磐梯山怪奇事始

 その山容は、予想していたよりずっと秀麗で雄大で、そしてどこか包み込むような優しさを感じさせた。

 

 夏のさなか、むせかえる草いきれに混じって、水とまだ青い稲の匂いが風に運ばれてくる。

 その地は、三平の故郷にも増して穏やかで豊かなように思えた。

 見渡す限りに秋の豊作を予想させる芳醇な青田が広がり、肌を女の柔らかい腕のように撫でる湿気も優しい。夏蒸して冬は雪深いと聞いていたが、それはこの豊かさの代償として甘受するしかあるまい、というのが、三平の感想だった。

 まるで緑の裳裾を引きずるように、青々した田んぼを従えているのが、今回の事件の中心地となっている霊峰・磐梯山《いわはしやま》だった。

 昨今では「ばんだいさん」と呼びならわすのが普通であるようだが、話を聞かせてくれた土地の古老は頑なに「いわはしやま」と呼んでいた。

 

 ――あのお山はですな、お武家様。天に繋がっておりますのじゃ。

 ――「磐梯山《いわはしやま》」というのは、文字通り「天に続く磐《いわ》のはしご」という意味でしてな。

 ――特別なお山ですじゃ。この地が豊かなのは、あのお山が天からの恵みを降ろしてくれているからですじゃ。

 

 明るい夏の日差しに映える一面の緑を見る限り、それは全く迷信とは片付けたくない、健康な信仰のように思えたが。

 

 ――なにゆえ、あのようなものが……昔も似たようなものが出たとは、聞いておりますじゃが……。

 

 よりによって、と、応対に出た縁側で痩せた肩を縮ませる古老は、この地が原因となってみちのく全土を襲う破目になった災厄を、我がことのように恥じている様子だった。

 三平の色黒のくっきりした顔に、夏の影とは別の同情の陰りが差す。

 気持ちは分かる。

 この土地の者なら、いたたまれないであろう。

 現に南部藩より同道した三平の同輩の中には、この土地、会津藩の人間をあしざまに罵る者も少なくなかった。

 

 当たり散らしたくなる気持ちは分からぬでもない。

 だが、相手は人間ではなく化け物。

 たまたま化け物のねぐらがこの土地にあったからと言って、この土地の人間に罪をおっかぶせることなどできはしないであろう。津波があったからと言って、海の向こうの国に責任があるなどと言えないようなものだ。

 

 三平は――南部藩の浪人・松前三平《まつまえさんぺい》は、日よけの笠を深く被りなおして、静かに慰めの言葉を口にした。

 

 ――そのような大事な霊山が、此度《こたび》のような災難の源のように言われ、苦しいお気持ちお察し申し上げる。

 ――我らは災難を終わらせに参った。あの化け物のことなら、何でも教えて下さらぬだろうか。

 

 どんなことでも、奴を葬るための手掛かりになれば、と三平は水を向けた。

 この古家に尋ねて来た時にした最初の話――自分の鉄砲の腕前を思い出させようと、黒ずんだ縁側に置かれた大筒を、そっと撫でる。

 

 皺の深い古老はふうっと息を吐いて、語り出した。

 

 ――あの怪物はハァ、昔から何百年かごとに磐梯山から現れると聞いております。

 ――名前だべか、この辺りでは単に「化け物」とか「怪物」としか。

 ――昔から飛び道具で仕留めるのが習わしだそうでして。前に大暴れした時に奴を仕留めたのは、弓の名人のお武家様と伺っております。

 ――ただ、滅多な者の飛び道具は跳ね返すとか。名うての名人の放った矢でない限り、跳ね返すのだと。

 

 最後の言葉を聞いて、三平は忸怩たる思いがこみ上げる。

 彼が事前に情報収集を、と呼びかけたにも関わらず、南部藩から強行軍で会津入りした同胞たちは、耳を貸さなかった。

「磐梯山の怪物」と今や呼びならわされているかの化け物に、縁者の子、場合によっては自らの子を食い殺された南部藩士による討伐隊の面々。彼らは、揃えた百挺を超える火縄銃が通じないなどということを、全く考慮しなかった。無理もないことだが、すっかり頭に血が上っていたのである。

 

 結果、怪物を目の前にして一斉射撃を行い――大部分の者が、怪物に跳ね返された自らの銃弾に傷付いたのだ。

 

 ただ。

 浪人である松前三平の抱えた、家伝の大筒は効き目を現した。

 

 思い出す。

 見たこともない異形の影。

 獣の妖かしの類だとは分かるが、どんな獣にも鳥にも似ていない。

 一瞬だけ合った、ぎろぎろ光る金色の巨大な魚みたいな目……

 

 

 三平は、礼を述べて土地の古老の家を去った。

 

 少なくとも南部藩士として会津入りした者の中では、三平の大筒くらいしかあの怪物には効きそうもない。

 それだけ分かれば十分だ。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 三平はまだ動ける者数人と、土地の有志の者の力を借りて、木々の枝葉を組み合わせて作った隠れ家を磐梯山麓に用意した。

 人ひとり立ったり座ったりするのがせいぜいな大きさであるが、三平にはこれで十分であった。

 まだ折り取ったばかりの新鮮な緑の匂いに混じって、磐梯山から流れてくるのであろう暖かな岩と土の匂いが漂う。

 

 壮麗な山。 

 豊穣の源とされる神秘の山。

 それが、何故数百年に一度、あのようなものを生み出すのか。

 

 《《あの山が天に繋がるはしごだという話が本当なら》》、《《天には輝く神々ばかりではなく》》、《《あのような呪わしい怪物までもが住んでいるとでも言うのだろうか》》。

 

 馬鹿な。

 

 三平はぞくりとするその想いを振り払った。

 瞼の裏に、べったり染み込んだ血で、元の色が分からなくなった着物の切れ端がちらつく。

 それが我が子のものと見て取った時に、妻が上げた張り裂けるような悲鳴。

 暗くなっていく、自らの視界。

 

 

 案外、「それ」は早く姿を現した。

 緑の苔に覆われた岩から飛び降り、むっとする獣臭をまき散らしながら、悠然と進む赤黒い怪物。

 異様に長くたくましい尾が、体の後ろにゆらゆらと……

 

 

 轟雷のような銃声が轟いた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 時は天明二年、七月のこと。

 この事件は瓦版となって江戸にまで広まったものの、この怪物の正体を言い当てられる者は誰もいなかったという。

 

 

 

磐梯山怪奇事始【完】