その10 霊泉居士の影

 目の前で自分の名前を呼び続ける恋人を、瑠璃は唖然として眺めるしかできない。

 

 全く、瑠璃には訳が分からなかった。

 突如、紫王もその臣下たちも、瑠璃が目の前にいないかのように振る舞い始めた。

 瑠璃が声をかけても、目の前で手を振っても体に手をかけて揺すっても、紫王も仁も清美も、瑠璃の存在を全く認識していないのだ。

「瑠璃!! おい、瑠璃!!」という目前の紫王の叫びに、もっと言えば、まるっきり瑠璃をすり抜けている彼の視線に、瑠璃は背筋が寒くなる気分を味わった。

 

「仁くん!? 紫王!?」

 見ている間に、仁が急に妖怪の姿に戻って空中に浮かび上がった。

 次いで紫王、そして清美が次々に本来の、妖怪の正体を現す。

 

 どういうことだ、と瑠璃は唖然とする。

 紫王たちは一体――という思いを押しのけるように、直感が矢のように閃いた。

 敵は、妖術使い。

 紫王たちは、敵の妖術にはめられているのだ。

 

 まずい。

 どうすればいいだろう?

 

 瑠璃は、自分の心臓が異様に大きな重い音を立てるのに気付いた。

 恐怖の音。

 何とかせねば。

 紫王を助けるには。

 

 瑠璃の脳裏に浮かぶのはしかし、趣味の怪しい系統の本で読んだ、妖術使いのエピソードだった。

 例えば、襖の湖の絵から水を呼び出し、部屋中を水浸しにして、そのまま船で去った果心居士。

 目の前で起こっている現象を見るなら、人間ではないはずの紫王たちを、妖術ではめるというのは凄いが、この術の破り方は分からない。少なくとも瑠璃の読んだ本では、妖術の凄さは描かれていても、その術を破った――という話はさほど目立たなかったように記憶している。

 同じ程度の妖術師がたまたま術合戦のようなことをして、妖術で妖術を破らない限りは――

 

 いや。

 待てよ。

 瑠璃ははたと気付く。

 紫王が言っていたではないか。

 瑠璃は、邪な術を破る妖力があるはずだと。

 なら、自分で……

 

 ふと、瑠璃は周囲の様子に気付き、はっとした。

 繁華街からそんなに離れていない路上なのに、人通りが途絶えている。

 路上にも、すぐ側に位置する店舗からも人気が失せている。

 街は、真夜中のように静まり返っていた。

 

 これは全部、霊泉居士なる人物が行ったものなのだろうか。

 だとすると、自分にこれが破れるだろうか、たかが数日前に妖怪になったばかりの、ほんの駆け出しの自分に。

 天椿姫様の話が事実だとするなら、霊泉居士なる人物は、たっぷり千年以上に渡り死んでもすぐに転生することを繰り返して、妖術使いとしての研鑽を積んでいるはずだ。

 そんな奴の術が、瑠璃に破れるのか。

 そもそも、霊泉居士は、どこにいるのだろう。ここにいるのは、紫王や自分たちの他に……

 

「危ない!!」

 急に誰かに腕を引かれて、瑠璃ははっと飛びのいた。

 目の前が激しく輝く。

 真っ白なその光が、火山弾のように降り注いだ火の玉だとは、紫王がその六本の腕で炎を砕き散らすまで識別できなかった。

 

 瑠璃は、声を上げようとして固まった。

 紫王たちの頭上に、まるで覆いかぶさるかのように、巨大な双頭の狐が現れた。

 体長数m、大蛇のようにうねる六本の尻尾を入れればその倍ほど。

 二つの頭はそれぞれ金と銀の炎を吹いている。

 次いで、それに誘われるように、人間程度の大きさの狐らしき獣が数十匹、空中にも地面にも展開して紫王たちを取り囲んだのだ。

 瑠璃は、完全に紫王たちから切り離された。

 

 都市の一角に、まるで百鬼夜行の絵巻のような妖怪の群れが立ち現れたのだ。

 見慣れた街角の風景と、明らかにこの日常から浮き上がった妖怪の群れとが生み出す違和感に、瑠璃は背筋に何かが這い回る感覚を覚えた。

 

「瑠璃様。さ、こちらへ。ここは危険です」

 急に耳元で囁かれて、瑠璃ははたと振り返る。

 いつの間にか、すぐ後ろに男性が立っていて、避難を促すように自分の腕を引いているのだ。

 

 見慣れぬ男性だった。

 年齢は25~26といったところだろう。

 長身に仕立てのいいグレーのスーツを着こなして、デザイナーズブランドだろう洒落た眼鏡をかけている。つやつやした黒髪を上品になでつけてまとめ、一見エリートサラリーマン風である。

 目鼻立ちは上品で、端正と言って良い。育ちの良さが滲み出ている感じだ。

 誰だ、と瑠璃は訝しんだ。

 見たことのない人間が、自分の腕を、まるで保護者のように掴んでいるのである。

 

「あの……」

「私は天椿姫様の臣下の者です。主上のご命令で、瑠璃様をお迎えに上がりました」

 はっきり耳に残る落ち着いた声で、その男性はそう告げた。そのまま瑠璃の肩に腕を回し、上腕を引いて連れて行こうとする。

「こうなることは、天椿姫様は予測しておででした。ここは紫王様方にお任せになり、瑠璃様は至急神楽森城にお戻りになるようにと」

 目の前では、あの狐の化け物が、耳障りな声で紫王を罵っている。

 瑠璃は、振り返り、そして気づかわし気なその男性を見て不審の念に駆られた。

「――あなたが、天椿姫様の臣下の方なら、紫王を助けて下さい。あれじゃ……」

「はは。やっぱり、神虫に転生されるような方は、こんな子供だましにはひっかかりませんかねえ?」

 端正なその男の顔が、ぎょっとするような残酷な色に歪んだ。

 

 まずい――

 ぞっとした瑠璃が逃れようと身じろぎした瞬間、彼女の意識は闇に呑まれた。

 

 視界の中に、まるで親切でこうしてあげるんですよ、と言わんばかりの端正な男の顔が、鬼火のように浮かび上がっていた。