6-1 旅の終わり

「ぬわー。久しぶりにゃー」

 伽々羅が、そう口にしながら、しなやかな猫の背中を伸ばして「それ」を見上げた。

 

 ゆっくりと移り変わる色彩に彩られた、水晶のような材質の、巨大な石の扉だった。

 二枚ある両開き扉の四隅が、それぞれ淡い黄金の金属で装飾及び補強されていて、幻妖な輝きに高貴の色を添えている。

 もし、色がもっと黒っぽかったなら、有名なSF小説の中に登場する、人類に叡智を与える例の巨大石板にも似て見えたかも知れないが、これはそもそも機能が違う。この星とここの人類に影響を与えているのは確かだが、これは封印の扉。一見何もないかのように見える「向こう側」に、この宇宙創世の女神の巨大な神威が封じられている。

 

 核照のゆらりとした光の中で、自分たちの十倍近くある巨大建造物を前に、希亜世羅一行は感慨深くたたずんでいた。

 ここは惑星クレトフォライ第一層の一角。

 この星を主宰する神、ウィデルヌの名によって封じられた最奥の場所。

 至聖所。

 一般のクレトフォライ人は名前しか知らなくても、誰も存在を疑ったりしない、この惑星の聖性の源――「神の門」だ。

 希亜世羅の神としての力が封じられたその場所に、その力を封じた女神の一行が、ようやく辿り着いた。

 

 幾重にも重なる上層大地が照り返す「核照」の下、希亜世羅は、ゆっくりとその門に近付いた。

 

「……これが、お前の力を封じた門か」

 希亜世羅の背後に彼女をガードするように近付いた冴が、そう問いかけた。

「……うん。以前の滅びの瞬間、私は力の大部分をこの門の向こうに封じて保存したの」

 希亜世羅は、まるで十数年ぶりの故郷に帰還した人物のように目を細めた。

 何故だろう。

 冴は、胸騒ぎがする。

 この門を開けたら、良くないことが起こるような気がするのだ。

 根拠はない。

 これといって、何かの理由を説明できるようなものではないが、まるで黒雲が広がるような不穏で不気味な警戒心が彼の精神を攪乱する。

 それは、彼にとって不快だった。

 理由の分からない警戒心など、全く持って厄介。

「何を」警戒すればいいのかわからないなど、役に立たないことおびただしい。

 しかし、周りを観察しても、存在するのは自分自身と希亜世羅、棘山、伽々羅、莉央莉恵のおなじみの顔だけ。

 この至聖所周辺にはどうなっているのか、魔照獣そのもは近付かないらしい。

 第一層自体には溢れかえるほど存在したそれらが、この門の周辺ではぴたりといなくなり、危険という点では凪のような平穏な状態が出現している。

 

 危険はない。

 全くない。

 なら、《《自分の感じているこの》》「《《危険》》」《《の感覚は》》、《《この》》「《《神の門》》」《《の中に封じられているものに関してなのだろうか》》?

 

 冴は何と希亜世羅に声をかけようか迷った。

 何と言えばいいのだ?

 力を取り戻すのは危険だと?

 いや、それはおかしい。

 中にあるのは《《元々希亜世羅の一部であったもの》》。

 それが希亜世羅に危害を加えるとは考えにくい。

 だが、この巨大な刃物を頭上にぶら下げられているような不吉な感覚はどういうことなのだ、《《自分は一体何を警戒している》》!?

 

 分からない――

 

 

「棘山さん!? どうなさったのですか?」

 不意に後ろから緊迫した声が聞こえた。

 振り向くまでもなく、莉央莉恵の声だと分かったが、問題はそれにかぶさるように漏れ出てきた、棘山の低い呻き声。

 ぞわりと、した。

 

「棘山?」

 冴、そして希亜世羅も、伽々羅も振り返った。

 

 棘山が、呻きながら体を折るところが見えた。

 彼は猪神の姿を取っていたが、まるで真下から腹部に一撃喰らったように、棘だらけの背中を丸めた。

 低い、漏れ出るようだった呻き声が次第に高くなり、絶叫に近い調子になった。

 同時に、冴は感じた。

「あの」不気味で不吉な気配。

 ごく最近までよく知っていたはずの、馴染んですらいた「あの」気配。

 まさか。

 

 棘山の絶叫が最高潮に達する直前、ばり、と嫌な音が耳に入った。入ってしまった。

 

 水晶のクラスタのように無数の突起の突き出す棘山の背中を、何かが内側から破った。

 

 まるで植物の種の殻を破って新芽が芽吹くように、「何か」が棘山の肉体を突き破って飛び出してきた。

 

 すでに棘山の悲鳴は途絶え、命のなくなった体が、蝉の抜け殻みたいな無残な様相を見せてどさりと転がる。

 思いのほか、出血が少ないのは、彼の命と肉体に寄生していた「それ」が自らの養分として使ってしまったからであろう――と、冴も希亜世羅も、妙に冷静に納得した。

 

「やあ、皆さん。お久しぶりですね。特に、我が主」

 これっきり皮肉な調子を込めてその言葉を放った相手を、冴は凝然と見やる。

 

「――骨蝕《ほねばみ》」

 

 それは、確かに見間違えるはずもない、かつての自分の「式神」だった。

 下半身は七頭の大蛇、そして眼鏡こそかけていないが、白皙の目鼻立ちは見間違えるはずもない。黒い炎状のエネルギー体を纏った骨の翼が、飛ぶというより泳ぐように、ゆったりとこの星の大気を掻き分ける。

 

 突然のように、全員の脳裏に広がったのは、あの冴のアジトでの最後の光景。

 棘山は、頭から大量に死ぬ間際の骨蝕の血を浴びてしまった。

 あの時に――

 

「にゃあああああっ!! 棘ちゃん、いやにゃぁあああああぁ!!」

 すでに命の失せて、肉体を吸い尽くされ、妙に薄っぺらい印象になってしまった棘山の亡骸に向かい、伽々羅が悲鳴を上げた。

 この旅の間に仲良くなっていた彼ら。

 悲鳴を上げたいのは、希亜世羅も、冴も同じだったが、ショックすぎ、そして危機感が強すぎて悲嘆を表す状態にもなれないだけだ。

 

「さて、元主様と更にそのご主君。そろそろ私にご奉仕してくれるお時間ですよ?」

 相変わらず妙に響きの良い、骨蝕のその声もそのままだ。

「今すぐその扉を開けて、中のものを私にも分けて下さい。さもないと、どうなるか、見て分かりましたよね?」

 ニヤニヤした骨蝕の顔が、冴の視界の中で色を失っていく。

「まさか……」

「あの時、せいぜい私の血を浴びただけの棘山がこうなったのです。直接、刃を交えた元主、あなたが本当はどういう状態か、言わずともお分かりでしょう?」

 

 冴の視界に黒い帳が下りた。

 気付かなかった。

 すでに、この身は、骨蝕に汚染されていたというのか。

 冴には、自分の全身が途轍もなくおぞましいもののように感じられた。

 

 

「嘘だね」

 だが、そのどろどろとした不気味な疑惑の渦は、希亜世羅の涼やかな声によって打ち払われた。

「すぐばれる嘘は能がないよ。もし、あなたが冴くんまで本当に棘山さんみたいにしてたんなら、今ここで姿を現して私たちを脅迫する必要なんかないよね?」

 さらりと言い放たれたその言葉を、冴は一瞬捉えあぐねた。

 

「私がこのまま普通に門を開けて、本来の力を取り戻せば、私の神使である冴くんにも、自動的に力が流れ込む。力を取り戻したら、冴くんも勿論パワーアップさせてあげるって約束、棘山さんの中にずっといたなら聞いていたんでしょ? 本当にあなたの一部が冴くんの中にも食い込んでいるんなら、なんでそのまま黙ってそれを待たなかったの?」

 

 そうすれば、冴くんに流れ込んでくるはずの力を、あなたが横取りして、冴くんを殺して復活できたのに?

 そう問いかける希亜世羅と、ぎりりと歯噛みする骨蝕を見比べて、冴はようやく納得した。

 そうだ。

 本当に、自分たちを脅迫できるような有利な状況にあるのなら、《《本当に脅迫したりしなくていい》》。タナボタを待って、そしてその上で自分を殺せばいいではないか。簡単なはずだ――棘山にしたように。

 

 骨蝕が顔を伏せた。

 くぐもった笑いで肩が揺れる。

 

「いやあ、流石に痩せても枯れても万物を創造せし神、という訳ですか。その辺の奴と違って、そう簡単には取り込めませんかね?」

 皮肉めいて笑う骨蝕を放っておいて、希亜世羅はその美しい目をじっと骨蝕の足元近くに注いだ。

 仲間の死骸。

 あの一見ガラは悪いけど、フレンドリーで朗らかでおおらかだったあの神。

 

「冴くん。棘山さんなら大丈夫。魂は救出できた」

 そう言いながら、振り返る彼の目に入るように、鮮やかな茜色に輝くその光の玉を見せる。希亜世羅の力でちょっと応急手当した、棘山の霊魂体だ。

「……私が力を取り戻せれば、棘山さんにまっさらな新しい体を作って復活させてあげられる。私の不手際のせいで怖くて痛い目に遭わせてしまったから、お詫びに元の何倍もパワーを盛った体をプレゼントしないとね」

 友人の誕生日のプレゼントのことみたいに気軽な口調で告げる希亜世羅に、冴は頷いた。彼はすでに戦士らしく混乱から脱している。

 

 今や、することは一つ。

 本来の目的に加えて、棘山を助けるため、そしてこの邪悪な神・骨蝕によってこの宇宙が災禍に巻き込まれないように。そして何より、希亜世羅を守るために。奴を倒すのだ。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「さあ!! とっとと消えなさい!!」

 莉央莉恵が仕掛けた。

 薄い青に輝く空間の檻が、骨蝕を永劫の牢獄に閉じ込めようとする。

「まっぴらごめんですね!!!」

 瞬時に、骨蝕が空間を転移した。

 

 一行の視界の先、牢獄に繋がる空間の檻が消え去った向こうに、巨大な影が盛り上がった。

 

 それは、地球で言うなら、希亜世羅や冴が生まれた国とは遠く離れた場所で生まれた、神話の怪物のようだった。

 蛸に似てぬめぬめ、ぐねぐねした肢は七本。先端が膨らみ、食虫植物のように四裂する牙状の突起が生えそろった口のようなものが付属していた。目なのかそれとも全く違う器官なのか、硝子質のように見える、ドーム状器官が不規則に配置されている。

 上半身に当たる部分はかろうじて人間に似ているが、昆虫めいた甲殻に覆われており、脇腹に当たる部分からある種の海老の前肢みたいな長大な腕らしきものが伸びている。その上部、肩から伸びる腕も、肢と同様、四裂する奇怪な口のようなものが備えられた巨大な蛇の頭のようなものだ。

 そして大ぶりの頭部は、何やら黒いバッタじみた顔が付いており、口らしい尖った亀裂が上下に二つ、並んでいた。

 比率的にも巨大になった翼が、更に大きな炎状のエネルギー体を纏わせながら、威嚇するように広げられた。

 

 びゅわん!! と空気を裂く音と共に、巨大な肢の一本が「神の門」に向けて突進してきた。

 いや。

 希亜世羅に、だろうか。

 

 ひゅんと翻ったのは、紅い閃光。

 この大きさの差があるのに、嘘のように切断された肢が、大量の紫とクリーム色のまだらの血を見せながら転がった。

 穢れた血が大地や、攻撃者である冴自身に降り注ぐ前に、紅神丸の力で光の結晶になって揺れる光に溶けるように消えて行く。骨蝕の傷口は線香のように、紅い光に侵食され、じりじり消えて行こうとする。

 冴が攻撃時に紅神丸の刀身に込めた魔子が、骨蝕の肉体を構成する原子と霊子と結合し、連鎖的に魔子変換で消滅させているのだ。

 

「お前には、これをくれてやるにゃーーー!!!」

 怒りに燃える伽々羅の前肢が、猫パンチにしか見えない動きと共に巨大なエネルギー波を生み出す。

 全身にまともに浴びた骨蝕の体は、まるで巨大な電子レンジの中に放り込まれたように、無数の断裂が走り、爆ぜ割れた。あの嗅いだ覚えのある異様な臭気が強く漂う。

 これも、冴の攻撃同様、魔子変換の思念波に乗せられていた。

 傷の全てがくすぶるようにじわじわ消えて行く。

 

 骨蝕の骨の翼が羽ばたいた。

 巨大な黒い炎に見える何かが、渦を巻いて押し寄せる。

 その後を追うように、脇腹の長大な鋏脚が、相変わらず「神の門」と希亜世羅を狙う。

 

 骨蝕が、ぎくりとするのが分かった。

 

 彼の攻撃は、巨大な硝子のブロックのように見える光の壁に阻まれた。

 そこに立っているのは、莉央莉恵。

 彼女の時空歪曲の魔力は、この宇宙の裏側「虚無空間」へとあらゆるものを投げ入れてしまう。そこにいれば、待っているのは究極の女神・希亜世羅の思念波、神意に支配された場による「消滅」だ。この攻撃も、希亜世羅は勿論、莉央莉恵、伽々羅、冴、そして惑星クレトフォライそのものにも影響を与えられなかった。

 

 一瞬だけ背後の気配を探り、冴ははっとする。

 そして納得した上で凶暴な笑みを精悍な顔に乗せたが、彼以上に驚いたのは、真正面からそれを見ていることになる骨蝕だっただろう。

 

「やっ、やめ……!!」

 引きつった声が昆虫めいた顔から聞こえて、思わず冴は失笑しそうだった。

 だが、それより早く快哉の快活な笑みがその顔に浮かぶ。

 

 彼の背後で、莉央莉恵の絶対的な結界に護られた希亜世羅は、まるで骨蝕なんかいないかのように、「神の門」を開きつつあったのだ。

 

「やめろぉおおおおぉぉ!!!」

 

 希亜世羅の優美な手が、虹色に煌く不思議な扉の取っ手に当たるものを掴んで、押し開いた。

 光が――いや、光とも認識できない、何かが溢れた。

 

 《《それ》》はこの宇宙を「存在させる」ための意思だった。

 全てはこの力と意思から生まれ、存続させられている。

 この世界の「夢子」は、この意思と力の断片が形となったものだ。

 そして、魔子と共鳴子がそれを補助する。

 そう、ちょうど希亜世羅を支える伽々羅と莉央莉恵のように。

 圧倒的な力の奔流のなか、自分がどう考えているかも認識できないほど呆然としながら、冴は思った。

 

 ――これが、希亜世羅なんだ。

 

 姿は変わらない。

 だが、明らかに何かを取り戻した希亜世羅が、骨蝕を振り返った。

 

「消えて」

 

 命令はただ一言。

 その瞬間に、嘘のように「骨蝕という存在」は消えた。

 泡が弾けるよりあっさりと、何の痕跡も残さず消えていた。

 もし、この宇宙にまで出張ってこなければ、こんなに簡単に消されることはなかっただろうに。

 

 流石に振り上げた刀の下ろしどころがないなあ、などと考えている冴の前に、希亜世羅が回って腕を絡めてきた。

 ちょん、と唇が触れる。

 暖かい、甘い香りと感触。

 あの希亜世羅だった。

 

「終わったよ、冴くん。ありがとう、戦ってくれて、助けてくれて」

 ぎゅうっと抱き着かれ、冴は慌てて刀を付属空間にしまった。

 

 希亜世羅は思う。

 全て思い出した。

 あの「虚空の繭」で見た、他の宇宙で見たきらめきの正体は。

 

 あの多宇宙《マルチバース》の中の、あの宇宙の、あの星雲の中の、あの恒星系の、あの惑星に見出して、どうしても欲しくなったあのきらめき。

 

「ねえ、冴くん。私ね、ずっとあなたのこと探していたんだよ?」

 

 それが何を意味するのか分からず不思議そうな顔をする冴に、希亜世羅はもう一度唇を触れさせた。