弐の参 昼下がりの密議

「かの者は、いかがであった? 千春」

 

 目の前の黒一色の僧衣に身を包んだ老僧に問い掛けられて、千春は背筋を伸ばした。

 

 老僧のすぐ側には、同じく黒一色、ただしもっと活動的な衣装の、修業僧か昔の僧兵を思わせる若い僧が茶を点てている。

 老僧は剃り上げた頭に頭巾を被っているが、若い僧は僅《わず》かに癖のある黒髪をざんぎりにしたような形にしている。

 その蒼白い手から老僧に、続いて千春の前に、湯気を立てる茶器が差し出された。

 

 鳥の声が聞こえる。

 午後の遅い陽射しが、上等の障子を通して屋敷の一角にしつらえられた茶室に差し込んでいた。

 周囲を取り巻く分厚い木立の影が、障子にまだら模様を作り出す。

 さながら山奥の庵だが、注意深くしてみれば、どこか遠くから大勢の動き回る気配やざわめきが微かに伝わって来る。

 

 老僧が音もなく茶を飲んだ。

 千春も茶器を覗き込み、底に溜まった濃い緑色を眺める。

 

『うう、こういうお茶苦手なんだけどな~』

 

 茶よりも渋い顔を一瞬見せた千春だが、意を決して一口飲んだ。

 すぐに傍らの皿に盛られた最中《もなか》をぱくつき、苦味を誤魔化す。

 

「腕前は凄いよ」

 

 ごくんと飲み込んで、千春は話し出した。

 

「あそこまでとは正直思わなかったもの。ただの人間が、よく鍛練だけであそこまでいったものだよ。普通の人間で勝てる奴はまずいないんじゃないかな」

 

 老僧はほう、と声を洩らした。

 

「モノでも、その辺に出てくるようなのは敵じゃないね。多分、あの呆れた長い太刀も何かあるんだよね。元は神刀だっていうの、側に行ったらはっきり分かったよ。しかも、完全に使いこなしてるんだ、あのお姉さん」

 

 千春はぶんぶんと華奢な腕を振って、花渡の太刀筋を再現しようと試みた。

 若い僧が渋い顔をするが、お構いなしだ。老僧は取り立てて咎め立てしようとはしない。

 

「素質はあるか、ふむ……」

 

 老僧は顎を軽く摘まんで何かを考え込んだ。

 

「でも……あの人、人なんだよね。だから、いつまでもあのままではいてくれない」

 

 ふと、千春の顔が陰った。

 

「今はいいよ。でも、いつかは体が衰えるでしょ。今みたいに、軽々と刺客を返り討ちにすることなんか、出来なくなる」

 

 千春の目が暗い。

 花渡を待ち受けるであろう暗膽たる未来が見えるのだ。

 かの人士は、その父母より長く生きられるだろうか。

 

「ふむ。そのことは伝えたか?」

 

「脅してるみたいに取られるの嫌だから、はっきりとは言ってない。だけど、お召しに応じれば二度と刺客になんか襲われないようになるし、暮らし向きもしずっと良くなるとは伝えたよ」

 

 それが幕府の下にいるという枷を持つ、千春の精一杯だ。

 そのことを十二分に知る老僧は、ゆったりと首肯した。

 

「どんな強者も完全無欠では有り得ぬ。しかし、このまま事態を捨て置けば、かの者は命を無駄に散らせることになろうの」

 

 老僧は、再び茶を含む。

 

「加えて、かの者の命は、権力を傘に人の血を啜ってきた不埒者の手に渡すにはあまりに惜しい。最早、かの者自身のものの範疇をすら超え、この江戸を、ご公儀をも揺さぶらんとしておる」

 

 皺の間に落ち窪んだ目が遠くを見やる。

 深い年輪が刻まれた肌にも関わらず、その老僧の背はしゃんと伸び、声もしっかりして張りがあった。

 引き締まった口元、温和ながら侵しがたい威厳を感じる眼差しは、僧侶というよりどこか武士の匂いがする。

 

「かの者が、女子の身でありながら父母の形見の剣だけを頼りに修羅道を突き進む、その意気や良し。故にあの者は『資格』を得たのやも知れぬ。然るに、その道行き、より尊い道へと変えてもらわねば、江戸の真の守りは完成を見ぬ」

 

 端からは意味の取れぬ言葉を連ね、老僧は千春をひたと見据えた。千春はその意味を感じ取る。

 

「分かった。引き続き、佐々木花渡の監視に当たるよ……もし、次の刺客が来たら、あたしも助太刀していいよね?」

 

「うむ。恐らく、彼奴《きやつ》らにその時間はあるまいが」

 

 老僧はあっさり許しを与えた。

 

「黒幕への対処は、ご公儀として行う。千春は一にも二にも、かの者から目を離さぬようにせよ」

 

 これで、あのお姉さんは安堵できるんだ。

 

 千春はほっとした。

 同時にえもいわれぬ喜びが湧いてくる。

 お役目を理由に堂々と、花渡に付きまとえることへの期待。

 次に顔を合わせたら何て言おうか。お役目だよ~って正直に言って、一緒に蕎麦切りでも食べに行こうか。

 

 そうだ、ご公儀が、お姉さんの仇を押さえて下さること、ちょっとだけ伝えてみようか。

 多分そいつらは、この国で事実上誰も逆らえない人物からの書状でも届いて、湯でもぶっかけられたように右往左往する破目になるはずだ。

 そう教えたらお姉さんは笑ってくれるだろうか。

 

「では、参ります」

 

 急に改まった口調で、千春は一礼した。

 

「……天海《てんかい》|上人《しょうにん》様」