3-8 異世界の悪魔

「それ」は、部屋いっぱいに広がるような、巨大な古魔獣だった。

 

 とんでもなく大きい、黒っぽい繭のように、高い天井から床、そして左右の壁まで、縦横無尽に粘りつく糸のようなものが張り巡らされている。

 無数に重なるワイヤーのような糸の壁のせいで、部屋の半分から向こう側は見えない。

 いびつな黒っぽい繭からは、いぼだらけの触手のようなものが無数に突き出し、うねりながら床を空中を這い回っていた。先端は鋭い棘状に尖り、刃物のようなうっすらした光を放っている。

 繭の上側に、目立つ突起があり、そこから何かが突出しているのを、一行は見て取ったが。

 

「……ゼーベル?」

 

 息を呑んで、一瞬後ろに下がったゼーベルを、オディラギアスは怪訝な顔で振り返った。

 

「どうしたのだ、ゼーベ……」

 

「あいつだ……!!」

 

 普段ならあり得ないこと――あのゼーベルが、主であるオディラギアスの呼びかけすら耳に入っていない様子で叫んだ。

 

「何で、あいつがここにいるんだよぉ!!」

 

 全員が怪訝な顔でゼーベルと、彼の視線の先にあるものを見詰める。

「そこ」にあるものは、繭型の古魔獣の中央上から突き出した、奇妙な「顔」だった。

 枝のような肉の盛り上がりの上に付いているのは、人間の顔だ。

 縊死体のように黒ずんではいるが、確かにそれは人間の顔。しかも、こんな露骨な化け物の一部には不似合いなくらい、普通の人間の顔なのだ。

 馬面で、しまりがなく、美しいとは到底言い難いが、それでも十分人間の顔立ちの範囲には収まっている。

 人間族の年齢で言うなら、恐らく三十にもなっていないであろう男の顔だ。

 それが、魔物――古魔獣の肉体の一部として、一行を睥睨していた。

 いや。

 正確に言うなら、ゼーベルを、だろうか。

 

『ワダァ……』

 

 古魔獣がそんな言葉を発した時、ゼーベルは刀を取り落とさんばかりにびくりとし、他の五人は怪訝さに眉をひそめた。

 

『ダレニモ、イウナァ……!!』

 

 その殷々たる叫びと同時に、弾丸のような勢いで触手が発射され、六人を襲った。

 

「ゼーベル!!」

 

 硬直しているゼーベルを庇って、オディラギアスが槍を繰り出した。

 目前まで迫っていた棘付きの触手は、日輪白華のもたらす爆破に巻き込まれて、先端がちぎれ飛んだ。

 痛みにひるんだように触手が引き戻されたものの、その途中でまさに魔法のように再生したのを見て、オディラギアスは舌打ちをする。どうも、厄介な敵だ。

 

「ゼーベルさん、どうなさったんです?」

 

 同じく、空間を轢断する魔法で触手の集中砲火を逸らせたレルシェントが、ゼーベルにちらりと視線を走らせる。

 

「あの古魔獣の顔に見覚えでも……」

 

「先輩だ……」

 

 わななくその言葉の意味を、咄嗟に捉えられた者はいなかった。

 

「先輩? ねえ、何言ってんの?」

 

 魔銃ダウズールで触手を吹き飛ばし、その後もどんどん銃撃を続けるマイリーヤが呼びかけた。

 

「あいつだ……あっちの世界の先輩だ……」

 

「ゼーベルさん……?」

 

「高校の、先輩だった奴なんだ」

 

 ゼーベルの声は震えていた。

 

「俺が勤めていた整備工場に、事故った車持ち込んで……ボンネットが凹んで血がべっとりで、フロントガラスはひびで真っ白で……確実に人を轢き殺しているんだけど……このことを言ったら、身内ともども殺すって脅されて……俺は……ッ!!」

 

 ぞわりとした衝撃が、全員を襲った。

 怒涛のように疑問が湧き上がるが、それを口にする時間はない。

 

「無茶苦茶でやんすよ、どういうことでやす!?」

 

 ジーニックが鞭を翻えすと、空中に浮かび上がった魔法陣からセクメトが現れ、かっと開いた口から白い炎を吐きだした。

 接触した黒い繭の一角が燃え上がる。

 しかし、びゅるびゅると噴き上がった糸が十重二十重に炎を取り巻き押さえつけ、あっという間に鎮火させた。

 

「話は後だよ!! こいつを倒すことだけ考えなッ!!」

 

 イティキラが宙空で拳を繰り出すと、遠当てのように空間を奔った衝撃が、ゼーベルを怯えさせているその「顔」にまともに入った。

 血らしきものが飛び散り、悲鳴が上がる。

 怒りの籠った触手の攻撃を、イティキラは拳と蹴りの乱打でしのいで見せた。

 しかし、砕けたと思ったのも束の間、触手も本体も、時間を逆回しでもしているかのように再生してしまう。

 キリがない、と言うように、イティキラは息を吐いた。

 

「……凄い再生力ね。これを止めないと、どうにもならないわ」

 

 独り言のように、レルシェントが口にする。実際には全員の耳に入った。

 

「ゼーベルさんの『殷応想牙』の力なら……」

 

 毒の力が再生の力と相殺し合い、攻撃が通常通りに通ることになる。

 みなまで言葉にせずとも、その意味は伝わった。

 しかし。

 

「ゼーベル!!」

 

 オディラギアスは、槍を構えて何度目かの攻撃を斬り飛ばしながら叫んだ。

 

「しっかりしろ、ゼーベル!!」

 

 ゼーベルは、委縮していた。

 恐らく。

 露骨に殺人の隠蔽に手を貸したというその衝撃は、彼の中で根深いトラウマになっているのだろう。

 

 しかし。

 そのことも、この世界に来てからは、忘れていられたはずだ。

 この世界はこの世界で忙しい――そして、元のあの世界とはあまりに異質。

 オディラギアスに会う前であろうと後であろうと、昔の傷をあえていじり回す必然性は感じなかったはず。

 

 だが、今になって不意討ちで、かつてのことを思い出した。

 昔の世界の記憶を持った者たちに会い。

 それを見計らったかのように、過去の世界でのトラウマをえぐる存在に出くわした。

 

「ゼーベル、気を確かに持て!!」

 

 オディラギアスが、従僕に向かって叫ぶ。

 

「よく考えろ!! こやつがここにいるということは、元の世界にいる、そなたの身内には、もはや手出しできないということだ!!」

 

 はた、とゼーベルが顔を上げる。

 思いもしなかった、という色がその表情にある。

 

「この世界と元の世界がどういう関係かはまだ分からぬ。こやつが何故、このような身になっているのかも。だが、ここで滅ぼせば、こやつはあの世界には戻れぬであろう!! そなたの身内のためにも、ここで滅ぼしてしまえ!!!」

 

 ゼーベルの目に光が戻った。

 何かに突き動かされるように、彼は立ち上がり、刀をかざした。

 

 キシャア、と、古魔獣が吼えた。

 触手が重なった空間に昏い輝きが生まれ、それが爆発するように八方に飛び散った。

 

「くっ!!」

 

 ジーニックが闇の散弾に胴を撃ち抜かれてがくっと膝をついた。

 迎撃したイティキラも、全ては防ぎきれず、全身のあちこちから血を流す。

 マイリーヤの四枚ある翅のうち、一枚が弾け飛んだ。

 オディラギアスの純白の鱗が、血で赤く染まる。

 魔力障壁を張り巡らし、一番被害の少なかったレルシェントでも、額から血が滴った。

 

 ゼーベルの左肩から血が流れ、蛇の下半身から鱗が飛び散る。

 しかし、彼は、微動だにせず太刀を構えた。

 

「くらえ!!」

 

 すでに震えていない声で、ゼーベルは魔導武器の発動を指示した。

 空中に、無数の赤い多角形が生まれ、それが瞬時に古魔獣に吸い込まれていった。

 

 悲鳴が上がる。

 古魔獣の、人間の口から血が漏れ出た。

 

「や、やりましたわ、再生の魔力を止められた……!!」

 

 レルシェントがはっとして叫んだ。

 

「今のうちに……」

 

 ゼーベルが奔った。

 

 蛇の下半身をうねらせて自律する水のように素早く前進すると、巨大な繭に向けて太刀を一閃させた。

 深紅の閃光は、空間まで切り裂くかと思われた。

 一気に黒い糸の連なりが破れ、中身らしきものが噴き出す。

 

「いっくぞぉーーーー!!!」

 

 マイリーヤが、魔導銃ダウズールに魔力を籠め出した。

 銃身と銃口が輝きだす。

 轟雷のような大音声。

 赤々と輝く、小さな太陽のような魔力弾は、ゼーベルの傷つけた部位から繭の内部に飛び込み、燃え上がると同時に更に傷を広げた。

 

「先生、どうぞっ!!」

 

 ジーニックが鞭を鳴らすと、無数の魔法陣が展開されるあわいに、セクメトの炎が迸った。

 まさに太陽フレアのような白々とした光の洪水が周辺を薙ぎ払った。

 古魔獣の繭が、ごうごうと音を立てて燃え盛りだした。

 絶叫が、炎に包まれた顔から吐き出される。

 

 嵐のように降り注ぐ、燃える触手を、オディラギアスの槍が斬り飛ばす。

 炎に更に爆発が加わり、斬り飛ばされた肉体の一部が燃えながら降り注ぐ様は、さながら地獄の光景のようだった。

 

「滅びよ!! 貴様はここにいるべきではない!!」

 

 全身したオディラギアスの槍が、古魔獣の胴体を貫く。

 くぐもった爆発と共に、盛大な穴が開いた。

 

「久遠の扉よ、暗闇の門よ」

 

 レルシェントが、魔法の詠唱に入る。

 

「去るべき者を閉ざせ。彼方へと疾く運び去るべし!!」

 

 光なのか、闇なのか。

 それすら定かでない不可思議な「何か」が展開した。

 一瞬聞こえたのは、何の音だったのだろうか。

 気が付いた時には、目の前に、あの巨大な古魔獣は存在しなかった。

 それが幻ではなかったということを示すのは、天井や壁にわずかにこびりついた、焦げて縮れた繭の残骸だけだった。

 

「か、勝った……!!」

 

 マイリーヤが呻くように呟いて、床にへたり込んだ。

 

 全員が、安堵の吐息を洩らす中、ゼーベルはそこに何もないことを確かめるように、空間を凝視していた。