「えっ、ここは?」
いきなり周囲の風景が変わったのを見て、百合子が声を上げる。
傾空は何事もなかったかのように百合子の手の中に収まるが、それが不思議に思えるくらいの、周囲の激変ぶりである。
「ははあ。まぼろし大師の作り出した世界その2という訳ですね。あの方、意外とご趣味はいいんですよね」
冴祥が、うっすらした光に取り囲まれている周囲を見回す。
そこは、奇妙な「水の世界」である。
よじ登れそうな「石の塔」が林立し、その黒灰色の表面を、澄んだ水が、何故か「下から上へ」流れて行く。
重力が逆転しているかのように、地面にうっすら流れる水が、石の塔を伝って、頭上の灰色の空へ昇っていくのだ。
「あれ、何ですかコレ? 変な水ですねえ」
ナギがニャアニャア鳴きながら、石の塔の一つに降り立ち、水を黄色に紅と黒の斑点が入った嘴でつつく。
「その水に何が籠っているかわからんぞ。迂闊に触れるんじゃない」
天名が、淡々と注意を促す。
「飲んだが最後、まぼろし大師の呪いにかかるなどというのでは厄介だからな」
途端にナギはニャアと悲鳴を上げて逃げ出す。
パタパタとせわしなく羽ばたいて、冴祥の袖の中へ見事に収まる。
「ふう。落ち着いて作戦会議などを」
ニャア。
冴祥がナギを狩衣の袖でくるんで、よしよしと撫でてやる。
「さあて。まぼろし大師くん自身は、どこに行ったんだろうねえ」
鏡のような水の上に浮きながら、真砂が面白そうに周囲を見回し、どんよりしてどこまで高いのかわからない空を見上げる。
百合子はきょろきょろ周囲を見回す。
言われてみれば、まぼろし大師はどこに行ったのだ。
この世界を作ったというのなら、この世界のどこかにいるのではないか?
かなりの間隔を空けて林立する、石の塔を、百合子はじっと注意を向ける。
隠れるところといえば、この石の塔しかないように見えるが。
「ああ、もう来ると思うよ」
暁烏は、どういう訳だか、灰色の空を見据えている。
水の筋が立ち昇っていく空を。
何のこと、と問おうとして、百合子はふと気付く。
空の一角で、何かが動いた。
「来たぞ!!」
暁烏が、宙を踏んで空中に舞い上がる。
彼を目がけるように、かなりの上空から、何かがなだれ落ちるように突っ込んで来る。
「!!」
百合子は、咄嗟にその一つに、傾空を投げつける。
恐ろしく大きなミミズのように細長いそれは、口らしきものから裂かれて真っ二つになって、地上に落下する。
盛大な水しぶき。
「!! 何よ、何なのこれ!?」
地上の水に落下して一瞬だけ形を留めたそれは、確かに第一印象通りに、巨大なミミズに見えたのだ。
水の流れをそのまま形にしたように、ぼこぼこした表面のそれは、数10mで直径は1mほどの、目のないミミズだ。
全身が、どうやったのか妙に粘度の高い液体でできているようで、命を失って数瞬で、水に戻るようだ。
「水でできた長虫だな!!」
頭上に突っ込んで来た長虫を、暁烏は本体である太刀で斬り飛ばす。
水でできていても、斬りつけたのが霊力を宿す聖なる太刀なら、斬撃は通じるようだ。
水長虫は、輪切りにされた状態で、やはり地面の水に突っ込んで消える。
暁烏が最も戦意があると判断したのか、複数の水長虫が頭上を旋回しつつ、水の大砲を吐く。
回避した暁烏の頭上を通り過ぎ、それは地面に突っ込んで、巨大な水と泥の混じった塊を空中に巻き上げる。
「消えな!!」
暁烏が水長虫の吐いた圧縮液体弾ごと、太刀の巻き起こした剣風で粉々にする。
まるで豪雨の雲のような音を立てながら、空中で水長虫が爆散する。
「うわあっ……と」
百合子が足元を掬われたのと同時に、何かふわりと暖かいものが、百合子を掬い上げて空中に運ぶ。
「真砂さん!! ありがとうございます!!」
百合子の全身にからまっているのは、真砂の作り出した雲の羽衣である。
それは近未来の飛行装置のように、百合子の体を空中行動が自在なように支えている。
百合子は、突っ込んで来た水長虫を、傾空で一瞬でミンチにする。
投げ出される水の塊が滝のような轟音を立てる。
「さて、数霊の九。新生、転生、究極」
冴祥がうねりながら突っ込んで来る水長虫に数霊を投げると、それは一瞬で白い霧のようなものに変じる。
まるで原子にまで分解されたように霧さえ消え去り、宙に浮いた彼の目の前には何もない。
「ええい、鬱陶しいミミズめが」
天名が、天高く浮いて水長虫を引きつけながら、扇を打ち振る。
大音声と共に、極大の爆風のような熱と衝撃波が発生し、水でできた水長虫は、まとめて蒸発する。
後には湿気も残っていない。
空の雲にも穴が開き、陽が射して来る。
「はいはい、何を隠そう、ワタクシはミミズが嫌いです!! 美味しくないですからね!!」
ナギが翼を広げて聖なる光の輪を創り出す。
突っ込んで来た水長虫が、太陽の数十倍強いような黄金の光に突っ込み、そのまま蒸発する。
次の虫も、その次も、次々に水長虫が蒸発するだけだ。
それは偉大な神が裁きを下しているように見える光景である。
「さて。このミミズくんたちを相手していてもきりがないな……っと」
真砂が、纏っている雲を、さながら雲の峰のように立ち登らせる。
戦う仲間たちをあっさり守り、突っ込んで来る水長虫は雲に触れただけで消え去り、それなりに風情あるその世界の光景は、さながら消しゴム効果をかけたかのように、綺麗に消え去りつつある。
同心円状に、「無の雲」が広がり……
◇ ◆ ◇
「あ、あれ?」
百合子はきょとんとする。
そこは、見覚えのあるような気がする場所。
最初にいた、まぼろし大師が作り出した「高月城下」の一角に見える。
豪壮な、城の中庭のような場所。
「あれ。あの世界、消えたっぽいですねえ。流石真砂さん」
冴祥が、狩衣の乱れを直しながら、紅葉の木の下に立っている。
なかなか見ごたえのある光景である。
いや、彼ばかりか、暁烏も、ナギも、天名も、そして真砂も、その庭にいつの間にか立っている。
頭上には、何事もないかのようなすまし顔の月。
「そんなバカな……わしの作った世界を消したじゃと……」
まぼろし大師が、ススキの植えられたその一隅で、呆然としているのが見える。
「何回説明すりゃわかるんだ君は!? 私は原初の時空の神。君が作ったうっすい世界ごときねえ」
ははは、と真砂は笑い。
「まあ、最初からこうすりゃ良かったかもね」
再び彼女の「無の雲」が、周囲を嵐のように巻き込んだのだった。