9 心霊バトル!!

「それ」は、竜巻のように唸りを上げながら、校庭に侵入してきた。

 

 それはさながら、嵐の黒雲が地上に降り立ったかに見えた。

 

 じっとりと重苦しい密度を感じる煙の塊のような不定形の塊、その渦巻く内部から、無数の恨みがましい顔や、何かを求めるような枯れ木のような腕が突き出され、呻き、蠢いている。

 およそ日常に慣れた者の目には受け入れられない、それが悪霊の群体「レギオン」だった。

 

「さあって来ましたねー、先輩!!」

 

 語尾に音符でも付けそうな勢いで、ショートヘアの女子が口にする。

 手にした刀をすらりと抜き放った。

 神刀「鬼龍(きりゅう)」。

 先祖でもある龍神から授かった、神威を帯びた破邪の刀。

 

 レギオンから噴き出す負の圧力は、物理的な風を巻き起こし、彼女をなぶったが、尾澤千恵理はびくともしない。

 ただ、楽しそうな笑みが口元に、挑発的な焼けつくす戦意が瞳にある。

 見る者が見れば、その頭部の豪奢な螺旋角が、肥大して王冠のようになっているのが見えるだろう。

 

「私が逃げられなくした上で、動きを止めるから。尾澤さんは、市原さんがまとってる悪霊の塊を引っぺがすことに注力してください」

 

 静かに、だがズシリと耳と肚に残る声で指示したのは、熊野御堂紗羅。

 その手に黄金に輝く五鈷杵を構えている。

 眼鏡の奥の目は、さながらスナイパーのように冷徹に獲物を見定める冷たい目だ。

 目鼻立ちが麗しいだけに、それはさながら裁きを下す仏法の守護神のように容赦なく、冷徹だった。

 

 自分たちが負けることなど欠片も考えていない、というか、明らかにこういう場面に場慣れしている。

 落ち着き払い、所定の手順のタイミングを計っているだけに見えた。

 

 悲鳴のような、怨嗟の絶叫のような叫びを上げて、レギオンが校庭の中央部近くまで侵入してきた。

 まっすぐ正面の校舎に向かっているのは明らかである。

 

 でかい。

 小屋ほどもある大きさ。

 人間の一人二人なら、簡単に呑み込めるだろう。

 

 しかし、それでも千恵理と紗羅は、冷たい怨念の暴風に曝されて平然と立っている。

 どちらもそれぞれ落ち着き払い、恐れている様子はない。

 

 レギオンが絶叫を上げて突進してこようと……

 

「諸天救勅(しょてんきゅうちょく)!! オンキリ・ウンキヤクン!!!」

 

 高らかに唱えられた紗羅の真言は、仏法を守護する諸天を地上に呼び寄せた。

 汚らしいレギオンの周囲を、虹色に輝く諸天の幻が取り囲み、一瞬で高い壁をなす。

 輝く聖なる壁に取り囲まれて、レギオンは戸惑ったように呻いた。

 

「さあ、これで逃げられないわ。覚悟なさい、そして核を出してちょうだいね」

 

 紗羅が素早く印を結ぶと。

 

 濁流のような絶叫と共に、レギオンの一部が破れて、巨大な腕が紗羅と千恵理に伸びた。

 悪霊とは、すでに実体を失った霊体が、怨念で突き動かされ、似たような怨念を持つ者同士で群体を作り上げたもの。

 ここの区別は極めてあやふやで、気体にも液体にも似る。

 複数の霊体が結集して一つの器官を作り出すことなど、朝飯前だ。

 

 しかし。

 

「不動行者加護(ふどうぎょうじゃかご)!! ノウマクサンマンダ・バザラダセン・ダカロシャナソワタヤ・ウンタラ!!!」

 

 噴き上がる紅蓮の猛火が、壁となってレギオンの攻撃を防ぎ、焼き尽くした。

 肉体の一部を不動明王の聖なる炎で焼き滅ぼされて、レギオンは絶叫を上げる。

 なんとも形容しようのない、不快な轟音が、周囲に轟き渡った。

 一方、噴き上がった猛火は、燃え盛りながらぐるりと紗羅と千恵理、そして背後にいた者たちをも取り囲んだ。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「なんだあれは……」

 

 糸井校長は、目の前で繰り広げられている凄絶で霊的な戦いを、呆然と見つめていた。

 あの眼鏡の女子生徒が作り出した炎の結界は、自分たちをも覆っている。

 一応守られているはずなのだが、なぜか全く安全という気はしない。

 

「あれが何だかわかりますか、糸井校長?」

 

 目の前にいる、物静かな若い男性教諭、平坂が口を開いた。

 

「悪霊の群体です。無数の悪霊が寄り集まっているのです。そしてその中心にいるのは、他の悪霊を『食う』ほど、強烈な怨念を宿して亡くなった、この学校の生徒、市原愛実さんです」

 

 そこで平坂は一拍置いた。

 

「いえ、糸井校長、あなたに殺された市原愛実さんというべきですかね?」

 

 炎に照らされても、糸井校長の顔が青ざめたのがわかった。

 

「何を馬鹿な、何を言ってるんだ君は!! 私が何故学校の生徒を……」

 

「その理由は、校長センセが一番よくわかってらっしゃるんじゃないかにゃあ? それに、佐藤センセもだにゃあ」

 

 平坂の足元にいた黒猫が、侮蔑する調子でそう突きつけた。

 もちろん、猫形態の黒猫礼司だが、校長にもその横で真っ青な佐藤にもわからない。

 

「手口が慣れた感じだにゃあ。誰も気づかなかったけど、前にも毒牙にかけた女子生徒がいたんじゃないですかにゃあ?」

 

 黒猫は、努めて冷静な声で糸井と佐藤を追い詰める。

 

「一体……一体、何を……」

 

 佐藤が校長と平坂及び猫、そしてレギオンと、そいつと戦う二人の女子生徒との間にうろうろ視線をさまよわせた。

 あまりのことに、脳の処理が現実に追いつかないのだろう。

 

「残念ながら、こういうことを暴く手段はあるのですよ」

 

 平坂が冷たく断言する。

 

「糸井校長、あなたは、もう部活を辞めたいと意思表明した市原さんを、学校としての態度も決めなければいけないからと、佐藤先生に言いつけて校長室に連れて来させた。そして言葉巧みに自分の車に連れ込み、こう言ったんです。部活を辞めても学校を放り出されたくなければ、先生の言うことを聞きなさい。車が向かった先は、ホテル街でした」

 

 糸井の顔から、石の仮面のように表情が失われる。

 隣の佐藤のほうが、よっぽどわかりやすい反応をしていた。

 

「当然、市原さんは嫌がったにゃあ。真面目でまっとうな市原さんからすれば当たり前だにゃあ、自分の学校の校長の愛人にされるなんていうことは。だから、泣いて嫌がって、車から逃げようとした。『もう嫌だ、このことを全部親に話す』って言ってにゃあ?」

 

 糸井の顔がますます青ざめる。

 佐藤が救いを求めるように上司を見たが、全くそのことに気付いていない。

 

「そこで、糸井校長、あなたは逆上した。もしこんなことが公になれば、身の破滅。それを回避するには、市原さんを永遠に黙らせるしかない――すなわち、物言わぬ屍にすることしか。あなたは般若の形相で、市原さんの首を絞めた」

 

 平坂が決定的な一言を突き付けると、逆上したのはむしろ佐藤だった。

 

「何を言ってるんだ、あんたは!! なんの証拠があって、そんなことを……!!」

 

「佐藤先生。あなたは、今までも似たようなことをやって、立場の弱い女子生徒を校長に『斡旋(あっせん)』していたにゃあ。まさに女衒(ぜげん)にゃあ」

 

 心底から軽蔑した調子で、猫の礼司が言葉で突き出す。

 

「今まではバレなかったにゃあ。毒牙にかかった女子生徒は、心の傷を誰にも言えぬままに、黙って卒業していったにゃあ。今度もそうだと踏んでいたのに、そうはいかなかったにゃあ。校長から、抵抗したから市原さんを殺してしまった、アリバイ工作をしろと指示されたにゃあ」

 

「それで、あなたはさも市原さんを送って行ったような顔をして、市原さんの自宅近くまで車を走らせた。近隣住人に、わざと見慣れぬ自分の車を目撃させて。この工作は完璧だった。なにせ、警察まで騙された」

 

 平坂が更に畳みかける。

 

「そして、糸井校長。あなたの親戚に、この近辺の山を持っている地主さんがいらっしゃいますね。あなたはなにくわぬ顔で、いつでも山菜取りに来ていいですよと言われていた山の中に入って、人目につかぬ場所を見つけ出した。そのまま、佐藤先生も呼びつけて、ふたりで穴を掘って、市原さんの亡骸を埋めたんです」

 

 もはや、犯罪者二人は声も失っていた。

 なんで、この男はこんなことまで知っているのだ。

 自分たち以外に誰も知らないはずの情報を。

 

 平坂は、燃え盛る不動明王の炎に照らし出された不気味な悪霊にちらりと目をやった。悲しみが、そこにはある。

 

「あれが何だかわかりますか、お二人とも。……市原さんの成れの果てですよ。市原さんは死後、無念のあまり怨霊となってしまった。そして、周囲の霊体を食って巨大化し、あんな化け物になり果てながら、あなた方に恨みを晴らしに来たんです」

 

 恐怖が、糸井と佐藤の顔に現れ出る。

 

「覚悟、なされた方がいいんじゃないですかにゃあ? お二人とも」

 

 猫の礼司は、冷厳と言いきると、問答無用で二人に魅了の視線を飛ばした。

 嘘をつく意思すら折り砕く、強力な魅了の力を。