の異界である――は、恐らく世界屈指の安全な場所であるはず。
襲撃されただの、そういったことは考えにくいのであるが。
『それが……実は、お預かり申し上げていた、あの人間の若造のことなのですが』
「涼に何かあったのか」
アマネの言葉が耳に入るや否や、風のように闇路が近付いて来る。
流石にスマホをむしり取りはしなかったが、体温が感じ取れるほどに近付いて、聞き耳を立てている。
『まず、あの若造、完全な人間ではございませんでした。調べ上げた結果、いささか「細工」されているようでして』
「涼が『細工』されている、だと? 具体的にどう『細工』されているというのだ」
アマネは、闇路と、そしてエヴリーヌにも聞こえるように、道了薩埵の発言を反復する。
エヴリーヌもたまりかねたように近付く。
『あの涼なる若造、元々は生粋の人外ですな。恐らく、魂だけを元々の肉体からひっぺがして、別の人工的に作り上げたと思しい、人間の肉体に押し込んであるのでございます。そういう「細工」の跡が』
「涼の魂を元の人外の体からひっぺがした上で、後から創り上げた人間の肉体に押し込めた……その衝撃で、涼は記憶がなくなり、一見まるっきりの人間みたいに見えていたという訳か。ややこしい細工をしおって。涼はそこにいるか」
息を呑む闇路にちらと視線を走らせ、アマネは道了薩埵にその質問を放つ。
人外は人間とはいささか違い、記憶は魂に属する。
不自然な「細工」に痛めつけられたとしても、魂そのものを元の状態に戻してやれば、記憶は戻ってくるはずである。
涼自身は交通事故で記憶がと言っていたが、実際にはそれもニセの記憶で、本当は恒果羅刹に記憶を封じ込める術の類をかけられたのであろう。
『は……そのことなのですが。姫様。誠に申し訳ございません』
道了薩埵が電話の向こうで委縮した様子を感じ取り、アマネは暗雲のように嫌な予感が広がるのを感じる。
「どうした、涼は、まさかそこにいないというのか!? 何があったのだ」
天狗の異界、天狗道は、天狗と関係ない者が外から侵入しようにも、それを許さぬ特殊な仕組みがある。
天狗の血を引く者以外に、入口を見つけられないのである。
わずかな例外が、天狗に誘われて一緒に入ることを許された人間や人外。
『見張りを付けておいたにもかかわらず、わずかの間に、忽然と消えておりました。見張りは昏倒しており……今、手の者に周囲を探させておりますが、全く消息が掴めず……誠に何とお詫びして良いやら』
「何者かが外部から侵入した可能性は低い。ということは、涼が自分で出て行ったということか。妙なことよな」
闇路の息を呑む気配、エヴリーヌの困惑の気配がアマネの肌に伝わってぴりぴりする。
「涼は、人間の体に押し込まれ、人間としての力しか振るえないはずだ。のされた見張りの天狗は、どうしてそういうことになったと?」
アマネは、更に情報を得るべく突っ込む。
『それが……妙な病に冒されておりまして。薬が間に合い、命は助かったものの、衝撃でしばらく動けないかと思われます。なにせ、体のあちこちが異様に変形してしまい……』
その道了薩埵の言葉は、彼自身が自覚しているであろう以上のものを帯びている。
「涼が、人間のまま、吸血鬼の力を振るった……か、なるほど」
恒果羅刹は、単純に抜き出した人外の魂を、人間の血肉で覆ったということではないようだ。
どうも、更に面倒な術を施してあるとしか思えない。
なるほど、道了薩埵が「細工」と表現する訳である。
「ねえ、アマネと吸血鬼さん?」
妙な響きの声で、今まで黙っていたエヴリーヌが口を開く。
「あれって、ねえ。何かしらね?」
彼女の呆然とした視線の先を、アマネも、そして闇路も辿る。
崩れたビルの向こうに、まるでペイントソフトで加工でもしたかのように、空間がぐねぐねうねる、黒っぽい「何か」に冒されている場所が見える。
その虚無の空洞のようなそこから、何かが吹き込んでくるように感じて、アマネたち全員がぐらりとしたのは、錯覚ではない。
よく見れば、地上の様子がおかしい。
街路樹が、一気に枯れ果てていく。
まるで時間を数百倍にも早めて冬にしたかのように、緑の葉が……いや、冬枯れではなく、黒く腐敗してぐずぐず崩れていく。
その死の空間が、同心円状に広がっていくのだ。
「まずい、これは……」
闇路が息を呑んだ瞬間。
塗りつぶされた空間から、白々と骨を光らせた、巨大な「何か」が、轟音と共に姿を現した。