月刊フェアリーリポート 指導係は妖精さん

「初めまして、D9(ディーナイン)」

 

 その無垢な愛らしさを持った女性が、D9に握手を求めた。

 

「私はホリー・アニータ・シェリー。コードネームはムーンベル。ベルでいいわ。種族は、いわゆる妖精ってやつ」

 

 その言葉通り、D9の目には、目の前のハシバミ色の目と髪の女性と重なって、背中にステンドグラスのような虫の翅が生えたきらきらした女性の姿が見えた。

 全体に柔らかい満月のような色合いで、うっとりするような美しさ。

 

 メフィストフェレスの執務室、そこでD9は、ムーンベルに引き合わされた。

 

「あなたに、今後の暮らしについてこまごましたことを教えるために来たのよ。この助平な男悪魔どもじゃ、不都合が色々あるからね」

 

「黙れよ、虫けら」

 

 ダイモンが唸り、メフィストフェレスが苦笑した。

 

 彼女の手を握り返し、自己紹介しながら、D9は、なぜ彼女が最初から説得要員に来なかったのだろうと疑問に思ったが、問うまでもなく答えに思い至る。

 

 はっきり言って、ダイモンとメフィストフェレスに課せられたのは、ある意味「不帰還任務」である。

 協力的な保証のまるでない、しかも精神的に難しい状況にある、恐竜よりでかい図体の「古代の神」を言葉で説得しなければならないのだ。

 機嫌を損ねれば消し飛ばされる覚悟だったであろう。

 いわば、世界的に有名な日本の某怪獣を、舌先三寸で丸め込めと言われたようなものだろう。

 目の前の、あまり戦闘に向いているとは思えないタイプの妖精を、いきなり投入するのは愚かと判断されたはずだ。

 彼女の役目は、あくまで契約成立後に、D9の身辺について調整することであったのだろう。

 

「さて。ここでプライベートな話もなんだから。部屋を用意してあるの。多分、すぐに本国に来てもらうことになるから、何日かしか滞在しないでしょうけど」

 

 ちゃきちゃきした口調で説明し、ムーンベルはD9を客間の一つに誘った。

 ポトを抱きかかえ、彼女について、D9は用意された部屋へ向かう。

 

「さあって。まずは、あなたにも軍服を用意しなくちゃいけないわ。本国の業者に発注するから、サイズを測定させて。とりあえず、下着だけになってくれる?」

 

 促され、D9は躊躇なく私服を脱いでいく。

 自分が軍服、それもアメリカ軍の軍服を着ることになろうとは、という感慨と共に。

 

「あなた、素敵なスタイルねえ!! なのに、私服は随分地味ねえ。なんだかちょっと変な感じがするわ。向こう(本国)に着いたら、衣装も考えた方がいいわよ、おせっかいだとは思うけど」

 

 そう言われると、たしかにこんな派手な外見になってしまっては、今までの服はに合わないだろうなと納得してしまう。

 極限まで自由になる金を削られていた今までは、私服など量販店のごく地味なものが大部分だった。

 確かに似合わないというか、不自然すぎて逆に悪目立ちしそうだなという自覚はある。

 

「そういえば、私、パスポートなんて持ってないんですけど、渡航するのに……」

 

「ああ、大丈夫、大丈夫。あなたは特例。日米両国政府にも、あなたのスカウトの話は通してあるから、今現在パスポートなくても平気よ。本国に着いたら、あっちのパスポートが即座に支給されるから、心配しないで」

 

 なんと、というのが、D9の本当のところ。

 自分の身柄というのは、そんな大事になっていたのか。

 体のあちことを計測されながら、D9は国家の都合というのが絡めば、七面倒くさい壁のごとき手続きもおざなりにできるのだということに、くらくらするような思いを噛み締めた。

 同時に、自分がこれから生きるのはこういう世界なのだと思い知る。

 慣れるまで、どのくらいかかるだろう。

 

「それから、ちょっと相談なんだけどねえ」

 

 身体測定を終え、テーブルに運ばれてきたコーヒーとベーグルをつまみながら、ムーンベルはD9に切り出した。

 

「あなた、名前を変えたほうがいいかもしれないわね」

 

「名前、ですか」

 

 D9は、首を傾げる。

 

「コードネームではなく、本名の方を?」

 

「ええ。クラガノという姓はそのままでいいと思うけど、ファーストネームを変えた方がいいと思うの。実はね……」

 

 ムーンベルの話はこうだった。

 

「Oracle」に所属する神魔たちは、人ならざるものでありながら、人としての「表向きの顔」を持たねばならない。

 それは、D9も例外ではない。

 要するに、ニセの経歴を騙らねばならないのだが、D9のために「Oracle」が用意した経歴は、「日系の血が入っており、親の仕事の関係で幼いころから日本で過ごしたが、最近アメリカに帰国した」というもの。

 

「要するに、それらしくするために、ファーストネームだけアメリカ風にしてもらいたいのよ」

 

「それはかまわないんですけど、急に言われても……アメリカでおかしくない名前ですか」

 

 困惑して、D9は隣の椅子によじ登ったポトを振り向いた。

 ポトにしても困った様子だ。

 

「にゅ~~~。生粋日本産猫又には難題にゃ……」

 

「一応、こっちで、いくつか候補を用意したわ。コードネームにちなんで、『D』から始まる名前がいいと思うのよ。例えば、デイジー、ドロシー、ディアナ……」

 

「あ、ディアナにします!!」

 

 何となくピンとくるものがあったD9は、さっくりそれに決めた。

 

「にゃ!! 決断早っ!!」

 

「女神様みたいで素敵ですから。ディアナにします」

 

「そう。じゃあ、ディアナ・クラガノをあなたの当面の本名として登録するわね」

 

 そう言われ、D9は再び首を傾げる。

 

「当面の……?」

 

「そりゃそうよ。私たちみたいなものには、寿命なんてないのよ。外敵に殺されることもあるから、不死身なわけではないけど、そういう災いを退ける力なり手段があれば、いつまでも生きてられるわ」

 

 D9ははっとする。

 架空の世界では人外の常識ではあるが、いざ自分のこととなると実感が湧かない。

 

「知ってる? ダイモンなんか、もうどのくらい前から存在してるのか、自分でもよく覚えていないくらいなんですって。だから、旧き龍であるあなたの『担当』になったんだけどね?」

 

 くすくすと、ムーンベルが笑う。D9のきょとんとした顔がおかしかったらしい。

 

「まあ、周囲に不審がられたり、何か不都合があれば名前を変えたりすることもあるわけ。とはいっても、多分十年以上は先の話になると思うから、今はディアナって名前になじんでくれればいいわ」

 

 じゃ、その旨本部に送るわね、と、手元のタブレットを操作しながら、ムーンベルが断った。

 

 生まれた時からの名前だが、あの毒親の記憶と一緒に捨てられるなら、そう悪いものでもない。

 D9はせいせいしていた。

 

 その後はこまごまとした生活の注意と、雑談に費やされた。

 

 今までの自分は捨て去らなければならないのだなと、D9は改めて感じたのだが、自分でも思いがけないほどに、それらに未練らしき感情は湧かなかったのだ。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「……どうだった?」

 

 彼の自室で待ち構えていたダイモンが、姿を見せたムーンベルに息せき切って尋ねた。

 

「彼女の新しい『本名』は、ディアナ。ディアナ・クラガノ」

 

 それを聞くと、ダイモンはにやにやしだした。

 

「いかにもいい女の名前だな……」

 

「ついでに、バストはHカップ。それと、今までの男性経験だけど、家が厳しかったせいか二人だけなんですって。あんな色っぽい美人なのに、信じられないわよね」

 

 やっぱり日本て文化が違うわあ、とため息をつくムーンベルを尻目に、ダイモンはらんらんと目を輝かせ始めた。

 

「二人……そんなに慣れてないな……」

 

「それと社会人になってからはご無沙汰だそうよ? 良かったわね、あんたなら口説くのは簡単な子猫ちゃんよ」

 

 その言葉に、ダイモンは思わずガッツポーズ。

 

「以上、月刊フェアリーリポート。お代は私の口座に振り込んでおいてよね?」

 

 それだけ言うと、ムーンベルは次の仕事とばかりにさっさと出て行った。

 

 もうどのくらい前から生きているのかも知れない邪神は、意中のD9の顔を思い浮かべながら、いつまでもニヤついていたのだった……。